やぶにらみ論法110  【運・不運】 堀田義夫   

やぶにらみ論法110  【運・不運】 堀田義夫

「フォトシティ・さがみはら」で当研究会の杉本鉄雄さんが銀賞を射止めた。本人の話によると友人と格安旅行で香港に一泊二日、14000円の旅行をしたとき写した写真で、賞金10万円を獲得して差し引き86000円のお小遣いを得たという。

同じ展覧会で銅賞を受賞した牛木実さんも東海道五十三次「神奈川沖浪裏」という版画に触発されて、江ノ島で写した写真を出品して5万円の賞金を獲得した。

だが、この人は撮影に夢中で、突然の大波に見舞われ全身ずぶ濡れになり、28万円もした高級カメラは無残にもオジャンなり、賞金5万円では差し引き23万円の持ち出しになったとこぼしていた。

本人たちからこの話を聞いたとき、人の運・不運ってあるんだなーと失礼だが大笑いしてしまった。また本人たちも、別に賞金稼ぎが目的でないから、軽い気持ちで裏話を語ってくれたのでしょう。

この両者には「賞金が目的で応募しているんじゃない!」(それが目的の人もいるだろうが…)

自分の作品が他人と競い合い、権威ある人によって認められたという承認欲や自分の存在感を確認したいといった軽い気持ちだから笑い話で済まされたんだと思うのです。

だが、ここで取り上げる「権威ある人…」と思われている人が本当に権威を持っているかといえば、実際にはそうではない。

私の経験でも、ある市民展の審査を依頼されたとき、主催者側から、「市民展なので、高度な技術力・専門的な知識がなければ理解できないような作品を高く評価されても困る。市民に私も出品したいという気をもってもらいたいという私どもの思いもお酌み取りください。」

という要望をされたことがあった。

「権威ある人…」というのは主催側の傀儡といった面もあり、実は権威者…ではないのです。

最近ある市民展を鑑賞した。そこで感じたことは上位入賞した5点の内の4点が組写真だった。

私には、なぜ組写真にしなければならないのか、その必然性を感じない。同じような場面の写真を、ただ並べただけといった印象で、作意が冗漫だ。

出品経験者によると、入賞するには組み写真じゃなければ入賞しないという伝説があるらしい。

下位に入賞した佳作8点はすべて単写真だった。審査員の資質にもよるのだろうけれど、この極端な組み写真有利な審査結果は素人目には写りが良いかもしれないが、真剣に表現者として写真を学ぶ人にとっては不運なことだ。こんな審査結果を「権威ある…」人の評価として一喜一憂してはならない。

「権威ある人…」と思い込まれていることで、いちばん不運なことは、文化活動の一環として行われる市民展が、前号踏襲といった時流を読めない「権威ある人」によって歪められてしまうことは不運だ。

1970年頃までは写真展に出品するなんていったら、現像や焼き付けはもちろん、作者の表現意図も明確で作者のメッセージが伝わる作品が多かった。

1970年後半の頃からカラーフィルムの普及で、現像や焼き付けの技術はアマチュアの愛好者には秘匿されて、企業で行われるようになった。

そうしたことから写真表現は画一化されて表現力を培う風土が途絶えてしまったように思われる。

2000年頃から普及し始めたデジタルカメラは、確かにフィルムカメラの延長線上で生まれたものに違いないが、道具が変わればやり方も結果も違って当たり前、表現領域を拡大したデジタルフォトを学ぼうともせず、前時代的感覚、写真界に長く携わったという経験で「権威者…」風を吹かされてはたまったものではない。

そうした意味で冒頭あげた二人の作家のようにすべては運・不運と達観することだ。
「思案に余るとき」

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by yumehaitatu | 2018-11-03 23:57 | やぶにらみ | Comments(0)

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