やぶにらみ論法「いまさら…」(111) 堀田義夫   

やぶにらみ論法「いまさら…」(111)   2018/12/14

 11月の導入講座で「スマホ入門」を学ぶ機会に恵まれた。1回目に続いて2回目の受講である。

 正直な話、ガラ携で不自由を感じていなかったので1回目を受講したとき、「若者文化」の象徴のようなスマホに「いまさら…」といった気持ちがあって、導入を見送っていた。

 ところが使い慣れたガラ携が故障してしまい買い換えた、そして手にしてその利便性に驚いた。

 たった160グラムの重さなのに、撮影はもちろん、百科事典、ナビゲーション、買い物まで実に多彩な機能を備えている。こんな便利な物を使わない手はない! と遅まきながら気づいた。

 ところがそこに至るまでには、あと何年も生きる訳じゃない。「いまさら…」面倒なことをやるくらいなら、多少不便でもいままで通りで良いと思って、スマホを積極的に使おうとはしなかったのである。

 ところがその利便性に優れたスマホを実際に手にしたが、なかなか思うように使えないし、理解できないことが多い。そこで孫に小遣いを与えながら教えを受けている。

こうしたことを世間ではリバースコーチ(年少者でもその道に秀でた人が年長者を教える)という。

 

 川柳に「年とって 飲み込み悪い喉と脳」というのがあるが、同じことを何回も聞く始末。孫にとっては煩わしさを感じるらしい。

 その挙げ句、口には出さないまでも我が家では、年寄りの面倒は厄介だという雰囲気が漂う。その結果、孫は賢者で年寄りの私などは愚者といった図式が定着されてしまった。

 しかしこの兆候は我が家に限ったことではない、見渡せば世間一般にその兆候は認められる。

 しかし本当にそうだろうか?と考えたとき、確かに流行に敏感な若者はその流れに便乗する器用さは年配者よりは優れている。そうした点では一見、賢者という評価は間違いではないかもしれないが、経験智という厚みを感じない。

 それに比べれば、年寄りは理解力や流行に溶け込むことでは若者にかなわないかも知れないが、伝統から学んできた豊かな知的財産を持っている。

 ところが年をとると自分を過小評価して、考え方がネガティブになり、「いまさら…」といって言い逃れや照れ隠しをしているように思える。

 私の場合、使い慣れたガラ携の故障のためやむを得ず「いまさら…」を体験させられている最中に長いつきあいの写友から展覧会の案内状が届いた。

 この友人はかつてスポーツ新聞社のカメラマンとして活躍していた。

 出品した作品を拝見して驚いた。今から半世紀前の「巨人・大鵬・卵焼き」といわれた時代の大鵬関や柏戸関を写しているのだが、昨日写したかのような見事な階調に整った作品だった。

 私の経験智から5060年前のフィルムはカビが生えたり乳剤の劣化が目立のだが、そうした欠点が見えない。作者にそうしたことを伝えたら、「あなたから10年くらい前にデジタルを勉強しろ!といわれたが、いまさら…といった気持ちで躊躇してしまった。今は後悔しています」と告白された。

 今回の出品作は手元に残してあった紙焼きの印画をデジタル化し、レタッチをした物だが早くにこの技術を身につけていたらもっといろいろ貴重な作品が残せたと残念がっていた。

 考えると、「いまさら…」という消極的な生き様は人生にプラスにはならないことに気づかされた。
<小春の海>

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by yumehaitatu | 2019-01-12 13:00 | やぶにらみ | Comments(0)

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