やぶにらみ論法「わがままを楽しむ」堀田義夫   

わがままを楽しむ
7月14日の新聞にアメリカのメジャーリーグで活躍した野茂英雄投手の引退が報じられた。その記事の中で、「人は引退するときに燃え尽きたから悔いはない!といいますが、ボクの場合は悔いがあります」とコメントしていた。悔いのない人生なんてあるのかと改めて考えさせられた。
 ある公募展での話し。○○メーカーの型式○○の額縁に額装のこと、という規定に対して、型式の異なる額装の作品が持ち込まれた。当然規定外だから主催者から「展示は認めるが入賞審査対象外」と告げられて、出品者は怒って展示を断り作品を持ち帰ったそうだ。主催者側とすれば多くの作品を審査したり、展示効果などを考えれば、最低限の規定は守って貰わねばならないと思うだろうし、出品者にとっては、作品に対してもっとも似合う体裁で出品したいだろう、そこの折り合いが難しい。
 また、モノクロプリントで伝統のあるグループ展を見に行ったら、幹部の話として、最近の傾向で会員の中にはデジタルカメラを使う人が増えてきている。そうだからと言って伝統あるクラブなので、デジタルプリントは認めないというのだ。だが、明らかにデジカメで写したと思われる作品が展示されている。聞いてみると、デジタルでプリントアウトしたモノをフィルムカメラで複写して、現像・焼き付けして出品したモノなら認めているという答えが返ってきた。なんとも不可解な話である。
 また、ネーチャーフォトの愛好者を中心にしたクラブで、人物が写っていたり、人工物が写っていてはいけない、と言っていながら公園や植物園で花を写している。公園や植物園の花は人工的に交配されたり、植栽され、品種改良されているんだけどなーと思う。ばかげた話しである。
 俳優の中尾彬さんは,「趣味や道楽を楽しむには先生につかないことだ!」とちょっと驚くようなことを言っている。すなわち、一般的に先生と言われる人は、自分の趣味を押し付けたがり、また生徒の方は先生に褒めてもらいたいから先生の好きに合わせる。といった図式が存在する。
「こんなことをやったら、先生はなんて云うだろう」と思うと、いきおい発想が萎縮してしまう。元々、趣味だとか道楽といったモノは、先生や周辺の事情で行われるモノじゃなくて、自分が楽しむためのモノでなければならない。
 主催者側の都合で決められた出品規定に合わせて作品を創ったり、せっかく新テクノロジーとして登場し表現領域が拡大されたデジタル表現を否定して、アナロク時代の不自由な表現形態に固執することを強要される。あるいは人工的なモノが画面に入ってはいけない!といった、作者の表現意図を束縛されたんじゃつまらない。
 冒頭に掲げた野茂英雄投手の「悔いがある」という台詞。わたしたちは 「悔いがない」人生を送るために、人に後ろ指をさされても良いから、思いっきりわがままを楽しもうではありませんか。
     < 炎 暑 >
やぶにらみ論法「わがままを楽しむ」堀田義夫_f0018492_1349948.jpg

by yumehaitatu | 2008-08-03 13:39 | やぶにらみ | Comments(0)

<< 9月研究会 効果的なピンと合わせB 渡辺澄晴 >>