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堀田義夫「やぶにらみ論法」(77) 出会いに感謝   

出逢いに感謝
 老いを楽しく生きるために、出逢いの機会を作る努力をしよう。そう思っているので、先月、現職時代のOB会へ出席したが、期待はみごとに裏切られた。
 当時、尊敬していた先輩・同僚が賞味期限切れの、ただの年寄りになっていたのです。賞味期限の切れたモノは捨てるか、買い換えるかしかない。捨てれば自分の周辺から仲間がどんどん減ってしまいます。買い換えるとは新しい出逢いを求めることです。
 過日、本会の幹事長の西垣憲明さんが中心となって「みんなの写真展」という展覧会に参加しました。16団体・約300人の出品者で規模としては、全国に類を見ない規模ではないかと思います。その諾否は別にしても、観客に好評のようでした。出品者の感想は、「他の団体の活動に啓発された」「趣味を通じて新しい人との出逢いを得られた」ということでした。
 「出逢い」というと人との出逢いを思いますが、そのきっかけとして、写真を趣味にしたことが役だったと思うのです。だから趣味は出逢いの道具です。そうして得られた新しい仲間は、新鮮な刺激を与えてくれます。
“生きざまは みんな違って 趣味の友” という川柳を目にしましたが、この川柳のように過去の生きざまは違った人の方が刺激になります。冒頭に書いたように、同じ釜の飯を食ってきた職場の先輩や同僚は賞味期限切れで刺激を与えてはくれません。
 年を取ると「出逢い」の機会は極端に減ります。だから私は積極的に出逢いの機会を得ようと努力してきたが、加齢とともに体力的に厳しくなりました。
 その難問を解決しようと、過去に撮影した写真の整理を始めました。いま流なら「終活」というのでしょう。自分の写真が一度発表するとそれでお終い?では、あまりにも軽い。そんな気がしたからです。
 書物だって、一度読んでら全部分かる本なら、読まなくてもいい。何度でも読み直そう、読み返すたびに、新たな刺激や目覚めを与えてくれような本は、名著なのだ。そんな写真が作りたい!そう思って毎日パソコンの前に座って頑張っています。
 写真はモノを克明に描写して、現象のある一瞬を定着する機能を持っている。その結果、写した写真はデーターとして「現実と等価なもの」と学習してきました。
 しかし一方で写真は自分がいて、被写体があって、それを写真に撮ったものをプリントして改めて見る。言い換えると、自分自身のモノを見る目を考える道具として「写真家の意志や主張」を表現します。写真は視覚的なことだが、作品には作者の心理的、精神的なモノが必ず関わってきます。だから写真は「目の哲学」と思っています。
 そうした意味では、本研究会には“旬”の作家が多く、いまさらのように出逢いのありがたさに感謝しています。
「サイコロ石」
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by yumehaitatu | 2013-05-04 22:39 | やぶにらみ | Comments(0)

堀田義夫の「やぶにらみ論法」76 リバースコーチを求めて   

【リバースコーチを求めて】堀田義夫
 古い友人に「60才以上になったらリバースコーチを作れ!」といわれたことがある。耳慣れない言葉なのでその意味を聞いてみた。
 【リバースコーチとは、自分を教え導いてくれる年上の人ではなく、若くても未熟でも新しい刺激を与えてくれる人、自分の知らない世界を教えてくれる人のことをリバースコーチと呼ぶ】のだ、と教えてくれた。
 なーんだ、そんなことならすでに実行しているわい! とそのときは軽く聞き流していたが、最近になって、自分の考えがいかに軽く、表層的だったかを思い知らされた。
 安倍晋三総理のおじいちゃんの元総理大臣の岸信介さんは、「年を取ったら風邪ひくな、転ぶな、義理を欠け」と名言を残している。体調と相談しながら、いただいた展覧会の案内状から、誠意や意欲のくみ取れない展覧会には義理を欠くことにしている。
 また、案内状の受け止め方もある。出品者の顔ぶれで、どの程度のレベルの展覧会かを自分勝手に推測してしまうことだ。また、仲間の評判にも耳を傾けて決断する。
 出品作家にとっては、「昨日よりは今日!」、「前回よりは今回!」といった意気込み(中にはそうでないものもあるが…)があるのだろうから、こちらの姿勢にも、過去のイメージで、鑑賞しないうちから、勝手な思い込みは失敬な話ではある。
 ところで、体調を崩す前まで、20数年間、一緒に月例会をひらいて勉強した人たちの展覧会に伺った。出品作の中に、昨年秋に一緒に行った奈良の撮影会の作品があった。撮影技術、レタッチとも非常にすぐれていて、その作品を見て、自分の力量の乏しさ、表現力の拙さ惨めさを実感した。
 この惨めさは「若いもんなんかに負けるかい!」といった思い上がった気持ちが私にあったからだと反省している。素直に自分の拙さを認め、若くて新鮮な刺激を与えてくれた作家とその作品をリバースコーチとして頑張るしかないのである。
 もう一つ印象に残った展覧会は、写歴5年くらいの経験しか持たない作家だが、発表のたびに注目してきた。
 この作家は、東南アジアを舞台に作画活動しているが、その取材量の広さ、知識の豊かさに圧倒さる。またモチーフの選択、コンセプトの明快さなど、人生の源資(知的経験の豊かさ)か私にとってのリバースコーチであることに気づかされた。
 写真の世界では、写歴の長さを自慢する輩が多い。写歴が長くても作品が発するメッセージが読み取れない自称・先生が跋扈し、リバースコーチの存在は認識したがらない世界だと感じる。
 私は日頃「共育」ということを標榜し、「若いから」「経験が浅いから」、といったことを本当に意識しないで、リバースコーチを求めていたか、いま改めて心の底から思っていたかを反省している。
 これからは、真剣にリバースコーチを求めて、人生を前進しながら終わりたいと思った。
<どぶ板通り>
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by yumehaitatu | 2013-03-09 21:58 | やぶにらみ | Comments(0)

やぶにらみ76 堀田義夫   

センスは誰にでもある!
 
 先日仲間たちと奈良に撮影に行った。行き帰りの車内では、写真談義に花が咲いた。そうした中で、「私にはセンスがないから……」と自分を卑下したような発言を耳にしたのです。
 だが、本当に自分にはセンスがないと思っているのだろうかとチョッと淋しい気がした。あるいは本当は、本心からは、そう思っていないのかもしれないという気もした。センスということはそれほど手に入れることが難しいのか。
 だいたい「センス」という言葉にはどんな意味合いが隠されているのだろうか?辞書をひいたら『微妙な味わいを感じ取る力』とでていた。
 私たちが写真を撮るとき、当たり前のものをじっくり観察して、「微妙な違い」「チョッとした違和感」を見つけて作画するでしょう。周りの人には「普通のもの」が、本人にとって「特別な何か」に見えるといったことがある。まさに「人と違うセンス」なのです。だから、センスのない人なんか、いないというのが私の持論です。
 先日、森光子さんの訃報をテレビで知った。そのとき思い出したことが、片平なぎさという女優が初めて主役を演じることになったので、大先輩の森さんに、どんなことに気を付けて望むべきかと尋ねた。森さんは「台本をよく読んで、その台本のどの部分が気に入ったか? もし気に入った部分が見付かったら、そこをどのように演じるかを真剣に工夫しなさい。すべてを巧く演じようとすれば、するほどお客さんは疲れてしまうから、自分が気に入った部分に、全神経を集中させて演じなさい」とアドバイスされたという話が伝えられている。
 この話は印象的で、写真の世界にも通じると思ったので、私の「夢ノート」に記されている。
写真経験が長くても、なかなかセンスの磨かれない人は、「被写体に写真を撮らされている」からです。もし、目の前にある被写体に自分の心を結びつけて、自分の気持ちを大切に、「楽しかった」「面白かった」「不思議だった」「美しかった」といったことを、どのように伝えようかと努力すれば、その人なりのセンスは磨かれるのです。
 作品ならば、作者は「作為を伝える最低限の努力をする」ことを心がける。そうすれば、その人なりのセンスは磨かれるのです。写真は巧く撮ることも必要だが、「気持ちの伝え方」はもっと重要だと思っています。
 センスの磨き方にはいろいろあるだろう。今回のように仲間と撮影を共にする場合などは「こんなもの見つけたよ!」とか「これなんだろう?」と楽しく会話を重ねながら、自分の欠けている部分を補うことが出来る。この仲間との刺激がセンスを磨く上ではいちばんの決め手であるようだ。
 もう一つ大事なことは、「思い切り」が肝心。私は今回の撮影にマンネリ化した視覚経験から抜け出したいと思って、風景写真はすべて16㎜の超広角レンズで写す!といった使用機材を制限し、限られた条件で撮影をした。これもセンスの磨き方かと思って実行したのである。
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by yumehaitatu | 2013-01-12 23:59 | やぶにらみ | Comments(0)

やぶにらみ74 『しなやかに自分流を貫く』 堀田義夫   

 『しなやかに自分流を貫く』
 写真サークルで撮影会に参加したときのことだが、バスの中で幹事さんから 「今日の撮影会についてアドバイスをお願いします」 といわれた。確かに撮影会に参加したとなれば 「上手な写真を撮りたい」 と思うのは当然です。しかし私は写真のウデを上げようと頑張ったのは、撮影から仕上げまでの技術が難しかった時代のことで、そうしたことがすべて容易になった今日では、ウデ自慢は流行らないと思っています。
 だから 「現場に立ち会わなければ、何をアドバイスしてよいかわからない。とにかくフィルムの時代と違うのだから、自分がよいと思ったら、バンバン撮ることです」と曖昧な話しか出来なかった。 自分が良いと思ったらバンバン撮ることだといったのは、私は「撮ろうかどうか迷ったとき、先ずシャッターを切る」ということにしています。このことは、以前にある場所を、撮っておくべきかどうかを迷った末、結局撮らなかったことがあったのです。ところが、後日作品集を作るときに、その写真があれば構成に役だったのにと、悔やんだことがありました。後の祭りです。そのことがあって以来、「迷ったときは撮る!」と決めたのです。
 デジタルカメラは小さなカードにフィルムなら10 本分くらいの写真を写し込むことが出来るのだから、迷っていてはもったいない、どんどん撮っておく方が良いのです。
 よく、被写体をしっかり観察して撮る。ということがいわれます。たとえば、花の写真を撮るとき斜光線を選ぶか逆光線を選ぶか、カメラアングルをどうするか構図はどうするか、主題に対して背景をどう処理しようかといった、上手に撮るために画面構成考えることを 「観察」と思われているようですが、そうではないのです。何が被写体であれ、そういったことは、いかに上手に画面構成を纏めるかの工夫であって、「観察」ではない。「観察」とは、被写体の何を写真化するか、そこからいかに想像力を膨らませるかということだと思っているからです。
 私は 「撮影会」 というのは旅行気分でその場のそのときの発見だと思っています。そうした意味で撮影会というのは私にとっては、いつも小さな探検家気分にさせてくれます。
 「おっ、面白いところを見つけたね」 「こういうのって、ふつう撮らないよ」 「でも、何となく気になるなあ」「チョッと抽象的だけど、そこがいいのかもね」「この写真、なんか変な写真だけど、いいんだよなあ」「想像力をかき立てるっていうか、詩を読むって気分になる。そういう魅力があるよね」と仲間たちに言ってもらえる写真を撮りたいと思っているのです。
 だから、私には被写体を説明しているだけの写真はつまらないのです。ところが人に言わせれば、私のような写真は独りよがりの写真で、良くないという人がいますが、私は独りよがりでいいと思っています。それが個性につながるのです。個性を感じられない写真は、他人も面白がっちゃくれないと思うからです。
ですから、冒頭の 「今日の撮影会についてのアドバイス……」 という幹事さんの依頼に対して曖昧な話しか出来なかったのです。傑作を撮ろうなんて思わずに、しなやかに自分流を貫くことをお勧めします。
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by yumehaitatu | 2012-11-03 23:57 | やぶにらみ | Comments(0)

堀田義夫の「やぶにらみ論法」73   

“おまけ”を手に入れる

 完璧だと思っても、もう一押しすれば、おまけが手に入る。 そう言ったのはトーマス・エジソンだ。
それを最近実体験した。
 50年以上指導してきた写真グループが展覧会を開くので賛助出品してくれと言う。そして出来ることなら簡単なレタッチで、作品を作ったものが好ましいと注文がついた。
そこで、過去に写した作品の中から、平成12年、オリンパスのカメディ200万画素のコンパクトデジカメで写したものを選んだ。
 レベル補正でトーンを整え、コントラストの補正のため、トーンカーブでS字カーブ・あるいは逆S字カーブと、いろいろ試みたが思うような結果が得られなかった。諦めかけてトーンカーブを滅茶苦茶にいじくり回していたら、思いもかけない効果に出逢った。それが「茜空」だ。
 やけのヤンパチでやった遊びの結果である。思わぬ効果に出逢えた嬉しさで、しばらく、こうした手法の作品を作っていた時期があった。
 だが、このようなソフトの効果に溺れて生まれた「結果オーライ」の作品では心許ない。以降は、こうした作品はお蔵入りになってしまっていた。
 とはいっても、私自身は、こうして偶然に手にした経験を否定するものではない。むしろ積極的にそうした機会を持ち、イメージの拡幅につなげることは必要だと思っている。だからこの「茜空」は、私の中の気に入った作品の一つとして、たびたび登場する。
 ところで今回、簡単なレタッチで思わぬ効果を得られるということで、出品候補に取り上げた。
だが、考えてみれば、それはソフト効果の結果であって、私の作意が反映された作品だとはいえないことに気づいた。
 満月に浮かび上がった五重塔の姿をイメージし、トーンカーブで再度レタッチして生まれたのが、今回の「満月の夜」である。「茜空」がソフトの効果で生まれた作品なら、「満月の夜」は想いが、さきに生まれ、手段は後からついてきたのである。もう一押しすれば、おまけが手に入ると言った、エジソンの言葉を実感している。
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by yumehaitatu | 2012-09-01 21:14 | やぶにらみ | Comments(0)

堀田義夫のやぶにらみ論72 教えすぎない!    

教え過ぎない!
 『子どもを不幸にする、いちばん確実な方法をあなたは知っているかい。知らなければ教えてあげよう。それは、いつでもなんでも、手に入るようにしてあげることだよ』といったのは、スイス生まれの思想家・ジャクソン・ルソー(1712~1778年)です。
 冒頭から変な書き出しになってしまったが、自分自身の後ろすがたを見た思いがしたのです。仲間たちと話しているとき、ついつい夢中になって、教え(錯覚だが…)過ぎているようだった。
教え過ぎるということは、決して本人のためにならない。 
 教え過ぎは『感じる力』を奪ってしまう。本人が気づく前に答えを教えられても、本人に聞く耳がなければ何にもならないのです。『過ぎたるは及ばざるがごとし』のことわざの通りなのです。
 ところが、いままでの自分自身を省みると、心に余裕がないから、ついつい自分の知っていることや経験を押しつけてきたのではないか。指導者というより、支配者だったのではないか。と反省する。 そうして指導の理想的な姿はどうあるべきかを考えて得た結論が、『指導者とは気づかせ屋』 に徹することだと。
 最初から自分の知識や経験を押しつけ、答えを用意するやり方は好ましくない。あくまで本人自身に『気づかせる』ように仕向ける。そして、本人に足りないものを身につけるための方策を、探して支援することが大切な役割で、それが使命だと気づいたのです。

貪欲に教われ! 
 難解なソフトをつかって、巧みなレタッチを試みられるように、最初から何でもかんでも教えようとすると、教える方も教わる方も疲れてしまう。また、それでは自ら考えようとする意志を奪ってしまうことにもなる。
 しかし、教わる側にもそれなりの姿勢は要求される。新訳聖書マタイによる福音書のなかで『求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。門をたたけ、さらば開かれん』
 すなわち、求めなさい。そうすれば欲しいものは与えられます。探しなさい、そうすれば探しているものは見つかります。門をたたきなさい、そうすれば入りたい門は開かれます。自ら行動を起こさなければ、何も得られません。というように、教えられる側は積極的に行動を起こさなければ何も得られないのです。指導者が教え過ぎ警戒するなら、教わる方は貪欲に教えを引き出そうではないか。
人間は『考える』『体験する』『表現する』ために生きている。年齢、環境、状況が変化する中で、夢を持ち、挑戦し続ける。そして最後まで現役にこだわりつづけたいと私自身は思っている。
                「 悲 恋 」
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by yumehaitatu | 2012-07-08 10:45 | やぶにらみ | Comments(0)

堀田義夫のやぶにらみ論法 71 堂々とした老人に!   

堀田義夫の「やぶにらみ論法」(71)   
【堂々とした老人に!】

 「年を重ねるだけで人は老いない。理想を失うとき、人は初めて老いる」といったのは、詩人のサミエル・ウルマン(アメリカの無名の詩人)だ。この詩を座右の銘にしていたのがマッカーサー。それを松下幸之助がインタビューで紹介して一躍有名になった詩です。
 ところが最近の自分を振り返ると、固有名詞はすぐ出てこない。覚えたことも、聞いたこともすぐ忘れる。「俺も惚けたなー」とつくづく思う。だが近頃は、どうせ年をとるなら「堂々とした老人」になろうと開き直ることにした。忘れることを怖れるより、どんどん新しいことに挑戦することの方が大切だと気づいたからです。
 いま応用講座で、画像処理や作品制作について仲間たちと学んでいる。もう若くないし、脳の容量にも限界があるから、思うように理解できない。そこで体得したことが、必死で機能を覚え、覚えた技法で作画しても作品にはならないということだ。まず、「自分が思っていること・やりたいこと」が明確でないと、覚えたことも聞いたこともすぐ忘れてしまう。知識としては教えてもらえるが、知恵は教えてもらえないからです。
 そこで、自分が何をやりたいか?といった目的をはっきりさせて、コンピュータの操作や画像処理のテクニックを身につけるのが有効なことに気づいた。ただ、一人で黙々とやっているだけでは、それは自己満足に終わり、脳への刺激にはならない。その点では応用講座は仲間からの刺激が多いのが有り難い。
 脳への刺激を考えるなら、展覧会に出品する、個展を開く、画集を発行する、コンテストに応募する、人を教える。などといったことが非常に有効な手段になると思う。何をやるにせよ、やったことを発表する場や、人から評価される機会、人に見られていることを意識できる状況を自ら作り出す。そのことによって脳の活性化が図れる。私自身は、そうした仲間たちに囲まれて、堂々とした老人になろうと思うのです。
 「青春とは、人生のある期間をいうのではなく、心の様相をいうのだ。優れた想像力、逞しい意志、燃ゆる情熱……こういう様相を青春というのだ。」とサミエル・ウルマンは詠っている。 
 また、
   人は信念とともに若く  疑惑とともに老いる
人は自信とともに若く  恐怖とともに老いる
希望ある限り若く    失望とともに老い朽ちる
(後略)

 今回はサミエル・ウルマンの詩が、マッカーサー元帥の座右の銘であったと聞くが、これは私たち年寄りにとっても「堂々とした老人」になるための座右の銘であるように思えたので紹介しました。
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by yumehaitatu | 2012-05-05 22:17 | やぶにらみ | Comments(0)

やぶにらみ論法70 堀田義夫   

偶然との出会い
 写真の仲間たちが、君の作品の発想はどうして生まれるんだろう。あたまの中を見てみたい、俺にはそんな発想やイメージは全然湧かない。という声に褒められたのか、あきれて侮蔑されたのか悩む。 そんな仲間に、あるとき、撮影した原画から、作品に仕上げるまでの課程を披露したことがある。試行錯誤を繰り返す私の作業を見ていた仲間が、「なーんだ偶然か!」とがっかりした様子でした。
 確かに、多くの人は、偶然などというあやふやなものは信じないし、それに従わない、というのが普通です。もう40年くらい前の話ですが、仲間にフィルムを1本ずつ渡して、「無作為」に写真を撮ってくるように宿題を出したんです。そして、その中から10枚選んで出品することを申し合わせました。
 仲間の中には、首からカメラをぶら下げて、セルフタイマーをセットして、町をうろつく、その間にカメラが勝手にシャッターを切ってしまう。 あるいは夜の町を歩きながら、ストロボのチャージが完了したら、その瞬間、その位置で自分の姿勢も、カメラの方向や角度も、そのままの状態でシャッター切ったという人もいた。
「無作為」 というのはかんたんに言えば、デタラメに写真を撮ってこい!。あるいは、偶然に写った写真を持ってこい。すなわち、いままでの経験とは違って、写そうと意識しなかった被写体にレンズを向けることを要求したのです。そうした行為の中から新たな出会いを探ろうとしました。
 例会の当日、各自が写した写真を、ごちゃごちゃにして机の上に並べられました。きっと、誰の写真なのか
判らないだろうと思っていたのですが、案に相違して、ほとんどの作品がどの作家のものか判ったのです。
 昔のフィルム1本は36枚撮れたので、10枚提出する作業は作家自身です。その選ぶという行為に作家が持ち合わせている感性の働きかけがあるのです。だから、デタラメに写した、偶然に写った、という写真でも、みごとに個別化されているんです。なぜこんなことを仲間にやらせたかというと、いつも概念的に被写体を選び、それを見せ方上手に見せることを訓練していたってダメ!昨日より今日のほうが、経験を積んだはずなのだから経験的知恵を生かすことが大事だと考えたからです。
 日本近代詩の父といわれる萩原朔太郎は『音楽の演奏者や劇の俳優や職業カメラマンたちは技術者である。彼等は芸術家ではない。なぜなら、彼らは真に「創作」を持っていないじゃないか』というが私も枯渇した脳みそに期待するのではなく、創作のための手段として偶然を必然として捉えたい。「偶然」 は求めていた世界より、もっと大きな世界を教えてくれたり、気がつかない可能性を引き出してくれることがあると思っていたからです。 
 だから、偶然を信じて突き進めば、その先に新しい世界が広がる。偶然がもたらしてくれる未知な世界に遊び、好奇心の赴くままに作画を愉しむ、好奇心旺盛なら、面白いことに出会えると信じているからです。この姿勢が私の創作の根幹なのです。
<パラダイス>
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by yumehaitatu | 2012-03-03 22:18 | やぶにらみ | Comments(0)

やぶにらみ論法69 堀田義夫   

 ある写真クラブに、知り合いのおばあさんを入れてもらった。新人の加入に周りの人が大歓迎して親切にいろいろ面倒を見てくれたそうです。
 ところがおばあさんの足は次第に遠のいていった。ある日、そのおばあさんと顔を合わせたので「最近は教室にも余り行かないそうですね」と尋ねてみた。
 「皆さん大変に親切にして下さいますが、私は理解力も感性もなくて、皆さんにご迷惑ばかりかけるので、申し訳なくて行きにくくなってしまったのよ」という答えだった。
 続けて、「先生はとても親切に教えて下さるのに、それに応えられなくて精神的に参ってしまうのよ」という気持ちも聞かせてくれた。
 この話を聞いて私も多少は初心者の指導をした経験から、大いに考えさせられました。
話の中で「とても親切に…」に、というところに問題がありはしないかと。
 それは教えすぎているからです。本人の能力以上に教えようとすることは、決して本人のためにならないのです。教えすぎは「感じる力」を奪ってしまいます。
 本人が気づく前に答えを教えられても、だいたい聞く耳を持っていないから残らないのです。
すぐれた指導者というものは最初から答えを用意するのではなく、あくまで自分自身に「気づかせる」ように仕向けることです。その結果、本人に足りないものを身につけるための方策を探してやることだと思うのです。
 何でもかんでも教えようとすると、自ら考えようとする意思を奪ってしまいます。まずは本人が思うとおりに
やらせてみることが大切です。たとえまちがったやりかたをしていても、本人が気づく前に教えてしまえば元の木阿弥になってしまうからです。
 撮影会で足利に行ったときのことですが、「何にも写すものがない」「どこを撮ったら良いのか分からない」という声を耳にした。だからといって私は教えようとは思わない。
 私は「ここは作品になるよ!」なんてところはないと思っているからです。だが撮影会は多くの仲間と撮影を愉しみながら、それぞれの作家の感性からいろいろ学ばせてもらえることが嬉しいのです。すなわち「気づき」のヒントを与えてくれるからです。
パブロ・ピカソがモンマルトルの丘を散歩する時間になると、周囲の画廊が一斉に店を閉めてしまうというエピソードが伝わっています。それは、店先に飾ってある若い感性豊かな作家の作品からピカソがヒントを得て作品化してしまうことを恐れたからだというのです。「天才は天才的に剽窃する!」と池田満寿夫さんが喝破していますが、これはピカソに「気づかせない」ための画商の作戦だったのです。
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by yumehaitatu | 2012-01-14 22:06 | やぶにらみ | Comments(0)

やぶにらみ論法68 堀田義夫   

 近頃はフラクタル画像を使った作品を目にする。これは,デジタルならではのテクノロジーが生んだ新しい表現領域の拡大です。だが、こうした高度?なテクニックを習得することは高齢者にとっては容易ではない。そして、「私は頭が悪いから…」ついて行けないと落ち込んでしまわないだろうか?
 わたしも若い頃は一緒に勉強している人に比べると、理解力に劣ったり、技術的に不器用だったので、ひどく惨めな思いを経験した。
 あるとき、尊敬している先輩と、先生のお宅へ伺ったことがあった。ときのことです。
 「○○君は写真の技術も高いし、感性もいい。だから僕は、非常に誇りに思うし期待している」と先生は褒めておられた。私としてはたしかに、その先輩と比較されれば、その通りと納得せざるを得ません。しかしその先輩と比較されて、「堀田君はそうした意味では少し落ちる」と言われたみたいに思えたので、落ち込んでしまった。
 その姿を先生の奥様が気づいたらしく、何気なく話題をそらし「堀田君,良寛さんの詩にこんなのがあるんですけど知っている?」といって、教えてくれたのが次の詩です。
 『この地に兄弟あり 兄弟こころおのおのことなれり 一人は辯にして聡く一人は訥にしてかつ愚かなり、われその愚かなるものを見るに生涯あまりあるがごとし またその聡きものを見るに到るところ亡命して趨る』
 意訳すると,ここに兄弟がいます。一人は雄弁で聡明ですが,もう一人は口べたで賢くありません。でも,愚かな方は余裕たっぷりに人生を楽しんでいます。賢い方はどこへ行っても失敗を重ね、逃げ回ってばかりいます。「到るところ亡命して趨る」ような生き方は、大事なところを一つも見ていないで,命をすり減らしているだけだ。いうのです。
 兄弟の生き様を並べて示しただけの詩ですが、良寛さんは人間にはみんないいところがあるが、愚かな方は、ゆったりと余裕たっぷりに人生を歩んでいると言って、軍配を上げているんですよ。といった話をなされたのです。
その後,寺田寅彦さんの「科学者とあたま」という随筆に巡り会ったとき、「良寛さん」の話とつながっているように思いました。その部分を抜粋して紹介すると、頭のいい人が科学者になるというのが世の常識だけど、科学者は,頭が悪いことも必要だと。場合によっては、頭の悪い人の方がすぐれた仕事をする。というのです。
 『頭のいい人は,いわば足の速い旅人のようなもので、人より先に、人のまだいけないところに行き着くこともできる代わりに、途中の道端、あるいは、チョッとした脇道にある肝心なものを見落とす恐れがある。
頭の悪い人、足ののろい人が、ずっと後から大事な宝物を拾っていく場合がある。といった内容でした。こうして考えると、早く理解して要領よく作画に反映させるより,理解力に遅れがあって気にしないで、のんびり行くことの方がいいのかもしれませんね。
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良寛さんの詩

by yumehaitatu | 2011-11-05 23:59 | やぶにらみ | Comments(0)