写真雑学69 東京オリンピック1964年 渡辺澄晴
2018年 06月 02日
1960年代の、報道カメラマンの常用カメラは日本では、アメリカのグラフレックス社が戦前に売り出した(スピードグラヒィック)だった。カメラを支える左手には大きなフラッシュが付けられていた大判カメラである。一目で報道カメラマンと分かる憧れのカメラだった。しかし大きく重く、操作性の悪いカメラだから、動きの早いスポーツ写真にはそぐわない。そのことで「1964年の東京オリンピック前後のカメラ事情を聞かせてほしい」と、朝日新聞経済部の記者の取材を受けた。すでに、アメリカでは35フイルムが使える小型の一眼レフカメラに切り替えていた。その一眼レフカメラが、ニコンFだった。
このカメラに1964年の東京オリンピックのために、Fに搭載して連写できる「モータードライブ」を開発した。ところがそのモータードライブが故障続出でお手上げの状態だった。このトラブルの情報は、スピグラカメラが主力の日本からでは得られなかったので、1962年9月15日(私の33歳の誕生日)に、原因究明と処理のためにニューヨーク行きを命じられた。半年ほどで、幾つかのトラブルの原因を突き止めることができ、仕事は順調に進み普段の生活にも余裕ができた。その頃ニューヨークでは日本の坂本九が歌った「上を向いて歩こう」(すき焼きソング)が大流行。街を歩いていても、この歌が耳に飛び込んできた。
間もなく卒寿
着任まもなく震撼させるニュースがテレビからまいこんだ。ミサイルを積んだソ連船が、キューバに向かう途中で、アメリカとソ連・キューバとの一触即発の危機。翌年の1963年11月22日には、ケネディ大統領がダラスで暗殺されるというビッグニュース。アパルトヘイト(人種差別)。64年にはベトナム戦争。そして東京オリンピック。などなど、内外とも慌ただしい時代だった。
1ドルが360円、自腹で東京とニューヨークを往復するのはとても無理。ファックスもメールもあるにはあったが・・・、妻子を日本に残しての独身生活は辛く不便だった。こんな精神的な苦痛を癒してくれたのが、カメラを持ってニューヨークの街を撮ることだった。休みになると、広角レンズと望遠レンズを着けた2台のニコンFを首から下げて撮り歩いた。肩にずっしり食い込む重いカメラを2台、(時に3台)も30歳半ばの若さと撮影の楽しさが、ゴルフやドライブに仲間から誘われても断る理由となって、ひたすらカメラを持って街をほっつき歩いた。が、今は違う。カメラは重く感じ、1人で撮影に出かけるのが億劫になった。4か月後には卒寿を迎える。第2回の東京オリンピックまであと2年余。若いころは階段を駆け上ったり、駆け下りたりしたりが、今はエレベータ・エスカレーターを愛用している。カメラも軽い物に変え、もうひと踏ん張りしてみたい。
「1963年NY」
写真左は200ミリ望遠レンズ 右の写真は28ミリ広角レンズを使用。
by yumehaitatu | 2018-06-02 10:00 | 写真雑学 | Comments(0)