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8月号   

堀田義夫の「やぶにらみ論法」(28)

写真的に「見る」こと

 久しぶりに会った知人に、「まだ写真やっているんですか?」と聞かれて、一瞬なんて応えようか迷った。いまの時代、楽しい趣味や道楽はごまんとある。浪花節でもあるまいし「写真一筋55年」なんて言ったら「バカじゃないの?」と思われはしないかと感じたからである。
 でも乾板の時代から、ロールフィルム、カラー写真、デジタルフォトと写真に親しんできたことを思うと、その過程で楽しみ方が違っているので本人はちっとも退屈しない。そんなことを言い訳しても納得してくれるとは思わないので、曖昧な笑いでごまかした。
 本来、愚直な性格だから、写真をやることをマラソンに譬えて「立ち止まったらおしまい」と自分に言い聞かせて続けてきたし、これからも体力、知力がある限り写真をメディアとした表現活動から離れられないと思っている。死ねほど写真が好きなのである。

 過日、当研究会の「伊豆一周の撮影会」に参加した。梅雨時ということもあって、役員たちは天候を非常に気にして傍目にも気の毒に思えた。
 わたしにも経験がある。「河津桜を写そう」とバスを仕立てて一泊撮影会を実施したのだが、当日は朝から雨が降った。バスの中はいっこうに盛り上がらないし、現地に着いても参加者の多くはバスから降りようとしないのである。
 「写真好き」の人だったら、雨には「雨が似合う被写体」を探すだろうし、風なら「風の似合う被写体」を見ようとする。そして、それに伴う表現方法を考えるだろう。
 ところが、河津桜を写そうというキャッチフレーズで集まったんだから「富士山が好き」「花が好き」といった「被写体が好き!」の人たちだった。被写体のよさに引きずられて写真を撮らされているんだから、天気が悪ければ落ち込むのも無理はない。と自分をなぐさめ気持ちを落ち着かせた。
 このことは「写真的にものを見る」という学習がないからで、もともと写真を写すということは、その場に立ち会い「見る」ということから始まるのである。
 ところが「見る」という行為には段階がある。第1段階としては「ボヤーッと眺める」、第2段階は「オヤッ!と思って見る」、第3段階になると「目を凝らして見る」、第4段階では「物事の真の姿を理解しようとする観察」、第5段階になると「事の本質を見抜こうとする洞察」になる。
 そこでよく考えてみよう。第1段階の「眺める」では、ボヤーッとしか眺めていないんだから説明的な写真しか撮れないだろう。写真をメディアに作品を生み出そうとするなら、「見る」という行為を「写真的に見る」、「見る」段階の次元を高める。ということを心がけてみたらどうだろう。

by yumehaitatu | 2006-08-05 23:43 | やぶにらみ | Comments(0)

やぶにらみ論法」(27) お任せ人生からの脱却   

堀田 義夫の「やぶにらみ論法」(27)
お任せ人生からの脱却

  21世紀は、もしかしたら20世紀の常識がすべて非常識になる時代かも知れません。
すでに「女は度胸、男は愛嬌」「子はかすがいに非ず」などといった逆転現象が多数起きています。
自分の亭主や男を保険金目当てに殺す、我が子をしつけと称して死なせてしまう。といったことが日常茶飯事です。
こうした時代の流れに中で「自分のことを自分で決める」ことも時代遅れになりそうな雲行きです。というのも、昨今ライフコーチなる職業が年々隆盛を極めている傾向があるからです。
これまで悩みや心の傷は精神分析医のカウンセーリングを受けるのが普通でした。それがテレビなどを見ていても、怪しげな女占い師や元○○大統領夫人といった連中が、もっともらしくライフコーチの役を果たしています。
ところが問題は精神分析医のような研修を受けている人ばかりではないということです。
しかし、個人的相談に乗るのに資格認定はいらないというのならそれもよいでしょう。そうしたことが安易にライフコーチなる職業を隆盛にさせている要因になっているようです。
こうした風潮は趣味の世界にも確実に浸透しています。ちょっと写真のことを知っているから、あるいは経験が人より長いからといった人たちがライフコーチとして君臨しています。「お任せ族」にとっては、非常に便利な存在なのです。
私も仕事柄、写真クラブの撮影会によく同行を求められます。ところがそこでの評判はすこぶる悪いのです。
その理由として「堀田は撮影の指導をするより、自分の写真を撮っている」ということにあるらしいのです。
  お任せ族の言い分を聞いてみると「なにを撮っていいか分からないのになにも教えてくれない。○○先生は三脚にカメラをとりつけファインダを覗かせて、このように撮れば構図はいいし、よい写真が撮れると教えてくれる」と比較される。
なるほどそういうことかと納得した。ところが、「なにを写したらいいか分からない人」に三脚にカメラをセットしてファインダをのぞかせ、こう撮るのですよ」といったら、誰の写真なんだろう。結局ライフコーチに頼るという 「お任せ人生」そのもので満足するように慣らされてしまっているのでしょう。
昔は写真を写すために、いろいろ技術的な制約が ありました。たとえばピント合わせ・被写界深度の活用・適正露出・フィルターワークといった撮影技術です。それらのことは自分の蓄積した経験で指導することができました。
ところがいまのカメラで撮影しようとすると、すべて「お任せ」で済んでしまう。いうなれば使う側がそうした「お任せ仕様」を望んでいるからです。
最近のカメラにはピクチャースタイルとかいう機能を搭載し、「風景」は鮮鋭に鮮やかに「人物」は肌色の再現性に重点を置くなどといったことがカメラ任せで、できてしまう。だから、撮影に関する技術的な指導はほとんど必要がなくなってしまったのです。
このことを言いかえると写真術はもうメカがカバーしてくれるのです。写真をメディアに表現活動をするのなら、写真的にモノを見る目を養うことが肝心だと思うのです。
先日、当研究会の一泊撮影会が伊豆半島で行われたとき、ある会員から蜘蛛の巣にたまった水滴を見て、「私には宝石のように見えるのだけど、そのための工夫はありますか?」という「自分の表現したいことを具体的にイメージした」質問に接して嬉しかった。
  また、ある会員は私が撮影しているのを見て、「なにを思ったり、感じたのですか?」と撮影者の心の内を探るような質問もありました。このことも私の心に響きました。
  撮影会は仲間と一緒に撮影を楽しむということもありますが、同時に仲間に触発されて「写真的にモノを見る目」が養なわれたり、あるいはモノの見方を盗むことができるのです。
作品創造の秘密を、版画家の池田満寿夫は「天才は天才的に剽窃する」といっています。質問をした仲間は、決して「お任せ人生」などに流されないと、心強く思いました。

<松崎の「なまこ壁の屋敷」を当日の情景から「雨でも降った夕景だったら似合うだろう」と、その思い入れを画像処理で表現しました。>

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by yumehaitatu | 2006-07-02 00:33 | やぶにらみ | Comments(0)

「やぶにらみ論法」(26) 2006年6月   

堀田 義夫の「やぶにらみ論法」(26)

人のつながりの意外な縁

 5月の研究会において渋谷隆氏のご尽力で和紙の インクジェットプリント用紙のサンプルが会員に配られた。提供元は(株)コスモスインターナショナルで、社長は 新山洋一氏。渋谷氏の話から、父君は新山清氏だと 聞かされた。その新山清氏はわたしが東京写真研究会に入会した昭和32年、審査員として指導に当たられていた恩師である。以来、約15年にわたって自宅にも 招かれ大変 お世話になった方なので驚いた。
過日のプリント用紙提供のお礼をかねて当研究会の写友たちと伺い社長と面談し、昔日の思い出を語り合い、併せて「新山清遺作集」まで頂いてきた。ご子息とは 渋谷氏を介しての出会いである。
折良く自社のギャラリーにおいて企画展「新山清・ 清岡惣一・友情展」が開催されていたので鑑賞した。 同好の写友たちはもう40年も前のモノクロ写真に息を飲み、改めてフォトジェニックな影像とその研ぎ澄まされた感覚に驚きを隠さなかった。
ところが、その企画展の一方の「清岡惣一」氏は、 当会のPC分科会・応用編の講師、村木捷夫氏が現役時代、企業内の写真部で指導を受けていたということを聞いた。その清岡惣一氏と私は「東研」で赤穂英一・ 秋山青磁・伊藤蒼海・新山清氏らの指導の元で月例会の年度賞を争っていたこともあって思い出もいっぱい ある。人は意外な縁でつながっていると思った。



ところで近々発売を予定している(株)コスモスインターナショナルの「ピクトラン(和紙)」は、ちょっと変わった印刷効果のある用紙で、プリント後の表面に不思議な照りがある。インクジェットの場合、様々な紙質のプリント用紙を試せることが嬉しい。
紙は素材によって地の白色が微妙に違う。マットの ものと表面を樹脂コーティングされた光沢紙とでは色の出方も違ってくる。それを作品作りに活かせるのが   インクジェットの大きな魅力だ。「表現の幅」という点ではデジタルプリントは銀塩プリントに比べて大幅に広がっている。和紙にプリントして和風テイスト(味わい)をだすなんてことは、銀塩プリントにはなかった作品作りを楽しむことができるのである。
デジタルフォトの魅力は、撮影からプリントまで総合的に関われることだ。濃度をちょっと上げてみたらどう なるのかとか、彩度を少しいじってみたらどう変わるのか。プリントする紙の種類や用途、色調やコントラストを好きなように調整して試行錯誤することができる自由度は 大きな魅力だ。銀塩らしく印刷しなきゃ、なんて意識は捨てた方がいい。もともと表現というものに正解なんてものはないのだから……
「ピクトラン(和紙)」の特色を知るためのテストプリントをしながら、新山清→堀田義夫→渋谷隆→新山洋一→堀田義夫といった人のつながりの意外な縁をしみじみ感じ、人の輪こそ、私にとって人生の最大の財産だと改めて思った。

by yumehaitatu | 2006-06-05 15:45 | やぶにらみ | Comments(0)

「やぶにらみ論法」(25)   

堀田 義夫の「やぶにらみ論法」(25)

~「本気」に応える~
 わが家は次男夫婦に孫二人の6人家族。その孫が高校に入学したのを機会に家族で北陸地方の旅行を計画し実行した。
 早春の北陸はまだ旅行シーズンには早かったが、金沢在住の写真家が我々一行のために、曹洞宗の大本山・永平寺の見学や奇岩怪石のそそり立つ  東尋坊。義経伝説の残る能登金剛や輪島の朝市、輪島塗工房の見学。また加賀懐石料理の賞味。  城下町金沢市内や兼六公園といった名所案内を つとめてくれて大変充実した旅行だった。だから家族に対して心の内では得意だった。
 ところが帰宅して家人に感想を求めたところ、   若夫婦は「まあまあでしたね」と、せっかく親父が  やってくれたのだから、ちょっと有り難がっておこうといった程度の感想。
 主役の孫は「疲れた!だったら現ナマで貰った  方が良かった!」と本音。小学3年生の孫だけは 「珍しいものをたくさん見れたし、美味しいものも   食べられたり、おじいちゃん、また連れててってね」と嬉しがった。
 こうした感想に接して「みんなが喜ぶだろうから旅行に連れていこう」と思った結果は、単に自分の満足感を充足させているだけだったと気づいた。以来、家族が「本気になって旅行に行きたいと言わなければ  行かない!」ということに決めた。このことは写真にも通じる。相手が興味を持たないのに、自分の知っていることを押しつけても、それは自身の満足感を充足させているだけ、相手にとっては迷惑なことであったり無駄なことである。
 いま当研究会では「PC分科会」で『基礎編』   『応用編』を開講している。文字が示すとおり基礎編はデジタル処理を行うに当たっての基礎的に必要な知識を習得することを目的としている。
 しかし『応用編』は前述のわたしの体験した北陸 旅行ではないが、「みんなが喜ぶだろうから応用編をやってやる」というのではなく、「本気になって、作品作りの共育の場にしたい」そんな雰囲気を期待して いた。その教室での一こま。
 A会員はフィルターのメニューを探っていたら  「墨絵」というのがあった。そこで「あの作品を墨絵のように加工できたら……」と思いついた。だがどう  やっていいのかわからない。いろいろトライするの  だがいい方法が見つからなかった。
 それを見ていたB会員が「レイヤーを複製して、ぼかしをかけて云々……」とアドバイスしていた。それをヒントにA会員は墨絵風の見事な作品を作り上げた。
 わたしはB会員に聞いた。「よくそんな手の内を  簡単に明かしたね」と。するとB会員は「本気になって作品を作ろうとしている人には本気に応えなくてはね」という答えが返ってきた。
 デジタルによる画像処理の方法に正解があるわけではない。基礎編をマスターしたら後はその知識をいかに自分の知恵として活用するかが問題である。  そのヒントをお互いに与え合いながら、応用編教室が「共育」を実践している情景に接して嬉しかった。

by yumehaitatu | 2006-05-06 22:09 | やぶにらみ | Comments(0)

やぶにらみ2006年4月   

堀田 義夫の「やぶにらみ論法」(24)

~常識という「非常識」~
 巷間、写真展は盛況である。かつて展覧会に出品し入選でもすれば、それは作家にとって ステータスであった。ところが社会の仕組みも 変わり既存の公募展における権威主義や偏った評価を嫌い、同好者を募ってのグループ展が盛んだ。その功罪について論じようとするものではないが、最近体験したことを書き記す。
 私のところにまとめて20~30枚の展覧会の 案内状を同封した郵便物が届く。どういう意味なのか考えると、きっと、「知り合いが多いだろうから貴方が配ってくれ!」という下心があるからだろう。
 これはまだ百数十円の切手代がかかっている。凄いのになると出会ったそのときに数十枚手渡される。なにも特別の縁故もないのに?と思いながらも多少の顔見知りなので無碍に断るわけにもいかないので受け取るが、考えれば 非常識な話だ。主催者側には、経費削減という狙いがあるだろうが、受け取った側はそのために何らかの行動を起こさなければならない、まったく迷惑な話である。
 ある展覧会で、作品一点一点に撮影月日がことさら記入されていた。ところが、どの作品も同日写されて、しかも時間帯は2時間くらいの間に写されたものらしく、同じような写真ばかりが並んでいた。内容が良ければ撮影時間の長短ではないだろうが、似たような写真の羅列にはいささかむっとした。
 また、四つ切りをボール紙に貼り付けた40点ばかりの規模で「○○クラブ合同大撮影会」と 銘打った展覧会を見た。印象としては同好者のおさらい会だ。関係者によると、「いかに、出品者の負担をかけないかを考えた」という。どちらにも真摯に写真を見ていただくという誠意や 感謝の気持ちは感じられない。むしろ、「見せてやる!」という不遜な態度すら感じる。わざわざ足を運んで見てもらう人のことを、どれほど考えたのだろうかと疑問に思った。
 話は飛ぶが、ある展覧会の打ち上げで「ここにいる人たちの中では、私がいちばん写歴が長いのではないか」と自慢していた人がいた。私は「そんなに長い写歴があってその程度?」と聞きたかったがぐっと息をのんだ。
 また、ある人が何処何処の審査を頼まれて……と暗に自慢したげな話しっぷり。これも常識とはほど遠い非常識の世界。主催者は事務的に審査を依頼するが、出品者に懇願されて審査員に選ばれたわけではない。若い頃、展覧会に 出品しようと思ったとき、いちばん気になったのは審査員の顔ぶれで、それによって出品するかどうか決めていた。だから審査を依頼されたからではなく、あの人に審査をしてもらいたいという 信頼を勝ち得たときに威張ってもらいたいと思うのである。
 こうしたグループ内の「常識という非常識」がまかり通ってはいけない。今年も「夢の配達人展」は開かれる。その際「常識という非常識」を犯さないようにお互い心しようではありませんか。

by yumehaitatu | 2006-04-01 21:56 | やぶにらみ | Comments(0)

やぶにらみ23   

堀田 義夫の「やぶにらみ論法」(23)

~伝統に学ぶ~
 若い頃の話である。陶芸家浜田庄司氏(1894~1978)を取材する先生のお供で益子焼きの窯元へ行ったときのことだ。絵付けをしている老婆の手練に思わず「凄いもんだうまいねー」と感歎の言葉が口をついて出てしまった。老婆は仕事の手を休めることもなく「なにが凄いもんか!50年も60年もやっていれば誰だってこんなもんは簡単じゃ!」と吐き捨てるようにつぶやいた。
 私はほめたつもりが、老婆にとってはお世辞にしか受け取らなかったのだろう。その場に気まずい空気が漂ったことをいまでもはっきり覚えている。
 職人の技術を素人が見て「感心」するのは当たり前で、確かに「うまいねー」といっても、ほめたことにはならないということに気づかされた。この老婆がいうとおり長くやっていれば誰でも経験に応じて技術力は身に付くものなのだ。技術力に長けた作品が必ずしもよい作品かといえば、そういうことはない。確かな技術力の写真には感心するが、いっこうに感動を伴わないものもある。言い替えれば「感心」は技術力で獲得できるが「感動」は技術力がなくても得られることがある。
 博労の亀吉が借金の催促をした手紙がその表現力の強いことでよく例題に使われる。
「金一両 くすか くさぬか くさぬというなら亀がいく 亀がゆくにはただおかぬ 亀の腕には骨がある」
 脅迫状みたいな手紙で決して技術的に優れた文章ではない。いや、むしろ文章としては稚拙であるともいえる。だが、それでいてこの手紙には亀吉の気持ちが「感動的」に表現されていると思う。
 写真も同じ、うまくツールを使うための技術力を習得してもよい作品が生まれる保証はない。技術力は乏しくとも、達意(意図を十分に行き届かせる)をくみ取れる作品を作ることが大切なのだ。
 写真はアナログでもデジタルでも手法が違うだけで、喜怒哀楽や好悪。あるいは情動・気分・情操など「快い」「感じが悪い」といった心的過程の近似値を得るのはプリントのトーンである。だから写真のトーンはもっとも大切な要因になる。トーンを無視した作品に傑出した作品はない。
 また、色彩としてイエローは、明るさ・さわやか・希望。マゼンタは、妖艶・甘さ。シアンは、寂しさ・涼しさ・神秘。ブルーは、冷たさ・静寂・若さ。グリーンは、知性・平和・やすらぎ。レッドは、派手・活力・情熱。といった性格を秘めており、こうしたことがシャッターチャンスと共にうまく組み合わさったとき、感動的作品が生まれるのである。
 写真上達の道はこうした写真の持つ本来の伝統から学び取ることなのであろう。そこで当会では、PC分科会に技術力を習得するための基礎講座と、作品作りに重点を置いた応用講座を開講することにした。この両輪をうまく結合させて写真の質的向上を図ろうと思うのである。

by yumehaitatu | 2006-03-05 00:34 | やぶにらみ | Comments(0)

やぶにらみ22   

堀田 義夫の「やぶにらみ論法」(22)

~夢を育てる~
          

  今朝の新聞に(平成18年1月14日付け)ニコンが銀塩カメラから撤退するという記事が載っていた。  この記事の中に見落とせない現象が指摘されていて興味深い。それは巷間、秘かにニコンがアナログ  カメラから撤退するという噂が広がると、従来機種の受注増で在庫が底をついて量販店では悲鳴を上げている。というのである。
 一方で、暫く前から量販店の店頭からアナログ関係の感光材料が品薄になり、特にモノクロ印画紙は異常なほど高騰した。カメラの生産量の90%をデジタルカメラが占めているから、アナログ用品の需要が 少なくなっているからだろう。
 一面矛盾したようなこの現象は不思議でも何でも ない。生産中止が決まったら、購買者が増えたというのは、「写真が好き」なのではなく、「カメラが好き」なので、俗に言われる「カメラマニア」という作品を生み 出そうとすることとは無縁な位置にいる人たちなのである。
 またアナログ関係の感光材料に至っては採算性を無視してまでも、生産を続けなければならないメーカー側の努力に同情せざるを得ないし、売価の高騰も仕方ない。こうしたことが「時代の流れ」というものだろう。
 ところがそれでもアナログにこだわり続けている人たちがいる。その信念を立派と評価すべきか、ただ単なる頑固者と思うべきかは別として、これは「アナログマニア」と称すべき人種なのである。
 写真を表現のメディアに選ぶとき、それがデジタルであろうとアナログであろうと、便利だと思う方を使えば いいのであって、本質的な問題ではない。
 ただ、デジタルは便利だけど、一番大切なのは、いい写真がとれるかどうかである。そのためには、まず、  写真を知ることが第一だ。ライティング・露出はもちろん、写真に対する知識と技術がないとデジタルの良さも 生きてこない。そのための勉強も怠ってはいけない。
 それともう一つ大事なことは、「自分の夢を大切に  育てる」ことだ。「夢」にはあこがれと感動と志がある。 そのためにはアナログといったいつもの道を離れて、 デジタルという森に分け入ることもよいだろう。デジタルという森の中には不思議で尊い夢が隠れているのです。それを見付け出そうではありませんか。
 パブロ・ピカソは「時代、時代にそれぞれ優れたアートが生まれるがそれ自体は進歩とは言わない。もし進歩だと思うなら、それはバリエーションによるものだ」と言っている。
 アンリ・カルチェ・ブレッソンにしてもエドワード・ウエストンにしても、また、土門拳や奈良原一高といった人 たちの仕事も、時代を超えてその価値観は揺るぎない。だが、いまデジタルといったバリエーションを手にした我々は新たな挑戦への機会を与えられている。そうしたチャンスを生かし、学んで、それぞれの「夢」を大きく育てようではないか。

by yumehaitatu | 2006-03-04 00:35 | やぶにらみ | Comments(0)