写真雑学72     昭和は遠くになりました 渡辺澄晴   

写真雑学72     昭和は遠くになりました 渡辺澄晴

「ドン!パラパラ」

うっとうしい天気が続いた7月13日(土曜日)。横浜中華街の飯店で、所属のフォトクラブ創立30周年記念のパーティーが行われた。通りには大勢の浴衣姿の若い女性が花火見物に山下公園に向かっていた。この日も小雨が降ったりやんだりの天気。花火大会は中止になるかもしれないと思っていたが、「ドン・ドン」という音とともに始まった。腹を刺すような音だが、花火は遠くのビルの窓ガラスに僅かに映る程度で、音だけが大きく聞こえていた。この音を聞くと、昭和19年(1944年)11月第2次世界大戦末期にアメリカ軍による恐ろしい焼夷弾、東京大空襲が脳裏に浮かんできた。多数の小型花火を連続して打ち上げるスターマインは花火大会の見せ場の一つだが、音だけを聞いていると、米軍機のB29爆撃機から投下してきた焼夷弾の落下光景を思いだした。

花火大会がフィナーレに近づくと「ドン・パラパラ」という音とともに、スターマインの美しい光の色が空を舞うが、「ドン!パラパラ」という音は、夜間に低高度から大量の焼夷弾をばらまき、夜の都会の空を真っ赤に染め、昼間のように明るくなったあの恐ろしかった空襲の音によく似ているのである。

無事に花火も終わり、駅や車内は音と色を肌で感じた見物客で賑わっていた。花火は平和の象徴。「ドン!パラパラ」は、いつまでも夜空を彩る美しい花火の音であって欲しい。

夢の夢、そのまた夢のニューヨーク

今から50数年まえの1960年代。日本は敗戦から立ち直り景気が向上していた。しかし、その頃の為替レートは、1ドルが360円。ニューヨークまでの片道が60万円余。10万円弱の給与では今のようにちょっとニューヨークに旅行になどできるわけがない。そんな折、「なべさん!ニューヨークへ行かないか」と誘ってくれる人がいた。当時は厚生課長で東大法学部卒のいずれ社長になるエリートS課長からだった。彼とは廊下ですれ違い挨拶する程度でそれほど親しい中ではなかったが「写真が上手い渡辺」,そんなことで好意をもってくれていたのだと思う。当時は長期の滞在は申請してもなかなか許可が下りなかった。大使館に行き渡米の目的をいろいろ聞かれ返事ができないと却下されると脅かされた。英語は苦手で大嫌い。そのことは会社でも知っていた。「英語の講師を会社でお願いする」と、人事課から連絡があり、津田塾大学から若い女性の講師が来てくれた。アメリカ生まれの美人先生だった。一回一時間半。一週間のマン・ツー・マンの授業はとても楽しかった。

一か月後、大使館に呼出された。提出した書類を見ていた係官は何も聞かず「OK」と言って渡米許可のスタンプを押してくれた。実にあっけない面接だった。「この者,重要につき特別な計らいを・・」と、アメリカから手をまわしたと聞いているが、これは定かではない。誘ってくれたS氏は既に現地会社の副社長として着任していた。

1962年 ハーレムの若者
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by yumehaitatu | 2019-08-03 12:00 | 写真雑学 | Comments(0)

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