堀田義夫のやぶにらみ   

 堀田義夫の「やぶにらみ論法」44

趣味と道楽
 写真というメディアはドキュメンタリーフォトといわれる「ありのままの現実に虚構を加えずに記録・構成」するといった分野もあるし、また新聞写真のように「事実の伝達手段として文章の「エトキ」として使われる場合もある。それとは別に、美しい自然の姿に感動してその美しさを永遠に記憶に止めようとするネーチャーフォトや、潜在意識を可視化しようとするアートとして写真というメディア使われることもある。
 ところが、写真の会合などで、評論家の○○先生などと紹介されることがある。はなはだ迷惑な紹介の仕方だと常々思う。写真評論家などと名乗るには、あらゆる分野の文化・文明に精通した人でなければ務まる話ではないからだ。
 昭和23年に始まった私の写真への道は、田村栄・伊藤蒼海、赤穂英一先生といった、決してプロと呼ばれる先生方ではなかったが、一流の先生たちだった。
 田村栄先生は「私は写真の評論家ではない。皆さんの作画についての助言者である。助言をする時に、作者がなにをいちばん見たかったのか、その見たものをうまく他人に伝えるための工夫が良かったか悪かったか。もし悪かったら、なにをどうすれば良かったかを見抜いて助言するのが任務である」といつもおっしゃっていた。
 また、赤穂英一先生は「指導者としての姿勢は、撮影のためのテクニックや現像・焼き付けの技術的な知識や知恵を教えるのではなく、その人の持っている感性の芽を見いだして、それを育てることだ」。現像だ、焼き付けだ、露出がどうのといった写真職人を育てるようなことは一度もいわなかった。
 伊藤蒼海先生は『完全な指導者は駄目! なぜならそれは完全に支配者になってしまうからだ。未完成な指導者は未完成な人の立場に立てる。すなわち『教育』ではなく『共育』だ。つまり、共に育む環境を作ることができる人になることだ」と教えてくれた。
 半世紀に及ぶ私の写真歴の背骨をなす考えは、こうした先生方から受けた薫陶である。 
 ところで旧知の人に邂逅すると、『まだ写真やってんの?」と聞かれる。『うん…まぁー…』とお茶を濁した返事をしているが、明らかにその表情から侮蔑の色が読み取れる。また知らない人に会った時、『趣味はなんですか』と聞かれたりする時もある。そんな時、『趣味ではないんですが写真道楽を少々…』なんて答えると、怪訝な反応を示す。
 一般的に『趣味』といえば高尚に聞こえ、『道楽』というと放蕩、ばくち・酒色といったことを連想し、いい印象を持たない。だが本来『道楽』とは、『道を解して自ら楽しむ』ということなのだ。だから、わたしは『道楽』という言葉のとおり、これからも生あるかぎり写真を『楽しむ』人の応援者でありたいと思っている。
<渦に憑かれて>
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by yumehaitatu | 2007-12-01 22:15 | やぶにらみ | Comments(0)

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