カテゴリ:写真雑学( 66 )   

写真雑学36【フィルムに別れ】渡辺澄晴   

もったいない
「捨てるのはもったいない」「時間がもったいない」と、よく口にします。物の値を十分に生かしきれずに、無駄になっている状態や、そのような状態にしてしまう行為を戒める意味で使用されてるこの「もったいない」は、2005年環境分野で初のノーベル賞を受賞したケニア人女性、ワンガリ・マータイさんが来日の際に感銘をうけた日本語でした。マータイさんはこの美しい日本語を環境を守る世界共通語「MOTTAINAI」として広めることを提唱し、テレビでもお馴染みになっていました。

捨てるか使うか17本のフイルム
デジタルカメラを使い出してから私のカメラの棚には、電池を抜いた数台のフイルムカメラが棚晒しになっています。その中の一台だけに電池とフイルムが挿入されていて、何を写したのか、カウンターは21を指していました。写したものが気になったので、残り十数枚は庭の椿を撮って、久しぶり現像に出しました。フイルム全盛期には現像時間は数時間だったのに、この日は翌日の仕上がりでした。冷蔵庫の中には、まだ17本の35ミリのカラーフイルムが残っていました。いまさら使っても現像に時間と費用がかかり、「費用と時間がもったいない」デジタルと比べたら作品の仕上がりも歴然として劣ります。
このフイルムを使ってくれる方がいたので、使わないもったいないは救われました。記念に2本だけ残しました。

炭鉱内の写真は撮ったのか?
前回の雑学35で北海道幌内炭鉱の進入記、「一日炭鉱夫」の記事を書きました。炭鉱夫に扮した記念写真を見た人から「若いときはハンサムだったんですね!」とお世辞を言われました。その返す刀で「写真ではカメラを下げていましたが、実際に坑内で撮影したのですか?」と聞かれました。
先に結論を言うと撮影は失敗でした。坑内はフラッシュは使えない。照明はヘルメットの懐中電灯だけ、フイルムは当時の高感度SSS(ISO200)を400に増感現像して50ミリF1.4開放で、シャッタータイムをいろいろ変えて挑んでみたが、結果は露出不足とカメラブレで、満足に撮れているものは一枚も無しでした。当時コダックからTri-X ISO 400の高感度フイルムが発売されていたが一般には入手困難の時代でした。仮にこのTri-Xを増感現像したとしても、せいぜいISO1600程度。ISO3200や6400の高感度が当たり前に使える今のデジタルカメラなら、撮影は成功したろうと思います。
「心斎橋」
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by yumehaitatu | 2012-06-03 00:14 | 写真雑学 | Comments(0)

写真雑学35 「一日炭鉱夫」 渡辺澄晴   

チャンチキおけさ
 1958年の春、巷では立教大学からの大物ルーキー長嶋茂雄(現東京読売巨人軍終身名誉監督)が巨人軍に入団し、野球界に話題をまいていました。その年の春、勤務していた職場の慰安旅行で群馬の伊香保温泉行きました。当時流行っていた三波春夫のチャンチキおけさを文字通り小皿叩いて何度も繰り返し歌い騒いだ楽しいひと時でした。宴会が終わり二次会に入ってから、誰ともなく「近い時期に札幌にサービスセンターが開設される」「そこへ、この職場から誰か一人行く」「独身で25歳前後で健康であることが条件」など、二次会の議題?は人事異動の話しになりました。「誰が行くんだろう?」お互いに、おだでたり、慰めたり、けん制したりで話しは尽きなかった。当時、私は独身だったが歳は28。若く優秀なのが他に大勢いたから、勝手にこの人事は想定外と決め込み「おまえか!」「あいつか!」と、気楽に話題の輪に入っていました。

転勤辞令
 ところが、人事は難航していました。今では日帰り可能な札幌だが、当時は飛行機は部長以上という決まりだった。上野発の夜行列車に乗って20余時間。遠い寒い北海道は、島流しのように思っていた人が多かった。そんなことから、健康上や家庭の都合などの理由で候補者が次々辞退していたのです。
 伊香保の旅行から一週間後、部長に呼びだされた。課長も同席していた。「渡辺君!札幌に行ってくれないか?」ついに補欠の補欠にお鉢が回ってきた。「行かせていただきます。」即答だった。スキーが存分にでき、四季折々の風景が楽しめる。それに加え北海道にはカメラ雑誌で活躍している著名な写真家が大勢いる。中でも1950年代に土門拳が提唱した、リアリズム写真(絶対非演出の絶対スナップ)の影響をうけた社会派カメラマン「河又松次郎、掛川源一郎、及川清次郎という先輩方がいる。」「その人たちに会える。」そんな気持ちが先行していたので、札幌勤務には何のためらいもなく札幌転勤を受けました。
 
一日炭鉱夫
 1958年11月末、日本光学(現ニコン)札幌サービスセンターが大道りに面したテレビ塔の前にオープン。店内はカメラ・レンズ、顕微鏡、測量器、双眼鏡などのニコン製品が展示され、所長と私と現地入社の女性3人での船出でした。
 開店してから間もなく切望していたご当地の写真家の一人及川清次郎さんがセンターを訪ねてきました。幌内炭鉱に勤務の傍ら炭鉱の写真を雑誌に発表していた社会派カメラマンでした。いつも笑顔を絶えさず、ニコニコ接してくれました。ある日、及川さんに「炭鉱の中に入れないか?」。一般の人の入坑はできないことは承知の上で尋ねてみると、さすがの及川さんも顔をこわばらせ、「渡辺さん!潜ったら8時間は出られませんよ!」と脅してきた、「かまいません!」。こんなやり取りの後「それではニコンの測量器の坑内テストということで・・」となり、炭鉱入坑の許可をもらいました。
 入坑当日は朝8時、鉱夫の衣服に着替え、測量課長のK氏が同行してくれ及川さんと3人で一般の鉱夫と一緒に潜ることになりました。20人乗りのエレベータは耳が痛くなるほどかなりのスピードで500メートル降下。そしてトロッコ電車に乗って80メートル斜めに効果。下車して今度は暗い坑内をヘルメットに着いた懐中電灯を頼りに10分歩き、ようやく現場にたどり着きました。騒音と炭塵の舞い上がる地下580メートルの石炭堀の現場をつぶさに見てきました。滞在時間は4時間でした。
写真「28歳の筆者(左)と記事中の及川氏(右)」
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by yumehaitatu | 2012-04-07 23:10 | 写真雑学 | Comments(0)

写真雑学34 フィルムの電気 渡邊澄晴   

「フイルムの静電気」   
 アメリカの代表的な企業、イーストマンコダック社がデジタルへの対応が遅れ業績が低迷、破産法の適用を申請する可能性があると報じられました。
 友人からの今年の年賀状に、「ついにフイルムに別れを告げ、デジタルに転向しました。」「フイルム時代の暗室は今は物置・・」「パソコンを勉強中」など書かれたものが複数ありました。ユーザーがこんな状態だから、フイルムの使用が激減するのも当然です。
コダック社との確執
 この事件は、東京オリンピックを2年後に控えた1962年の冬で、私がニューヨークに赴任した年でした。乾燥している冬の季節には、フイルムを巻き上げるとカメラのプレッシャープレート(圧板)と、フイルムとの摩擦により静電気が発生していました。TRI-X ISO400の高感度フイルムはこの静電気のため画面の中にミシンの目のように小さな黒点が出るのです。この高感度フイルムはプロカメラマンの常用品だったから事は重大でした。
 当然コダック社では、この静電気防止の対策を考えていました。ところがその対策が裏目に出てしまったのです。静電気防止をした新しいTRI-Xを使ってみると、モータードライブが通常に作動しなくなくなったのです。原因はフイルムのベース面に静電気防止の液体が塗られていて、それがカメラのプレッシャープレイに貼りつきフイルムがスムーズに移動いないのです。
問い合わせても返事なし
 このことをコダック社に問い合わせたが、返事なし。カメラマン側からは「TRI-Xが使えないならモータードライブは使わない」と苦情頻繁。たまりかね、関係者を呼んで「原因はフイルムあり」とデモンストレーションを試みることにしました。
 「モータードライブはTRI-X以外のフイルムなら正常に作動する。」「以前のTRI-Xは正常に作動していたのに・・今・・なぜ・・」関係者の前で各種のフイルムを装填して説明しました。デモンストレーションは成功。カメラの責任ではないと納得した関係者は、今度は矛先をコダック社に向け、「モータードライブに使えないフイルムなら使わない」と在庫のフイルムをコダック社に返品したのです。
情報を共有
 数日後、コダック本社から技術部長が新しいTRI-Xを持ってオフィスに説明に来られました。そして「完璧ではないがこのフイルムなら・・」と新しいフイルムを置いていかれました。モータードライブは以前のようにスムーズに作動するようになりましたが、静電気はやはり冬の乾燥期には発生しました。
 スピグラから35ミリカメラに変えた日本でも、この静電気が問題になっていました。当時はISO 400の高感度フイルムはTRI-Xだけだったので、カメラメーカー、コダック社、ユーザーの3者がこの静電気の情報を共有して発生防止対策を講じるようになりました。
 コダックTRI-X ISO400の静電気! 50年前の懐かしい思い出です。
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by yumehaitatu | 2012-02-05 09:40 | 写真雑学 | Comments(0)

写真雑学33 50年前のお話し 渡辺澄晴   

50年前のお話し
 1969年ニコンF一眼レフカメラが発売され、少し遅れてモーターでフイルムを巻き上げるモタードライブが付属品として発売されました。自動でフイルムを巻き上げができ、最高3駒/秒の撮影ができるというカメラは、当時としては活気的なものでした。 ところが、そのモータードライブに、トラブルが頻発したのです。その原因調査に1962年、現地法人ニコンINCに赴任を命じられました。
 日本の新聞社ではまだ、アメリカ製の大きなスピード・グラヒィクカメラ(スピグラ)が主力カメラでしたが、既に欧米では35ミリフイルムの小型カメラに変わっていて、モータードライブも大量に使われていました。会社の規則により、2歳になった長男と妻を日本に残しての単身赴任でした。当時は、1ドル360円。簡単に行ける時代ではなかったのです。
ハングリーな精神が・・・
 右も左も言葉もわからず、妻子を残しての赴任。FAXもメールもこの頃はなく、本社との連絡もはかどらず、思い通りに行かぬクレーム処理等々、ストレスは溜まるばかり。そんな折の週末。ニューヨーク・マンハッタンの中央を走る5番街を南に下った所にあるワシントン広場と、その広場を取り巻くグリニッチ・ビレジを発見しました。長い髪の女,あごひげの男。ここにたむろする人たちと周囲の風変わりな店並にすっかり魅せられ、週末になるとカメラを持って通うようになりました。ニューヨークに来て半年が過ぎた頃でした。タイミングのいいことに、日本では「ワシントン広場の夜は更けて」の歌が流行していました。「これはいける」。何とかまとめて日本に帰ったら写真展をやりたい。撮影意欲は日を追っ高くなりました。
平パンチの創刊号 
 東京オリムピックの年を迎えた1964年4月。ニューヨークに来てから、間もなく親しくなり、何かとお世話になっている彫刻家の斉藤夫人から「紹介したい人がいるから、ワシントン広場の若者を取材した写真を持ってきてください。」と、電話を受けました。以前、夫人が勤めていた平凡出版社(現マガジンハウス)の明星の編集長・清水氏と、その日の夜、斎藤家でお会いしました。〈清水氏は後にマガジンハウスの社長・会長になった方でした。〉「若い男性向けの週刊誌を考えているので、そのグラビアにワシントン広場の若者たちを取り上げたいから・・・」という趣旨の話を受けました。持参したアルバムを清水氏に見せたところ、「これでトップのグラビアは決まり」と言って、その中から10点ほど抜き取り東京に持ち帰りました。
 1964年5月11日、男性週刊誌・平凡パンチが創刊され、「ワシントン広場の若者たち」というタイトルでグラビアトップ5ページで掲載。「静かな街の片すみに・・ワシントン広場の夜は更けて・・」と、歌詞も載っていました。ちなみにこの平凡パンチの創刊号は、神田の古本店で2万円の値がついています。(当時50円)
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by yumehaitatu | 2011-12-04 09:27 | 写真雑学 | Comments(0)

写真雑学32「モータドライブ」   

ニューヨークに赴任
 いまから49年前の1962年9月15日は、私がニューヨークの現地法人ニコンに赴任した日です。そしてこの日は33歳の誕生日でした。赴任の目的はニコンFモータードライブカメラのクレーム処理と現地の報道カメラマンの使用現況調査でした。
 その頃、日本の新聞社の主力カメラは、アメリカのグラフレックス社で作られていた蛇腹式カメラ、4×5インチの大判フイルムを装填したスピグラ(スピードグラフレックス)を使っていました。ところが欧米では既に機動性、速写に優れた日本製の35ミリ一眼レフカメラが主力でした。つまり当時は、日本の報道カメラマンはアメリカ製のカメラで、アメリカのカメラマンは日本製カメラという奇妙な関係だったのです。
不器用だからモータードライブを使うんだ!
 1962年頃は、「欧米人は不器用だからモーターを使うのだ!、1秒間3駒程度の連写では決定的瞬間は撮れない」などと言っていて・・。国内の新聞社は前述のように、スピグラが主力だったのです。
 しかし、アメリカでは「不器用だから便利な機械に頼るんだ」と答えているように見える驚くような使用率でした。1963年東京オリムピックの前年に開かれたプレオリムピックでは、欧米のカメラマンたちが35ミリのフイルムを、バケツの中に入れ、フイルムを湯水のように使う様子をつぶさに熟視。重くて大きく、操作性の悪いスピグラの時代は終わったと悟ったようでした。
モハメド・アリにニコンF3を寄贈
 ニューヨークに行って間もなく、パターソンとリストンの世界ヘビー級の試合があり、リストンがチャンピオンのパターソンをノックアウト。(このことは雑学22号で述べています)2年後、今度はリストンがモハメド・アリにノックアウトされ敗れます。そのアリが1976年プロレスのアントニオ・猪木と日本武道館で格闘技世界一を争うため来日しました。誰ともなく「アリをニコンに呼んでニコンを寄贈しよう!」ということになったのですが、「3億円のファイトマネーの多忙の彼が来るわけがない!」。結論は、「だめでもともと」と云うことになり、関係者を通じ交渉したところ、あっさり快諾してくれました。実は彼、大のニコンファンだったのです。アリはニコンF3を組み立てている品川区西大井にある大井工場を一時間余りかけて見学しました。工場内は大フィーバーでした。そしてニコンF3 50ミリF1.4 モータドライブ他を寄贈しました。
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座っている右側、モハメド・アリ、左、更田雅彦副社長
〈ニコンカメラ設計者)、二人の間に立っているのが筆者

by yumehaitatu | 2011-10-01 22:19 | 写真雑学 | Comments(0)

写真雑学31「料理と写真」 渡辺澄晴   

写真雑学31  料理と写真                   渡辺澄晴

露出・ピンと・構成
 フイルムカメラの時代ではピント以前に露出という大きな問題がありました。デジタル時代になってから、その露出を「露出?何んだそれは?」と、ピントの意味は分かっていても「露出」という用語を知らない人がいます。写真教室では、「レンズの明るさとシャッタースピード・感度などの要素を組み立てて自然に見える濃度のことで、ハイライト部からシャドー部まで最も調子よく描写され過不足のない光の量のことを適正な露出といい、写真は1に露出2に露出で、露出が写真の命です。」と、このように教えてきました。しかしデジタルカメラのこれからは、1にピント2にピント3が露出で4.5が構図、色などを加味した構成です。
創作意欲
 NHKの料理番組に「キッチンが走る」という番組があります。「作って食べて旅をして」というコンセプトで、俳優の杉浦太陽が司会をしながら毎回先鋭な料理人と共ににキッチンワゴンを走らせて関東甲信越各地の農漁村の住民たちと交流,様々なご当地食材を使って料理人の独創的発想による季節の料理ををつくり上げるというユニークな番組です。生産者と交流する中で得たインスピレーションを元に考案するオリジナル料理は、物を創る者には何かひらめき、創作意欲を湧かす興味津々の面白い料理番組です。ぜひ観てください。
器と構成
 これも料理番組ですが、料理と盛り付けというテレビ番組に、「食器は料理の引き立て役です」。「料理を美味しく見せるには、シンプルな器が基準になります」。「それは料理を引き立てる色であり奇を衒わない形です」。「盛り付けの分量は多すぎないように適当な空間をとり、盛り付けは少なめの方が食欲をそそります」。 このことを写真風に言い換えると、背景は主体の引き立てために単純なこと。色や形も主体の特徴を壊さないようにして適度な空間を取ること。そのほうが観る側に感銘を与えインパクトのある商品になります。
 日本料理では器に盛られた料理を見ると季節感を大切にした繊細な感覚で美しく盛り付けています。盛り付けには3っの数字と形が基本になっているようです。三角形構図・三種三点盛り・三割の余白。これらのことは、絵画も写真も同じです。日本料理だけでなく、どこの国の料理も器と盛り付けには気を配り盛り付けの構成を競っています。食べる前に先ず鑑賞してみましょう。客をもてなす料理人たちの盛り付けの気配りがよく分かり食事が楽しくなります。この器と料理の構成は、われわれの作画創作にも大いに参考になるはずです。

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by yumehaitatu | 2011-08-09 13:54 | 写真雑学 | Comments(0)

写真雑学30「シャープな映像」 渡辺澄晴   

 またまたピントのお話し 
今年の7月24日で、現行のアナログテレビの放送は終了し、地上デジタル放送にかわります。この事は機会あるごとに関係機関から啓蒙を受けてきました。液晶ハイビジョン画像は横長の16:9のワイド画面で、走査線は1080本。ブラウン管画面は4:3で走査線は525本。有効画素数は200万個に対し35万個。当然、画像の違いもはっきりわかります。カメラもフイルムを使っていたアナログ時代からデジタル化になって、画像のシャープネス(鮮鋭度)は数段向上しました。
解像力 
単に解像力といえばレンズの解像力とフイルムの解像力を合わせたものをいいます。デジタルカメラではレンズの解像力とカメラの画素数の総合です。小型カメラではレンズの性能がいくら好くてもフイルムの画面サイズが小さいので解像力に限界があり、大きく引き伸ばすと粒子の荒れも加わってボケたような切れ味の悪い画像になりました。そのため風景写真など、シャープな描写を求められる被写体などはフイルムサイズの大きい大版カメラが使われていました。
食わず嫌いとカメラ無知
フイルムの数倍の解像力をもっているデジタルカメラは、大きく引き伸ばしても、大判カメラに匹敵するシャープネスを持っています。しかし未だにフイルムカメラに固執し、返す刀で「デジダルカメラで写した写真は硬過ぎる」「被写界深度が深か過ぎる」「ボケ味が悪い」等々、実際に使ってみて思うのか?人から聞いた受け売りなのか?わけの分からないことを言う人がいます。フイルム時代の常備レンズとデジタル一眼レフカメラの常備レンズの違い、フイルムと撮像素子の違いなどを説明すれば殆どの人は納得してくれますが、食わず嫌いとカメラ音痴の人には時間の解決を待つほかないでしょう。フイルム時代のノスタルジアはその時代を過ごした我々としては懐かしい思い出です。そのことはいつまでも楽しく語り合いたいものです。
2011 フォトドリーム展の総括的採点
今回の作品展は、グルメ的な見方でいうと、「パリパリとした揚げたての天ぷら」です。歯ごたえのあるお世辞抜きに素晴らしい作品展でした。技術、アイデアとも目を見張る作品が多くありました。人の作品を採点する場合、内容は異なっても常に自分の作品を念頭に置き比較評価します。先ず1にピント2にピント、そして3.4が創造と構成です。今年も「俺より上手い作品はそうは出てこないだろう」と高をくくって出展しました。が、そのプライドはもう過去のものになりました。揚げたてのてんぷらのようなパリパリとしたピント。お皿えの盛り付けも見事でした。
<港のバラ>
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by yumehaitatu | 2011-06-05 12:14 | 写真雑学 | Comments(0)

写真雑学29「You're not alone」 渡辺澄晴   

謹んで地震・津波による災害のお見舞いを申し上げます。

映像の力
 外出先から帰宅して間もなく発生した大きな地震。テレビからリアルタイムで知る大津波。日替わりで想像も付かないことが次第に明らかになってきました。家屋は流され田畑はガレキに覆われた大地震の爪あと、そして深刻な原発事故。この大地震でもたらした被害は甚大でした。この被害甚大という文言は終戦直前、ヒロシマに原爆が投下されたとき、国民に嘘の報道を流し続けていた当時の日本軍部(大本営)が、はじめて発した正直な報道でした。
 今回の東北関東大震災の惨状を見て、60余年前、東京大空襲の悪夢が過ぎりました。B29の焼夷弾空襲を逃れ、その避難先から電柱も橋も焼け落ち目標物を失った焼け野原を歩き回りようやく我が家の跡にたどり着いたことを想い出しました。

写真と音楽のコラボレ-ション
 何かしたいが何もできないもどかしさに心を痛めながら、テレビに見入る日々でしたが、大地震から6日後の朝、いつもとは変わったメ-ルがきました。 
 Pray for Japan Japan we are with you やyou’re not aloneの画像に乗って、We are the world の歌が流れてきました。 
 1985年にアフリカの飢餓を救おうと、マイケル・ジャクソン、ライオン・ネルリッチ‐を中心にアメリカのホップス界を代表する45名の個性的なアーティストたちが心をひとつにして歌ったあのWe are the worldです。「日本はいままで世界中に援助してきた援助大国だ。今度は国連が全力で日本を援助する」瀋基文・国連事務総長。「友情と同盟関係は揺るぎなく、日本の国民がこの悲劇を乗り越える上で、立場をともにする決意は強まるのみだ」アメリカ合衆国 オバマ大統領。「地球最悪の地震が世界一準備され訓練された国を襲った。・・・犠牲は出たが他の国ではこんなに正しい行動はとれないだろう。日本人は文化的に感情を抑制する力がある」BBC報道。
 写真やコメントはネットから取り込み編集した雑なものだが、20年以上前のWe are the worldが映像を見事に盛り上げていました。国内はもとより世界中の国々が被災者救援の輪になっているのだと、このメ-ルを見て大きな感動と元気を貰いました。

無事終息を祈ります
 連日のテレビ映像を通し原発の知識と恐ろしさも勉強しました。世界の原発史上で最も過酷な事故になったウクライナ(旧ソ連)のチェルノブイル原発事故の二の舞にならぬように福島第一原発の関係者は日夜危険な場所で頑張っています。無事に終息すること、そして危険区域から退避した皆さんが一日も早く元の所に戻れるようお祈りします。
         「桜満開」大岡川
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by yumehaitatu | 2011-04-03 18:41 | 写真雑学 | Comments(0)

写真雑学28「デジタルを巡る熱き戦い」渡辺澄晴   

銀塩かデジタルか
 「まだまだデジタルは先の先、当分銀塩は続きますよ!」と、業界の技術者は異口同音に言っていたのが2000年ごろでした。その言葉を信じて、フイルムはまだまだ続くと思っていましたが、カメラのデジタル化は猛スピードで到来しました。2002年1月31日の日本経済新聞『暮らしの叙景』{ファインダーの向こうに}の記事を引用すると、《すい星のように現れた新人ランナーが、独走していたベテラン選手を平行する間もなく抜きさった。・・カメラ市場を席巻しているデジタルカメラと、従来の銀塩カメラの関係をマラソンに例えると、こんな表現になるだろうか》・・・まさにそのとおりでした。
 そこで時代の波に乗り遅れまいと、右も左もわからないデジタルの世界に片足を入れたのが10年前。フイルムで写したふ化したばかりのカマキリの写真をデジタル加工。おこがましくも新宿のコニカギャラリーで個展。原画は撮りためてあった銀塩フイルムで、それをデジタルに置き換えたものでした。つまりこの段階では原画のフイルムをスキャナで介してデジタル加工をしていました。

食わず嫌い
 試した事もないのに、わけもなく嫌う食わず嫌いは、このデジタルの世界になっても大勢います。出始めのデジタルカメラならともかく、今のものなら、どんな超微粒子のフイルムをもってしても画像のシャープさは比較にはなりません。撮影途中でISO感度を変えられる便利さ、撮影後すぐに画像がみられ、フイルムに代わるコンパクトフラッシュは何度も使え、作業はすべて明るいところでできること。エンボス、ソラリゼーション,覆い焼き、焼き込み等々は、銀塩時代はリスクを抱え暗い暗室内で時間をかけ作業したものだが、デジタルなら明るい場所で瞬時、納得するまで繰り返し作画ができる便利さ。アナログの作画作業を経験した者には、デジタルの有りがたさを身にしみて感じます。これからもデジタルで楽しく遊びたいと思っています。
 当初10人程度のメンバーだったこのデジタル研究会も役員の皆さんの、努力の運営により、今では60余名になりました。その発起人の一人、日本カメラ誌にデジタル加工を連載し、『Photoshopで作品づくり』などの本を出版した村岡秀男氏が1月4日に永眠されました。謹んでご冥福をお祈りします。
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by yumehaitatu | 2011-02-06 10:47 | 写真雑学 | Comments(0)

写真雑学27 尊敬している二人の写真家の授賞 渡辺澄晴   

文化功労賞 細江英公
戦後一般の人にカメラが普及しだしたころ、富士フォトコンテストの学生の部で最高賞を授賞した細江英公さんは、1960年に「おとこと女」を発表。この作品で写真批評家協会新人賞を受賞しプロとしてデビューしました。
その細江さんとの初対面は、ニューヨーク市内の病院でした。当時、私はニューヨークのニコンに赴任。そこへ写真家の佐藤明さんがよく遊びにきていました。その佐藤さんが暴漢に襲われたとの連絡を受けたのです。
急ぎニューヨーク市内の病院に見舞いに行きました。佐藤さんは頭部陥没の瀕死の重傷を負って危篤状態。
その病院で佐藤さんに付き添っていたのが音楽評論家の秋山邦晴さんと細江英公さんでした。佐藤さんは二度にわたる頭部の大手術で、幸い一命をとりとめました。
そこに至るまでには、警察・病院・日本領事館・マスコミなど関係部署を駆け回り、待遇面などでいろいろと掛け合った、細江さんの影の力によるものが大きかったと言っても過言ではありません。
1963年に帰国した細江さんは、三島由紀夫をモデルにした「薔薇刑」で日本写真批評家協会賞。1970年に「鎌鼬」で芸術選奨文部大臣賞。1998年紫綬褒章。
2007年旭日小綬賞。外国でもアメリカ・ルーシー賞を日本人の写真家として始めて授賞。英国など外国からの授賞もあり、今年の秋は文化功労賞を受賞しました。
はからずも佐藤明さんの見舞いで、ニューヨークで知り合った細江英公さんとは、それ以来撮影会や講演会など多くの機会に接し、貴重な勉強をさせてもらい公私ともお世話になってきました。

旭日小綬賞 江成常夫
40年も前になるだろうか、そのころ江成常夫さんは毎日新聞の出版写真部に在籍していました。その江成さんと新潟村上市の祭りでばったり会い、撮影をともにしてから懇意になりました。
それから間もなく毎日新聞社を退社した江成さんは、戦後の日本をとり始めました。戦後進駐してきた米兵と結婚し米本土に渡った「花嫁のアメリカ」で1981年木村伊兵衛賞を受賞。1985年には中国残留孤児をまとめた「シャオハイの満州」で土門拳賞。そして「ヒロシマ万象」などで2002年に紫綬褒章。サイパン、ガダルカナル、ニューギニアなど玉砕の島巡りなど、一貫して昭和の戦争の後をテーマに撮り続け、それら数々の功績によりこのたび旭日小綬章を授賞しました。
その叙勲発表から四、五日後、ニッコールクラブのパーティで会ったとき、「まだ表に出ない太平洋戦争の悲惨な沖縄戦にレンズを向けたい」・・と。江成さんはすでに次の目標に向かっていました。
写真芸術を追及、その真髄を究めた細江英公さんに対し、報道カメラマンの江成常夫さんは生涯のワークとして戦後の日本を撮り続けることでしょう。「ローマは一日にしてならず」ぜひ続けてほしい。そして細江英公さんに続いて、次は文化功労賞を期待しています。
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             <1963年 ニューヨーク>

by yumehaitatu | 2010-12-03 22:36 | 写真雑学 | Comments(0)