やぶにらみ論法 ~写真から写心へ~   

堀田義夫の「やぶにらみ論法」(34)

~写真から写心へ~
                                   
 
 最近、ある写真クラブが「○○写真クラブ」から「○○写心クラブ」と改名した。
 ところがちょっと注意すると、カメラ雑誌を含め、写真文化に関わる環境の中で「写心」という字句をずいぶん目にするようになった。

 「真実を写す」と書いて写真。写真の使命は、長い間そういうことだと信じていたから使われていた字句なのだろう。
 でも、写真の役割とは果たしてそれだけなのだろうか? と思ったら違う。たとえば美しい風景を写すとき、表現したいのはありのままの真実ではなく、心に響いた美しさだと思うのです。
「心を」写し、「心を」伝える。それが見事に実現したとき、写真は単なる現実の記録から「作品」に変わり、第三者の琴線にまで届くメッセージを伝えることができると思うのです。そうした意味では「写真」より「写心」という字句の方が似合います。

 ところが写真の一番の弱点は、メカニズムの巧みな扱い手が優秀な作家だと周辺が持ち上げたり、テクニックの習得に長じれば、優れた作家だと勘違いした評価を下したり、下されたりするのです。
 写真のプロセスには、テクニックの習熟を要求する側面を持っているのは確かだが、写真を趣味にする人たちは、いかに「現実」の景を見事に複写するかの努力より、「心」を写すことが優先するのだということに気づいていないのです。
 
 評論家の堺屋太一さんは「団塊の世代」という言葉を生みました。そしてこれからは「好老の時代」すなわち、「好きなことをやりながら老いを楽しむ時代」に向かうだろうと予言しています。
 若いころの思い出だが、山登りをしていたころ、急な傾斜地を黙々と下を向いて歩いているとき、ふと先輩が声をかけてくれた。「立ち止まって見てごらんよ。こんなきれいなところを歩いているんだよ。」周囲が目に入らないという余裕のなさでは、人生の上り坂を歩いているのに似ている。
 いまは若くはないのだから、山登りの先輩の言葉のように、あるいは堺屋太一さんの予言うように「好きなことを、好きなときに、好きな人たちとやれたら、こんな幸せなことはない。」と考えて、「写真」ではなく、「写心」という字句の方を選び、「好老の時代の文化に目覚める」ことが好ましいと思うのだが、どうだろう。

by yumehaitatu | 2007-02-02 13:37 | やぶにらみ | Comments(0)

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