カテゴリ:写真雑学( 68 )   

写真雑学69 東京オリンピック1964年    渡辺澄晴   

 1960年代の、報道カメラマンの常用カメラは日本では、アメリカのグラフレックス社が戦前に売り出した(スピードグラヒィック)だった。カメラを支える左手には大きなフラッシュが付けられていた大判カメラである。一目で報道カメラマンと分かる憧れのカメラだった。しかし大きく重く、操作性の悪いカメラだから、動きの早いスポーツ写真にはそぐわない。そのことで「1964年の東京オリンピック前後のカメラ事情を聞かせてほしい」と、朝日新聞経済部の記者の取材を受けた。すでに、アメリカでは35フイルムが使える小型の一眼レフカメラに切り替えていた。その一眼レフカメラが、ニコンFだった。

 このカメラに1964年の東京オリンピックのために、Fに搭載して連写できる「モータードライブ」を開発した。ところがそのモータードライブが故障続出でお手上げの状態だった。このトラブルの情報は、スピグラカメラが主力の日本からでは得られなかったので、1962915日(私の33歳の誕生日)に、原因究明と処理のためにニューヨーク行きを命じられた。半年ほどで、幾つかのトラブルの原因を突き止めることができ、仕事は順調に進み普段の生活にも余裕ができた。その頃ニューヨークでは日本の坂本九が歌った「上を向いて歩こう」(すき焼きソング)が大流行。街を歩いていても、この歌が耳に飛び込んできた。

間もなく卒寿

 着任まもなく震撼させるニュースがテレビからまいこんだ。ミサイルを積んだソ連船が、キューバに向かう途中で、アメリカとソ連・キューバとの一触即発の危機。翌年の19631122日には、ケネディ大統領がダラスで暗殺されるというビッグニュース。アパルトヘイト(人種差別)。64年にはベトナム戦争。そして東京オリンピック。などなど、内外とも慌ただしい時代だった。

 1ドルが360円、自腹で東京とニューヨークを往復するのはとても無理。ファックスもメールもあるにはあったが・・・、妻子を日本に残しての独身生活は辛く不便だった。こんな精神的な苦痛を癒してくれたのが、カメラを持ってニューヨークの街を撮ることだった。休みになると、広角レンズと望遠レンズを着けた2台のニコンFを首から下げて撮り歩いた。肩にずっしり食い込む重いカメラを2台、(時に3台)も30歳半ばの若さと撮影の楽しさが、ゴルフやドライブに仲間から誘われても断る理由となって、ひたすらカメラを持って街をほっつき歩いた。が、今は違う。カメラは重く感じ、1人で撮影に出かけるのが億劫になった。4か月後には卒寿を迎える。第2回の東京オリンピックまであと2年余。若いころは階段を駆け上ったり、駆け下りたりしたりが、今はエレベータ・エスカレーターを愛用している。カメラも軽い物に変え、もうひと踏ん張りしてみたい。

「1963年NY」

  写真左は200ミリ望遠レンズ 右の写真は28ミリ広角レンズを使用

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by yumehaitatu | 2018-06-02 10:00 | 写真雑学 | Comments(0)

写真雑学68  あの日、あの時、あの笑顔    渡辺澄晴   

写真雑学68  あの日、あの時、あの笑顔     渡辺澄晴

群馬県・桐生市在留の写真家の斎藤利江さんから、新年の挨拶と共に2冊の本が送られてきた。一冊は小学館発行の月間人気漫画(西願良平画)「三丁目の夕日」の最新号で、その付録として斎藤利江さんが撮影した160枚に分けて掲載した「三丁目の街角スナップ」昭和30年代の春夏秋冬という写真集だった。その内容は「三丁目の夕日」の各卷に写真と文章を提供したもので、今回は過去10年間の掲載分から選んで一冊にまとめたもの。彼女は中学、高校時代に趣味として写真を撮り、カメラ雑誌やコンテストに入選、10代ころまでプロカメラマンを目指していたが、高校を卒業する寸前に父の猛反対に会い夢を断念した。彼女の父は綱広といい私の写真の先輩である。

60歳の誕生日に見つかった父からのプレゼント

斎藤さんは、父が亡くなって10数年後、遺品の整理をしていると「利江のネガ」と書かれたクッキーの缶を発見。写真家になることに猛反対していた父に処分されたと諦めていたネガはカビが生えぬように大切に保管されていたのである。何よりも代えがたい父、綱広さんからの60歳誕生日の、最高のプレゼントだった。桐生で彼女と会った時、その写真とネガを見せてくれた。チャンバラごっこ、祭り、運動会、紙芝居などなど子供たちの遊ぶ四季折々の、昭和の世界を克明に捉えたものだった。中でも花嫁さんを見つめる子供たちは、その昔カメラ雑誌(カメラ毎日一等賞)で見たもので、強烈に私の脳裏に焼き付いていていた作品だった。

写真弘社の柳沢社長を紹介し、半年後に桐生の公民館であの日、あの時、あの笑顔の写真展が開催された。このことを地元紙やNHKが取り上げると、当時の花嫁さんも孫を連れてに来たり、チャンバラの子供たちも夫婦で見に来たりで、会期中公民館は大賑わいだった。以後東京のニコンサロン(当時京橋)で開いた写真展では朝夕のゴールデンタイムにNHKが紹介、その影響でニコンサロンは始まって以来の盛況になり、銀座4丁目の交番や近くのカメラ店に「ニコンサロンはどこ」という会場の問い合わせが殺到した。

今回は漫画、三丁目の夕日の付録だが、2月下旬にはA5160ページの斎藤利江写真集が小学館より発行される。定価本体1800円+税・・・ちょっと宣伝し過ぎたが、写真を見れば納得する。しかし「これが彼女の写した写真?」と、疑う人もでてくると思うが、このことは当時モデルになった花嫁さんやチャンバラごっこ子供たちが、30数年ぶりで再開した「斎藤利江」を囲んで、当時のことを思い出して懇親していることでも証明できる。

カメラも、現代のように押せば写るというようなカメラではない。絞り?は、シャッタースピード?は、フイルムの感度は?と、露出を考え撮影した撮影基本知識なければ撮れない時代に写しもの。写された写真はそうした難度を乗り越えたフットワークのきいた実にうまいスナップ写真である。

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by yumehaitatu | 2018-02-03 12:00 | 写真雑学 | Comments(0)

写真雑学67 エコノミークラス症候群 渡辺澄晴   

エコノミークラス症候群 渡辺澄晴             

狭い飛行機の座席に長時間座っていた乗客が、飛行機から降りた直後に倒れ病気の事。

私の知っている地方の写真仲間も今年に入ってこのエコノミークラス症候群で救急車を呼ぶ大騒ぎがあった。彼は飛行機内ではなく、自宅でデジタル加工に夢中になり長時間同じ姿勢で座って作業していたのが原因だったようだ。

大相撲5月場所の千秋楽。5月28日、新しく買い換えたマッサージチェアでマッサージをうけながらテレビを見ていた。ところが突然、マッサージの作動が停止、脚部のエアーマッサージ部に空気が入ったまま停止してしまった。かなり強い力で両足が固定され、何度も足を抜こうと試みたが抜けない。作動は停止したままで動く気配はなく、狭い飛行機の座席に長時間座っていた乗客が、機から降りた直後に倒れる病気。あのエコノミークラス症候群なら、時おり足を動かせば予防することができることを知っていたが、これは強制的に足が締め付けられている。電話で助を呼ぼうと思ったが電話は手の届くところにはない。こんなとき地震でも来たら・・まさにパニック。幸い日曜日は娘が掃除に来る日、期待を持って待つことにした。 待つこと1時間余。娘にコンセントを抜いてもらうと脚部の空気がスーと抜け、両足が自由になった。

改めてこのマッサージチェアの取扱説明書を見て驚いた。警告のトップに動かなくなったり異常がある場合はすぐに電源プラグを抜いて、ご購入先またはお客様窓口に点検、修理を依頼する。感電や漏電・ショートなどによる火災のおそれがあります。と記してある。  冗談じゃない!両足の自由を奪われた者が、火災や地震にどうして対処したらいいのか。

人命に関わる事故なのに。車ならリコールにあたいするはず。手の届くところにメインスイッチを設ければ解決するのだが、メーカー側には改造の意志はないよううだ。

いわゆるエコノミークラス症候群は注意すれば防げるが、この強制的なエコノミークラス症候群を防ぐには、使用前に説明書を熟読することだ。このマッサージチェアに関しては見るのもいや、私には凶器にしか映らない。もし1人で使用する時はくれぐれもご要人。

エコノミークラス症候群 を動かさずにいることで脚の静脈内の血液の流れが悪くなり血栓が発生する。肺に到達して呼吸困難や心肺停止状態を引き起こし、最悪の場合、死に至る。

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by yumehaitatu | 2017-08-05 17:00 | 写真雑学 | Comments(0)

写真雑学66 遊び心で作品送り 渡辺澄晴   

写真雑学66 遊び心で作品送り

モノクロテレビが一般家庭に普及して間もないころ、そのテレビのブラウン管の前に、上は青、下は赤、つまり青から赤へのグラデーションになったカラーフィルターを着けカラーテレビの気分になって見たことがある。一巻の映画の一部分がカラーにしたいわゆる部分天然色映画。その映画を胸躍らせて日比谷の映画館に見に行ったこともある。天然色写真というフレーズは自然の色彩を表す写真で、人工着色写真と区別するカラー写真の旧称で我々高齢者には懐かしい響きである。

スチール写真では人工的に絵具で色を着け遊んだこともあった。その後この世界は思いのままの色が選択でき、切ったり貼ったりの創作が楽しめるデジタルフォト時代になった。

パソコンに向かい、キーボードを操作して変化する画像を眺めながら笑ったり驚いたり・・。皆さんもそうだろう思う。そして完成した労作を例会に出す。その例会に毎回欠かさず出す人と、「自信がない」「恥ずかしい」「作品作りの時間がない」等々の理由で出さない人もいる。私は今「作品作りの時間がない」で苦労している。そのため、昔の作品を修正したりしてお茶を濁してきた。もう一度自分の作品を見てみよう。例会作品は、切ったり貼ったりの画像処理をしたものでなくても、撮ったそのままのストレート写真でもよい。

今月の作品もストレート写真に近く、主題の被写体に懐中電灯を当てただけの簡単なものである。用いた懐中電灯は白色LEDライトで色温度は自然光に近く、小型で軽量なので夜間撮影など撮影必需品として用意しておきたい。この作品は、家の近くで見かけた赤い新芽である。背景には木漏れ日が見えるが、写真左の新芽と右の新芽は影の中。そこでLEDライトで左の新芽に照射して右の新芽と対比して見せた。このままでも良いが、ちょいと欲が出て、プリント時には明るさをマイナス30コントラストをプラス10にしてみた。(写真参照)これでも立派なデジタル加工作品である。

もう一度、今まで撮った作品を見てみよう。「全体を少し暗くしてみたら・・」「この部分の色を変えてみたら・・」「この部分をぼかしてみたら・・」こんな遊び心が思わぬ傑作を創るものである。是非トライしてみよう。
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by yumehaitatu | 2017-06-03 07:46 | 写真雑学 | Comments(0)

写真雑学65 パソコン    渡辺澄晴   

写真雑学65 パソコン    渡辺澄晴

確定申告  ドリーム展を明日に迫った3月1日、確定申告に行ってきた。この確定申告は今まではすべて妻にまかせていたが、今年は自分でやらなければならない。昨年の申告控えを探したがどこにあるのか見当たらない。確定申告の相談、作成の窓口は桜木町の日石横浜ホールの中にあると聞きそこへ行った。会場内はいっぱいの人が順番を待っていた。列に並んで待っていると、しばらくして係員から書類を渡された。見るとマイナンバーを記載する欄がある。これを記載しないと受け付けないという。不覚にも家に忘れてき。急ぎ戻り再び桜木町へ。相変わらず会場内は申告者でいっぱいだった。渡辺さんは申告書のパソコンを使えますか?」「使えます」「ではCの列でお待ちください」。言われた通りCの矢印に従って行くと数人の人が並んでいたが、隣のA、Bの列にはかなりの人が順番を待っていた。この人たちはパソコンが使えぬ人たちだった。

一人の係員がA・B・Cの3人の面倒を見るのだが、C列の我々はあてがわれたパソコンで言われた通り、氏名、住所、生年月日、マイナンバー等々を打ち込むだけで、作業は簡単に終わった。係員に報告すると、「これで終わりです。この番号札を持って奥の受付へ行ってください」。受付に行くとすでに書類ができていた。「住所氏名など間違いないか確認してください。これは控えです。お疲れさまでした」係員の丁寧な挨拶をうけた。A,Bの列には大勢の人が、番の来るのを待っていた。それにしても、スマホのキーをポコポコやるくせに、パソコンが使えない人が多いのにはおどろいた。

フォトドリーム展  そのパソコンを駆使してのフォトドリーム展も無事終った。入場者も昨年より多いと聞いている。作品も傑作揃いで、その横に貼られたレシピも力作だった。出展者44人の皆さんが、一生懸命制作した作品をどんな批評をするのか、期待も大きいと思う。それだけに批評する側も軽々しくは喋れない。講評準備のため、多田正司さんがzipに圧縮して出品作品をメールしてくれ、松浦孔政さんがレシピを郵送してきてくれた。この44人の作品とレシピを何度も見比べどのように話そうかと策を考えた。が、しかし、幸か不幸か持ち時間は40分。これでは一点の作品にかける時間は40秒足らずである。作品を見る目は人によって異なると思う。ここは一言評論を、ぶっつけ本番で臨むしかないと思った。

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by yumehaitatu | 2017-04-01 17:00 | 写真雑学 | Comments(0)

写真雑学64 コンテスト            渡辺澄晴   

写真雑学64 コンテスト                      渡辺澄晴

 私の所属している写真団体に、一般社団法人日本写真作家協会(JPA)というのがある。そのJPAの写真公募でこのほど、新潟市西区から大賞、金賞、銀賞を獲得したという地元新潟日報の新聞記事が新潟の友人写真家の羽賀康夫氏から送られてきた。

 県人3人上位賞を独占、応募総数は2.752点驚きの快挙。という見出しで3人の作品と顔写真が載っていた。いずれも新潟県西区。前回も大賞を受賞したのは女性(岡山県)だったが、今回も女性。その受賞作「幽玄」は、新潟県十日町市松之山地区の棚田を情趣に富んだ幻想的な雰囲気を写したもの。棚田といえばカメラマンが大勢狙う撮影スポットだが、よく見る棚田写真とは一味違った自然と光のコントラストを、一瞬のシャッターチャンスで捉えた自然と光の美しいファンタスティックな作品。公募作品は一般会員作品とともに昨年1213日から20日まで開催され会期中は5.022で賑わった。その後は大阪市立美術館、米子市美術館、仙台、岡山へ東京展と同じ内容で巡回展示される。当会から荒木優子さん、斎藤智徳さんが入選した。

 第28回からJPA公募は公表済みの作品も応募ができるよいになり、以前からデジタル加工の作品もあったが、特に創作部門を新設し、新しい表現による斬新な作品を期待する新しい部門で、われわれデジタル研究会には打って付けの部門である。

 110日の午後、第36回合同写真展フォト17を見に行った。市民ギャラリーのB1から3F全館に19のグループの作品が展示され、それを丹念に見ているうちに右足に痙攣の兆候がでたため一たん休息、‣・。とにかく見ごたえがあった。県や市が主催ならともかく、19団体をまとめて立派な写真展を開いたフォト実行委員会の統率力も素晴らしいと思った。

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by yumehaitatu | 2017-02-04 17:00 | 写真雑学 | Comments(0)

写真雑学63 遺影 渡辺澄晴   

写真雑学63 遺影

文化勲章を受章し昭和の日本画家を代表した堅山南風画伯の日常生活を写してほしいと、南風家から友人を通して依頼があったのは、今から36年ほど前の1980年の春。制作は東京世田谷の自宅ではなく、静岡県田方群は伊豆半島の富士山の見える山の上の別荘で、さすがに閑静な場所だった。当然ここへは定期バスはなく、マイカーでしか行けない。撮影時間を考えると、とても日帰りは無理。相談の結果、別荘に泊めてもらい画伯の一日を観察しながら撮影することにした。休日や休暇を利用して数日画伯と行動を共にしたこともあった。「こんど渡辺君はいつ来るの。」写真嫌いと聞いていたが、画伯に気に入られていたようだった。久し振りにまとまった写真が撮れると、こちらも張り切った。

その年の1230日肺炎のため田方の別荘で画伯が死去したことを新聞で知った。急ぎ上野毛の自宅に伺った。関係者から「渡辺さん、遺影になる写真撮っていませんか?」青山の斎場に飾る遺影だという。そのつもりで撮ったのは一枚もない。が、あの大催場に飾る写真なら、いつか秋山庄太郎さんの写した堅山画伯の威厳のある肖像写真を見たことがある。あの写真を飾らして貰おう。ご無沙汰のお詫びがてらに麻布の秋山事務所に電話した。「サイズを調べて伸ばしておくよ」と先生は気持ちよく引き受けてくれた。葬儀の当日、檀上には巨匠秋山庄太郎撮影の威厳に満ちた堅山南風画伯の遺影が飾られてあった。

 

妻の遺影 「渡辺キミさんは、ステージ4(末期)の肺癌です。お年ですから手術も放射線治療もできません。最後に打つ手は抗癌剤治療ですが・・」昨年の3月呼吸困難をおこし救急車で病院に運ばれ、検査の結果担当医師から告げられた言葉である。抗癌剤といえば、頭の毛が抜けるというのがすぐ目に浮かんだ。ステージ4の癌ならどんなに頑張っても余命は長くはない。毛が抜けないうちに写真を撮っておこう。そう思って妻の了解をとり挑戦をしてみたが、お互い気持ちのタイミングが合わず。満足した写真が撮れないでいた。

日を追って酸素の量が多くなり、持ち歩くボンベでは最高5にしないと歩けない状態になっていた。

 1022日(日)、妻は赤いセーターに赤い帽子をかぶり緑のスカーフを首に巻き外出の準備をしていた。月に1回、気の合った近所の奥さんたちが茶菓子を持ち寄り談笑するお集り会で、それをサロンと言っていた。妻はそのサロンを楽しみにしていた。「赤に緑。いい組み合わせだね!帽子も似合うよ」子供に言うように褒めた。歩いて1分もかからぬ裏の家に行くのに・・。「せっかくだから写真を撮ろう。」白い襖の前に妻を立たせ撮影の準備にはいった。「酸素のクダ外してよ・・」過酷な要求だった。健康な人なら「息を止めろ!」に近かったと思う。「こんなの着けては様にならないわね!」と言って妻は鼻からクダを外した。急ぎシャッターを切った。気持ちのタイミングが見事に合った。手ごたえありのサインを指で妻に送った。妻もホットした顔を見せ、満タンのボンベを転がしサロン会場へ向かった。<製作中の堅山画伯>
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by yumehaitatu | 2016-12-03 17:00 | 写真雑学 | Comments(0)

写真雑学62 越智さん 渡辺澄晴   

写真雑学62 越智さん                 渡辺澄晴

日本光学工業株式会社。(㈱)ニコンの前の名称である。製造されたニコンカメラがユーザーの手元に渡る流通経路は、特約店を通してカメラ店、そしてユーザーという手順になっていた。当デジタル研究会の前会長越智祥之さんは、その特約店樫村のセールスマンだった。すらりとしたスリムな青年でいつもニコニコと笑顔で我々に接してくれた。その越智さんと奇遇にもこのデジ研で一緒になった。ジョークを云い周囲の人を笑わすことも昔のままだった。ニコンにはニッコールクラブというユーザーのための組織があり、年に何度か各地でモデル撮影会が今も行われている。その撮影会や新製品発表会、カメラショー等々のイベントには特約店の越智さんも手伝いに来てくれた。越智さんを知ったのは1964年の東京オリンピック直後だから50年以上にもなる。細く長い付き合いだった。あの笑顔を思い浮かべながら、謹んで故人のご冥福をお祈りします。

どんなに時間をかけようが、お金を掛けようが作品は結果で評価される。その作品には作者の個性が出るように評価も人によって異なると思う。マンツーマンなら言いたいことも言えるが大勢の人の前では作者のことも考え、ひとことも言えず遠慮してしまうこともある。しかしその逆もある。越智さんの作品はどこかひとこと言わせるようなスキがあり、遠慮なくそれを指摘できた。そのことで会の雰囲気を和ませたことにも多かったと思う。

いま写真は多様化する価値観に、当会のようなデジタルフォトという新たなテクノロジーが加わり、どこに向かって進むのか、不確実で未知数の多い時代になった。工夫を凝らした皆さんの作品を毎月見るのはとても楽しく勉強になるが、この苦労して創った作品を講評するとなるとかなり気をつかっている。「出来もしないくせに・・」「勝手なことを言うな・・」など周囲から雑音が聞こえてくる思いを感じながら、難解な加工作品でも講評は鑑賞側の目で評価して、仕事だと割り切りひとこと言わせてもらっている。その小生、今年9

15日で88

歳の米寿を迎えた。どうかこれからも年の功に免じて多少の毒舌はお許しいただきたい。

写真説明  札幌で行ったニッコール撮影会土門先生(土門拳)と木村先生(木村伊兵衛) 越智さんも参加してました。】

          土門拳

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木村伊兵衛
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by yumehaitatu | 2016-10-01 17:00 | 写真雑学 | Comments(0)

写真雑学61     反骨のボクサー     渡辺澄晴   

写真雑学61     反骨のボクサー     渡辺澄晴

 東京オリンピックを2年後に控えた1962915日、社命によりニコンのニューヨーク現地法人に転勤した。妻と2歳の長男を日本に残しての単身赴任だった。偶然にもこの日は私の33歳の誕生日でもあった。その頃の日本経済は1ドルが360円の時代で、まだ急成長以前。勤務先のオフィスは、マンハッタン5番街111番地。ブルックリンのアパートから地下鉄に乗って30分の所にあった。

 赴任して間もなく、UPI通信社の依頼でシカゴに飛んだ。世界ヘビー級チャンピオンフロイド・パターソン対ソニー・リストンとのタイトルマッチを、リングの上から撮影したいというUPI通信社の依頼によるものであった。野球場の特設リングに250枚撮りカメラを5台取り付け、それらをリングサイドからカメラマンが1人で操作する工事である。今なら何でもないことだが、当時としては画期的な企画だった。試合は1ラウンドでチャンピオンのパターソンがリングに沈んでしまうあっけない結果だった。翌朝新聞紙上にはノックアウトの連続場面がユニークなアングルで載っていた。

嬉しいパニック 1960年、ローマオリンピックで金メタルを獲得したモハメド・アリがプロに転向し1964年、前述のソニー・リストンを破り世界ヘビー級の王者となった。そのモハメド・アリが1976616日プロレスラー、アントニオ猪木とによる格闘技戦で来日した。テレビでは羽田空港に2000人のファンが押し寄せ、大混乱の様子が報じられた。その彼を「ニコンの工場(品川‣大井)に呼ぼう」と、いうことになった。「来るわけがない」「駄目でもともと」「無理は承知」」で、交渉したところ、あっさりOKの返事がきた。まるで狐につままれたようだった。

 試合を2日後に控えた超多忙をさいてモハメッド・アリが乗った車が工場に到着した。休む間もなくニコンF3の組み立てラインを見学したが、その途中従業員の作業着にサインしたり女性社員にボクシングのポーズをしたりのサービス。他の職場の人たちは社内放送の制止も聞かず仕事を放棄して見学通路に待ちはだかる嬉しいパニックのひと時だった。帰りには、ささやかな土産だが、ニコンF3を寄贈した。そのモハメッド・アリが去る6月3日に亡くなった。

 人種差別を受けた悔しさから獲得した金メタルを川に投げ捨てたり、ベトナム戦争に反対し、兵役拒否で禁固5年と1万ドルの罰金を科せられ、その後も信念を曲げずに戦い続け、1971年に最高裁判所で無罪を勝ち取った反骨のボクサーモハメッド・アリさん。謹んでご冥福をお祈りします。
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by yumehaitatu | 2016-08-06 17:45 | 写真雑学 | Comments(0)

写真雑学60  米寿 渡辺澄晴   

米寿    渡辺澄晴

しばらく音沙汰のなかった写真家Mさんから電話があった。酔っぱらっているのか呂律の回らないしゃべりだった。「酔っぱらって電話するなんて無礼な奴!」と思いながら聞いていると、ひと月前に脳梗塞を患い目下リハビリ中で、ようやく室内を軽いものを持って自力で歩けるようになったと云うことだった。早速、お互いに「会いたいね!」ということになった。数年ぶりにMさんのいる広尾駅前のマンション10階を訪ねた。玄関を入るとすぐに「8」と記したレースカーの真っ赤なカバーが目に入った、その隣には本田宗一郎氏から贈られたというホンダのレースカーのエンジンが、ガラスのケースに収められ、モータースポーツ関連グッズとともに陳列してあった。

 Mさんは、六本木とスイスに事務所を持ちIRPA(国際レーシングプレス協会)のメンバーで内外出版社の依頼を受け世界を渡り歩くモータースポーツの写真家である。その彼が手足と口が自由にならなくなったのだから、さぞかし気持ちが苛立っているかと思っていた。ところが会ってみると意外にもクールだった。「なべさん! 俺はこの病気を機に車の運転も撮影も辞めることにした。もう82だぜー」「なんだ! まだ82か、俺は87だぞ、間もなく米寿だよ、車の運転やモーターレースの撮影は無理でも、花でも風景でもあるじゃないか、世はデジタルの時代。カメラもレンズも軽くなったしフイルム時代とは雲泥の差だよ!」「そうだ、すごいよなーデジタルは、回復したら世界の桜でも撮ってみるか。」Mさんは、もつれた舌で熱っぽくよくしゃべった。やはりこの人、写真とは縁の切れない人だと云うことがよく分かった。

 さて小生は、あと90日ほどで88歳の米寿を迎える。米寿なんてまだ遠い先の先と思っていたが、ついにその日がやってきた。昨年は転倒事故が3回あった。暮れには駅の階段から転落して、顔面15針を縫う大怪我をした。そんな事もあって遅きに失したが、考えを変えた。まず自宅の玄関口、階段、風呂場に手すりをつけた。そしてビルや駅の昇降は、エレベーターかエスカレーターを使用し、階段は手すりを利用することにした。運動と称して駅の階段を歩いて降りたり上ったりしたその結果が事故につながったのである。「元気ですねー」「若いですねー」と云われるのは、裏を返せば「躰を大事に、歳を考えて・・」などの忠告と受け止め、その有難い労りと激励の挨拶に感謝しつつ、これからも生涯現役で頑張りたい。

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by yumehaitatu | 2016-06-04 18:15 | 写真雑学 | Comments(0)