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やぶにらみ論法110  【運・不運】 堀田義夫   

やぶにらみ論法110  【運・不運】 堀田義夫

「フォトシティ・さがみはら」で当研究会の杉本鉄雄さんが銀賞を射止めた。本人の話によると友人と格安旅行で香港に一泊二日、14000円の旅行をしたとき写した写真で、賞金10万円を獲得して差し引き86000円のお小遣いを得たという。

同じ展覧会で銅賞を受賞した牛木実さんも東海道五十三次「神奈川沖浪裏」という版画に触発されて、江ノ島で写した写真を出品して5万円の賞金を獲得した。

だが、この人は撮影に夢中で、突然の大波に見舞われ全身ずぶ濡れになり、28万円もした高級カメラは無残にもオジャンなり、賞金5万円では差し引き23万円の持ち出しになったとこぼしていた。

本人たちからこの話を聞いたとき、人の運・不運ってあるんだなーと失礼だが大笑いしてしまった。また本人たちも、別に賞金稼ぎが目的でないから、軽い気持ちで裏話を語ってくれたのでしょう。

この両者には「賞金が目的で応募しているんじゃない!」(それが目的の人もいるだろうが…)

自分の作品が他人と競い合い、権威ある人によって認められたという承認欲や自分の存在感を確認したいといった軽い気持ちだから笑い話で済まされたんだと思うのです。

だが、ここで取り上げる「権威ある人…」と思われている人が本当に権威を持っているかといえば、実際にはそうではない。

私の経験でも、ある市民展の審査を依頼されたとき、主催者側から、「市民展なので、高度な技術力・専門的な知識がなければ理解できないような作品を高く評価されても困る。市民に私も出品したいという気をもってもらいたいという私どもの思いもお酌み取りください。」

という要望をされたことがあった。

「権威ある人…」というのは主催側の傀儡といった面もあり、実は権威者…ではないのです。

最近ある市民展を鑑賞した。そこで感じたことは上位入賞した5点の内の4点が組写真だった。

私には、なぜ組写真にしなければならないのか、その必然性を感じない。同じような場面の写真を、ただ並べただけといった印象で、作意が冗漫だ。

出品経験者によると、入賞するには組み写真じゃなければ入賞しないという伝説があるらしい。

下位に入賞した佳作8点はすべて単写真だった。審査員の資質にもよるのだろうけれど、この極端な組み写真有利な審査結果は素人目には写りが良いかもしれないが、真剣に表現者として写真を学ぶ人にとっては不運なことだ。こんな審査結果を「権威ある…」人の評価として一喜一憂してはならない。

「権威ある人…」と思い込まれていることで、いちばん不運なことは、文化活動の一環として行われる市民展が、前号踏襲といった時流を読めない「権威ある人」によって歪められてしまうことは不運だ。

1970年頃までは写真展に出品するなんていったら、現像や焼き付けはもちろん、作者の表現意図も明確で作者のメッセージが伝わる作品が多かった。

1970年後半の頃からカラーフィルムの普及で、現像や焼き付けの技術はアマチュアの愛好者には秘匿されて、企業で行われるようになった。

そうしたことから写真表現は画一化されて表現力を培う風土が途絶えてしまったように思われる。

2000年頃から普及し始めたデジタルカメラは、確かにフィルムカメラの延長線上で生まれたものに違いないが、道具が変わればやり方も結果も違って当たり前、表現領域を拡大したデジタルフォトを学ぼうともせず、前時代的感覚、写真界に長く携わったという経験で「権威者…」風を吹かされてはたまったものではない。

そうした意味で冒頭あげた二人の作家のようにすべては運・不運と達観することだ。
「思案に余るとき」

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by yumehaitatu | 2018-11-03 23:57 | やぶにらみ | Comments(0)

やぶにらみ論法「褒めちぎる」(109)  堀田義夫   

  やぶにらみ論法「褒めちぎる」(109)   

 連日35度~40度近い猛暑が続く中、昨日、浜口タカシ君が他界した知らせを受けた。長いつきあいと私と同い年だったことからショックだった。

 「人間いつかは終わりが来る 前進しながら終わるんだ」と詠った坂村真民さんの詩を実践した行動力ある写真家だった。残念だが仕方ない。

 丁度その日は、写真仲間との会合に参加していた。そして話題にされたことは「キミは近頃、人を褒めすぎじゃないか、昔のキミを知っている人たちはその変節ぶりに驚いている」というのだ。

 人間は経験を重ねれば、考え方も変わる、変わらなければ成長はない!と思っているから、そうした指摘に痛痒を感じない。しかし少し言い訳したい。

 テレビを見ていたら「褒めちぎる教習所」という番組で、ある自動車学校のことが紹介されていた。

 昔は自動車教習所の教官は意地が悪くて威張っていた。ところが最近は若者の車離れや社会構造の変化でどこの教習所でも経営に苦しんでいる。そこで他社との違いを打ち出すことを検討した結果、冒頭の「褒めちぎる教習所」というポリシーを打ち出しすことにしたという。

 教えることは欠点を指摘して直させるのではない、良いところを見つけて「褒めちぎる」ことだと実践した。生徒はやる気を持ち、教官の好感度はアップし、業績が上がったという内容だった。

 NHKテレビの「チコちゃんに叱られる」という雑学クイズ番組で、「ボヤーと生きてんじゃねーよ!」という台詞が出てくるが、まったくその通りで考えれば、教わる側の立場に立って考えれば、発想はまったく変わってくる。

 写真の趣味だって同じ、私も若かった頃は相手の欠点を指摘して、自分の知っていることを押しつけてきた。

 考えれば、欠点を指摘されれば、相手は萎縮する。 その結果、お前さんなんかには言われたくない!、あるいは大きなお世話と思う人もいる。

 逆に褒められれば相手は心安らぐだろうし、自信も持つ、そして更に努力する。結果的には、好循環を手にできると気づいた。

 そしてこの褒めちぎることにチョッとコツがあることも覚えた。それは「つぶやき褒めだ」。わざとらしさを感じさせずに、素直に受け取られるために、必要なテクニックだと知った。

 褒めるには、作品をよく見て理解しないと、どう褒めて良いかわからない。

 写真クラブなどで指導する人たちの姿を見ると、自分の「好き・嫌い」といった印象で指導している人がいる。そうした人の話には内容が伴わない。

 褒める姿勢を持てば作品をじっくり見て、相手と同じ視点に立てるように思う。

 この反語に「褒め殺し」という言葉がある。褒められてその気になり天狗になって、人生を誤ることだ。しかしそれは仕方がない。それは、その程度の器量しか持ち合わせない人であり、教える人の責任として押しつけられものではない。

 たかが写友と酒の席の雑談をテーマに本稿をまとめた。チコちゃんに叱られないように、「ボヤー…」としないで些細なことだが、テーマとした。

 いま私は「きょういく」と「きょうよう」を自分に課して日々生活している。

 即ち「今日も行くところがある」「今日は用事がある」と人との出逢いを楽しみ、頑張っているのだ。 
                    糸屋

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by yumehaitatu | 2018-09-01 12:00 | やぶにらみ | Comments(0)

やぶにらみ論法 「教えない!」  堀田義夫   

やぶにらみ論法 「教えない!」         堀田義夫

 久しぶりに昔の写真仲間と一杯やった。その折に「堀田君は昔から教えることは下手だった。評判は良くなかったよな~」と言われた。そうした風評は私自身の耳にも入っていたので否定する気もないし、教え下手は自認する。

 その風評の一例は「うちの先生は撮影会にきてもなにも教えてくれない。黙って自分の写真を撮っているだけだが、どこどこの○○先生は聞くところによると、なにを写せばいいか、ここから狙え!、絞りは?シャッタースピードはこれくらいと手取り足取りで教えてもらえる。とても勉強になる」と言うのです。

 そうしたことが耳に入れながらも、そうしようと思わなかった。私には自分のコピーのような作家を再生産するつもりはないし、また、変な作品しか写さない作家の真似をしようとする人のいないこともあって、自分の思いを押しつけることを避けてきた。

 私の絵の師匠は「自分から学ぶ気持ちにならなければ、教えても無駄だから教えない、

これはどうしよう、これはどうしよう、と常に自分で考え頭を使わない人は、俺にはどうしようもない、そうした人には教えることはない」と常に言っていた。このことは学ぶ側に、やりたいことを自分で知っていることの大切さを求めているのだと思いました。

 同じようなことを孔子も論語の中で「いくら真剣に教えたいと思っても、学ぶ気持ちのない人は、どうしょうもない」と言って教えることを拒んでいます。

 こうした人たちは、自分から学ぶ気持ちにならなければ教えても無駄だから教えない。と言っているように思います。すなわち学ぶ姿勢を問題にしています。

 ところが私の写真の師匠は「知識は本読めば得られる、技術は経験を積めば解決する、良い指導者は、その人がやろうとしていることを察し、その人の持っている良い芽を見つけて気づかせ、その背中を押して、その芽が枯れないように育てるための助言者であることが好ましい」。と教えると言うことは押しつける姿勢を過ちだと問題にしていました。

 写真もデジタルフォトが普及すれにつれて写真クラブなどでも積極的にその技術を学ぼうとする風潮が浸透してきました。

 当研究会でも、あるベテランが依頼されてレタッチの習得を目的とした講座に招かれた。どうせ教えるなら、最も優れいると思えるソフトを使って、参加者から感謝されるような講座にしようと臨みました。

 ところが、参加者たちは自分が知りたいと思っていることと違和感を感じて回を重ねるごとに減って終いには消滅してしまったのです。

 指導者は最も進化したソフトで教えようとした。参加者は指導者のその熱意を理解できないで戸惑い、せっかく学ぼうという意欲は萎えて、長続きしなかった。このことは教える姿勢と学ぶ姿勢の食い違いによるものです。

「相手がなにを知りたいのか?」ということに対して、その知りたいことに応えることが大事です。教え下手は駄目だが、教わり下手であってもいけません。心したいと思います。
               「砦」
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by yumehaitatu | 2018-07-07 10:00 | やぶにらみ | Comments(0)

やぶにらみ論法107【写真を読む】 堀田義夫   

今日(415)の新聞の文芸欄に、【春光を弾きてヨット向き変える】という高張一司さんの俳句が載っていた。高張さんの友人で、写真家でもあり俳人でもある浅井愼平さんから、高張さんはカメラをもらって写真を始めたという話を前に伺っていた。

当会の分科会「フォト575」では大木伊都子さんとともに指導的立場で活躍されている。この二人の作品は独特な洗練された感性で制作され、大いに啓発され学ばせられる。私は俳句に造詣があるわけではないが、常々その短詩系文学の表現と写真の表現が似ている気がしている。直接的ではなく比喩的表現という点が似ていると思うのです。

同氏の別の作品に【泣かした子あやす天狗や秋祭り】という傑作がある。天狗の面をかぶった男が可愛らしい子供の頭をさすったか、あやすつもりで顔を近づけたのか?。怖さにおびえた子供が大泣きをしてしまい、天狗様が慌てふためいている情景を思い起こさせる。このように作者のメッセージが明確に伝えられれば読む人の心をつかむ。

午後、知人から「○○クラブ写真展」の案内がきていたのを思いだし出かけた。会場を一巡していると、知り合いの著名な写真家に出会い、しばらく立ち話をしたのだが、【そこに行ってきました!そこを撮ってきました!】という作品ばかりで何で撮ったかのメッセージが聞こえてこない面白くない展覧会だという感想を聞かされた。

かつて【作者のメッセージが聞こえない写真はゴミだ!】と切って捨てた有名な写真家の言葉を思い起こした。

ところが私にとって写真展は学びの場なのです。

発表された作品のモチーフやテーマ、コンセプトといった切り口を読み、剽窃や気づきのヒントを得るために行くのです。

その展覧会が前出の著名な写真家がいうメッセージが聞こえない面白くない展覧会だとしても、それはそれでいいと思っている。頼まれもしないのに余計な意見や講評を言う義理もないし、つまらないと思ったら無視すればいいだけの話だから…。

いま私が主宰する写真団体の趣意は【①教師なし先輩あり、教育なし研究あり。②来るもの拒まず、去る者追わず。③意見は言うべし、決定には従うべし。】としています。

写真が好きだから撮っていて、写真の表現形式は自由だから型どおりでない、それぞれがそれぞれの方法で撮っている写真を持ち寄って、見せ合い、語り合って展覧会を開いたり写真集をまとめていくという手法をとっている。そして創立から65年が経ちました。

この趣意の遵守はいまでも間違いではないと確信して実行しています。

写真展や写真集を見て、うまい撮り方をするための作例写真という見方しかできないというのは何とも情けない。作品を見てなにを感じ、なにを読み取るのか、といったことが抜け落ちていたら、写真は薄っぺらなただの画像です。私たちは、そうした作品の発しているメッセージを読むことを学んでいます。

            <守られて>

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by yumehaitatu | 2018-05-05 07:23 | やぶにらみ | Comments(0)

やぶにらみ論法106 「プロ失格」   


やぶにらみ論法 「プロ失格」
  

 30代も前半の頃の話だが、「堀田君という男の作品を数年見ているが、写真で飯を食おうという気持ちはないのかね」とあるスタジオの社長が私の師匠に聞いたそうです。

 その師匠が「君にその気があるなら話してあげようか」というので、二つ返事でお願いしてしまった。

 紹介状を手に乃木坂にあったそのスタジオに行き社長にお目にかかった。緊張している私に社長は気さくにいろいろ話をしながら、「君、このスタジオの中の機材を自由に使っていいからこれを撮ってみてくれ」と一升瓶を持ってきた。キッコーマンという醤油瓶だった。これは俺の実力を試そうとしているんだなと直感した。

 そこで私は考えた。真横から水平に写せばピント合わせは楽だけど立体感の表現できないので、少し斜め上から写したいがそうすると被写界深度の関係でピントが届かないし、キーストン効果で先細りの画像になってしまって、ボリューム感が削がれて安定感の乏しい画像になってしまう。そう思ったのでアオリが効くキャビネの暗箱を借りて乾板で2枚写した。

 そこにコーヒーが運ばれてきた。すると社長は今度はローライフレックスを持ち出し、運ばれてきたコーヒーを写せという。腹の中でむっとしたが仕方がない実地試験だと自分に言い聞かせて写した。

 すると社長はスタッフにすぐ焼き付けるように指示をした。そして雑談をしている間に四つ切りに引き伸ばされた写真が45枚社長の手元に届いた。

 ピントも露出もしっかり合っているし写り映えがよい。当時は露出もピント合わせも、写真家の勘に頼っていた時代だ。腹の中で我ながらといった自信のある出来映えだ。

 その写真を手に取った社長は「これでは当社では使い物にならんね、この瓶に白く写っている丸いものは何なのかね、なに?スタジオ内のライトの映り込み?、そんなものは写さなくていい。このコーヒーは温かいのかね? 香りはいいのかね? そうしたことが感じられないのが残念だ。まあ最初はそんなもんだよ、もし、やる気があるのなら見習いとして2/3ヶ月やってみるかね?」と…。

 「この男、写真で飯を食っていこうという気があるか?」ということを「センスがいいから写真界で働かない手はない!」と激励されたかのように受け取り、「好きなことをやって給料をもらえるなら楽しかろう」という私の思い上がった気持ちをいっぺんに打ち砕いた瞬間である。

 「写真が好きだから、それで飯を食うプロになる!」という想いが違っていたのである。それで飯を食うためには、クライアントやアートディレクターの声が聞こえるような写真じゃないといけないのである。好きな写真を楽しむには、それを職業にしてはならない。

 秋山正太郎さんが「堀田君、我々プロがアマチュアに影響を与えることもあるけど僕は逆に、アマチュア恐るべし!と思っているよ、なぜなら、自分流を貫けるから真にその人の個性的作品が生まれると思っている」と話されたことを思い出し、「プロ失格」を自認し、下手でもいいアマチュアとして生涯、写真を楽しんでいこうと思っている。

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by yumehaitatu | 2018-03-03 17:00 | やぶにらみ | Comments(0)

やぶにらみ論法 105号 堀田義夫  「点数は後からついてくる」   

やぶにらみ論法 105  「点数は後からついてくる」  堀田義夫

 私の写真仲間に中谷はるみさんという女性がいる。この人は山梨県出身で、いまふるさと「武州・山梨」をモチーフに精力的に取材を続け、山梨県の観光大使も務めている。

 この夏、日本一過疎化が進んでいると報じられた地域をモチーフにした写真展が山梨県・早川町茂倉集落で開かれた。その展覧会の設営その他で協力した伊藤写真の社長・堀口彰洋さんに案内されて訪れました。

 展覧会に合わせて「守られて 山梨県・武田の里」という豪華な写真集も発行されました。山梨県知事も巻頭言を寄せています。私は今が“旬”の作家の一人だと思っている人です。

 その人が久しぶりに我が家を訪れて四方山ばなしをしていたのですが、そのなかで次回の作品発表のコンセプトにその地方の方言を織り込んだ仕事がしたということを話していました。

 その動機となったのは、彼女の展覧会を見にきた郷土史家の学者が、中谷さんの失われていく人間の記憶を次世代に残そうとする姿勢に共感して、分野は異なりはすれど同じように記憶から遠ざかる地域の方言を研究している自分の姿と重ね合わせ映像作家と歴史学者とのコラボレーションを提案されたという話でした。 

 こうしたことを考えると私は、写真という趣味を持ったことで、中谷さんは新しい出逢いのチャンスを手にしたと思うのです。出逢いの機会を多く持てば、優れた人財との出逢いが期待できます。そうしたことでいままでの仕事が更に深く大きく次の仕事へとつながっていくのだと思うのです。

 中谷さんは更に言葉をつなぎ「こうしたことが成功するか、失敗するか解りません、とにかくやってみます。いい結果を期待するのではありません。やった結果、その点数は後からついてくると思うんです」 とその前向きな姿勢には頭が下がりました。

 私は相田みつをさんという詩人の作品を指針に生きようとしてきました。その人の作品の中に「点数」というのがあります。

“にんげんはねぇ 人から点数をつけられるためにこの世に生まれてきたのではないんだよ にんげんが先点数は後”

 中谷さんの話は忘れかけていた私の記憶の中のこの作品を思い起こさせてくれました。巷間「専門バカ」という言葉があります。さしずめ私なんかは写真バカといわれる部類です。ですが、15年前デジタルフォト研究会を立ち上げようとしたとき従来の写真仲間だけではなく、いろいろの人たちに集まってもらい「共育」という信条の基に、いろいろと学ぶことができる機関を作りたいと思っていました。

 そのためには、デジタルフォト研究会という組織があって人が集まるのではなく、優れた人財がいることが魅力だといったデジタルフォト研究会という組織作りを望んだのです。幸いなことに順調に成長してきたと思います。

 これからも“井の中の蛙”で狭い枠組みの中でチマチマとその組織の中の常識に縛られた活動ではなくグローバルな目線で運営を考え、人財の育成や確保に努めることが出来たら良いなぁーと思っています。
「夕照の池」


by yumehaitatu | 2018-01-06 17:00 | やぶにらみ | Comments(0)

やぶにらみ論法104【自分流を楽しむ】堀田義夫   

【自分流を楽しむ】堀田義夫

2017年の「夢の配達人展」も好評で多大な成果をあげて終わった。そして私自身大いに学ばせてもらいました。

 例えばAさんの色彩のセンスに刺激を受け、Sさんの作品の完成度の高さに学び、Hさんの可能性を追求する姿勢に感動し、Wさんの美術に対する造詣の深さに敬意を覚えるといったように実に多士済々。デジタル研究会の人財の豊かさ、魅力を強く感じました。

 こうした思いは観客から作品購入を希望されるといった形で具現化していました。他の展覧会とはこのあたりの反応は大いに違っています。

 反面、「これ写真かい?絵だと思ったよ!」「変な写真ばっかりだね」といった感想もありました。だからといってこれは如何なものかといった気はチョットもしません。

 日常会話の中で、「何とも奇妙な光景を見た」といってもその奇妙さを伝えるには一枚の写真を撮っていれば説明が簡単だけど、言葉だけで説明しようとすれば大変。写真は一目瞭然。これで解るように、写真を説明のために写しているのです。誰もが見て判る写真、言葉で説明できる写真が一般的写真というように思われているんですね。

 私は“説明していない写真が面白い”と思っています。「おっ、面白いところを見つけたね」

「こういうのって、ふつう撮らないよ」 「でも何となく気になるなぁー」というような写真が撮れたらシメタものと思っています。これは見る人の心を「つかんだ」からです。

 表現者として一番必要なことは、この「つかみ」ではないかと思っています。

 私は仲間と撮影に行ったときなど、誰も撮らないところを撮るってことが多い。たとえば小屋の羽目板、錆びた看板、コンクリートの割れ目といったふつうはそんなものは撮らないと考えられるものに「何かいいんだよねー」といった感覚で撮影する。

 それを撮ったらなんになるのか、と考えたら何も撮れなくなる。考えちゃダメ!

“誰もが撮るものを撮っても面白くならない、他人が撮らないものを撮る“。そんな姿勢でいる。

 創作活動は自分だけの世界です。「変なものばっかり撮っているねぇ」といわれたらホンモノだと思っています。「なぜこういうものを撮るのか解んないなぁ」といわれたら御の字です。

 最初はヘンなヤツだといわれていても続けると個性として認められ、作家として一目置かれるようになると思っています

 よい作品というものは、見る人が写真から何かを感じ取ろうとする気持ちが動くかどうかです。 「この写真なにかヘンな写真だけどいいんだよなぁ」とか「想像力をかきたてるっていうか、詩を読むって気分になる。そういう魅力があるよねぇ」といった言葉が続いたら最高。

 「言葉に出来ないものを写真にしている」言葉にできるくらいなら写真なんかやっていない。

そうした独りよがりが個性につながるのです。個性が感じられない写真は他人も面白がっちゃくれません。そう思って“自分流を楽しむ”ことにしています。


海底の葬送>


by yumehaitatu | 2017-11-03 21:26 | やぶにらみ | Comments(0)

やぶにらみ論法103 【展覧会から学ぶ】堀田義夫   

やぶにらみ論法103 【展覧会から学ぶ】堀田義夫

まもなく「夢の配達人展」があるが、最近仲間たちとグループ展を開いた。

 そこで私の個人的な観察によると、展覧会を見てくれる人たちのなかに大きな過ちを犯している人が多くいるように思えた。

 「この写真何ミリで写した?」「そんなに長いレンズじゃないよね、100㎜くらいかな?」「こうした写真はやっぱり望遠だね」「ボケ具合がいい。絞りはいくつくらいなんだろう」といった調子で、作品の内容に触れることよりも関心はもっぱら技法なのだ。

 またモノクロプリンとなると、「プリンターはなに?」「用紙はどこの製品、その銘柄は?」と執拗に聞いてくる人もいる。

 それは写真の撮り方やプリントのお勉強会とでもいった見方だ。写真展を見て、上手い撮り方をする、綺麗なプリントだといった作例写真という見方しかできないというのは情けない。いまのカメラやプリンターの性能はそうした技法の習得を必要としないほど進化している。技術力を評価していた過去の価値観は捨てるべきです。作品を見てなにを感じ何を読み取るといったことが抜け落ちていたら、写真は薄っぺらなただの画像でしか過ぎないとわたしは思っています。 驚いたことに観客の方から、「作品が作者それぞれバラバラで、見にくい!」といった指摘もあったことです。

 「風景写真が好き」「花の写真が好き」といったように写真の分野の同好会としてまとまるということも腕を競い合うという意味ではいいのかもしれないが、いまは写真の趣味はシニア世代が中心だが、コンピュータ社会の中にいる今日のシニア世代は昔の同世代とは写真の感性が違うはず。写真上達法をお勉強する時代じゃない。

 私たちは、それぞれがそれぞれの方法で撮っている写真を持ち寄って、見せ合い語り合ったりしながら、写真展を開き、写真集に纏めている。金太郎飴でもあるまいし、指導者がいて、みんながそれに右に習え!といったグループ活動は望まない。

 ○○写真が上手に撮れましたという成果発表のような写真展では、心ある写真愛好家は物足りなさを感じるだろうし、共感も得られない。それぞれの作者が何を考え、写真で何を表現しようとしているのかを見てもらいたいと思っているのに、そうした期待を裏切っては申し訳ない。

 わたしの作品について多い質問は「はじめからこうしたイメージがあったのか?」ということだった。私がその質問に「モチーフ(写そうとした動機)に遭遇したら、とりあえず写します。それを何度か見ている内にイメージが湧きます」と答えると怪訝な顔をする。

 作品を制作するということは遊び心が必要。いまのカメラは「ちゃんと写る」んです。だからちゃんと遊べば、ちゃんと遊んだ心が観客に伝わる。「こんな写真見たことない」といわれれば最高の賛辞だと思っている。と答えて煙に巻いていました。まもなく「夢配展」です。大いに遊び心を楽しんでみてください。

疑 心


by yumehaitatu | 2017-09-02 17:00 | やぶにらみ | Comments(0)

やぶにらみ論法 102 8万時間を豊かに過ごす   

8万時間を豊かに過ごす102

 ある識者の説によると、20才で社会人になって定年まで勤め上げたとすると、そのトータルの時間は8万時間になるんだそうです。

 また、定年を迎えて84才まで生きたとすると、そのトータルの時間が8万時間だというのです。

いまは長寿社会になりました。仕事に一区切りついたら、残りの8万時間を自分で人生を設計して豊かに過ごせる時間にしたいと思います。

 私はその時間を有効に使うために目標を決めて行動します。その方法は自分を叱咤する意味を含めて新しい年を迎える度に、年賀状でその目標を宣言しています。

 宣言すれば、無理にでもその方向に自分を向かわせます。最近の5年間を振り返ると、

 ※ 2013年;

 あなたが、そこにいるだけで その場の空気が明るくなる あなたがそこに、ただいるだけで みんなの心が安らぐ そんな、あなたに私もなりたい (相田みつを)

金平糖にように角のある自分の性格をこの詩にある「あなた」のようにしたかった。

 ※ 2014年;

 過去を追うな 未来を求めるな いまなすべきことをしっかりとせよ(マハトマ・ガンジー)

過去の栄華を思ったり、未来のことを夢見ることをやめて、いま直面している問題を一生懸命やることだと、自分を叱咤するつもりで目標に掲げた。

 ※ 2015年;

 歳を取っても 人から必要とされる人間であり続ける努力をする (外山滋比古)

歳を取ると、何事もネガティブに考え行動する。60年を超す写真という趣味に飽きないのは写真が好きだから、飽きない道だから、いつも新しく、いつも生き生きして、人に頼られる存在でありたいと願う気持ちから宣言した。

 ※ 2016年;

 生きているうちに 働けるうちに 日が暮れぬうちに (相田みつを)

エンジンが古くなると、掛かりが悪くなる。それを警戒して、相田みつをさんの詩を念じ生活習慣に定着させる目標を掲げた。

 ※ 2017年;

 振り向くな振り向くな 後ろには夢がない(寺山修司)

いろいろのことなど知らなくていい。限りのないことだもの。それより一つのことをハッキリ知った方が良い。それは自分がなにをやりたいのか! ということを。

 だが、そうした目標は立てるのですが、どれもクリヤーできた訳ではありません。目標を立てて、それを遂行する手段としてやる。結果はどうであれ、やらないより、やった方がよいに決まっているからです。

 しかし考えれば、このことは自分の生きざまを飾るために知者・賢者の名言を剽窃して、小賢しく生きてきたことに気付きました。これは銀行から多額の借金をしながら、あたかも自分の財産と錯覚しているようなものです。

 これからは自分自身の預貯金で、身の丈に合った生きざまを心懸けなければならない。

時間の使い方は命の使い方だから…。残った時間を写狂老人はいま、「老いの花道」という表題で執筆中です。

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by yumehaitatu | 2017-07-01 17:00 | やぶにらみ | Comments(0)

やぶにらみ論法101 展覧会を考える   堀田義夫   

展覧会を考える                 201749

 フォトドリーム展も幹部の方々と会員の協力で終わった。私は結果として成功だと思う。ただ、隔年開催という展覧会は固定ファンがつきにくい。1回見そこなったら、3年間は見なかったことになる。それにもかかわらず、多くの熱心な観客は見に来てくれたのだから…という自分を納得させた上での評価だ。

 いま写真の愛好者は大きな岐路に置かれている。それは高齢者層と若年層では写真文化の受け取り方に大きな変化が生じているからである。

 社会現象として若年層はSNS(ソーシャル・・ネットワーキング・・サービス)を利用して必要な情報を簡単に手にすることができる。そのため特別な理由がない限り、わざわざ展覧会場にまで足を運んでくれない。いきおい展覧会を見に来る人たちは高齢者が多いという現象に陥っている。

 だいたい展覧会に行ってみようと思うにはいくつかの動機がある筈だ。私の場合は次の3つが基本になっています。

 ①;自分と自分に関係する組織などで知り合った人のために義理で見に行くケース。

 ②;自分が尊敬したり、憧れている作家が出品している展覧会には、今年はどんな作品を発表しているのかという期待感と、自分を啓発し、学ぶために足を運ぶケース。

 ③;有能な作家を擁した公募展などには、ときの写真文化の流れを知るために足を運ぶケース。

   などがあります。以上の姿勢は観客としての立場から考えてのことだが、自分が出品者の場合は、また違ってくる。

 ①;自分の作品の前にいかに長く観客の足をとどめ置くことができるか。

 ②;観客の反応はどんなものなのかという不安と期待感。

 という個人的な想いがあります。

 しかし、主催者として展覧会が成功か不成功かを考えたときには、また、別の工夫が要求されます。それは、観客から、来て見てよかったというと満足感を与えられることができたか?である。それのことは、

 ①;他の展覧会では見られない差別化を図られている。(作品の独自性・会場構成・観客対応)

 ②;作家と観客の接点の工夫されている。(人との出逢い・知的財産の共有・知的刺激の供与)

などがあると思います。

 そうした点では、今回のフォトドリーム展は小間康嗣さんや大川元一さんの、この展覧会の良かった点として制作手順が掲示されていることに観客が大いに関心を示し、会場内での滞留時間が長かったと、制作手順書の掲出が効果的だったという分析結果を聞かしてくれました。

 出品者にとってはレシピの制作に負担を感じ、敬遠される向きあるようですが、私は上掲のように、

それぞれの立場や時の流れを勘案したとき、多少の難しい問題を含んでいても、自分たちの展覧会に少しでも魅力を持って貰うためには避けて通ってはならない気がします。怠惰に前号踏襲の姿勢に流されていては、展覧会の持つ意義は失われる一方です。幹部を含め会員の方々の協力を得てデジタルフォト研究会だからこそできたという、時代に沿った展覧会を続けて欲しいと思う。
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by yumehaitatu | 2017-05-06 17:00 | やぶにらみ | Comments(0)