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写真雑学46 50という数字 渡辺澄晴   

写真雑学46 50という数字
 出場50回
 年末になると週刊誌や新聞に紅白歌合戦の話題が盛んになる。特に今年はご本家のNHKでは、各番組の合間や特別番組を組んで初出場歌手や話題歌手の紹介、くどいほど宣伝に躍起だった。中でも「北島三郎50回出場これが最後の紅白歌合戦、大トリで締めくくり」という話題を大きく取り上げていた。紅白初出場は第14回(1963年)、デビューから1年後の27歳の時から50年、昨年の大晦日2013年が50回の出場になった。
 近年、演歌が少なくなった紅白には興味がなく、当日は民放のチャンネルでボクシングを観ていた。ボクシングが終わったので、NHKのチャンネルに切り替えた。すでに歌合戦も最終に近づき大トリの出番。出演者が勢ぞろいしたステージで大きな竜に乗って主役登場。代表曲「まつり」を熱唱。歌い終わると紙吹雪が舞う中、出場歌手らと握手を交わし「北島はこれで紅白を卒業させていただきます」と宣言した。まさに歌手本懐の光景だった。「歌手生活50年」「芸能生活50年」という区切りのいい半世紀の話題は、これからも長寿国日本では続々楽しい話題となって出てくると思う。

 ニューヨークに赴任した50年前
 南アフリカ共和国では、全人口の16数パーセントの白人が64パーセントの非白人を人種に基づいて差別していた。いわゆるアパルトヘイトの政策。その政策に反対していた黒人の指導者、ネルソン・マンデラさんが投獄されたのが1962年。ニューヨークに赴任した年である。28年後に釈放されるが、その年は私が1990年「ニューヨーク28年目の出会い」というテーマで取材に行った年だった。後に南アフリカ大統領となり、ノーベル平和賞を受賞。そして昨2013年12月全世界の人々に惜しまれながら他界された。国家反逆罪として終身刑となって50年になる。
 人種差別はアメリカにもあった。50年前の南部ではトイレ・バス・海水浴・劇場にいたるまで差別されていた。比較的人種平等のニューヨークでも差別があった。だが私の愛したワシントン広場と、その周辺のグリニッチ・ビレッジには、それがなかった。
 あれから50年。一般旅行者に嫌われていた黒人の街ハーレムも、今は観光地となり公園は禁煙、道に散らかっていた紙屑も落書きもなくなっていた。街の顔は拍子抜けするほど綺麗になっていた。
    *1963年 マンハッタン・黒人街で ~今や、この子供たちも60歳半ば~
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by yumehaitatu | 2014-02-02 07:55 | 写真雑学 | Comments(0)

写真雑学45 こだわり 渡辺澄晴   

写真雑学45 こだわり

こだわりの顔の皺
 かってアイドルだった女性歌手が久しぶりに登場するのを新聞のテレビ番組で知った。若い頃の彼女は、きびきびとしたキュートな歌手だったが、あれから50年になるから容貌もかなり変わっているはずである。そんな予想と興味を抱きながらテレビを観た。予想どうり、あの頃のはりのあるキュートな歌声はなく、声量は落ちていた。ところが予想に反し彼女の顔には少女のように皺がなかった。が、その顔を幼児に見せたら泣き出すのではないかと思うような面相だった。舞台に立つ女優や女性歌手は顔の皺にこだわり、顔の整形は周知のことだが、彼女の顔はオーバーに例えれば、しゃれこうべ(髑髏)に目玉をつけたよう奇怪なものだった。皺のこだわりは程ほどにしたいもの、もうあの顔は二度と見たくない。容姿は自然体がいいと思う。

こだわった写真集
 3冊目の写真集を出版した。50年前が「ワシントン広場の顔」。28年後に「ニューヨーク28年目の出会い」。そして、今回の写真集は50年前と同じ題名の「ワシントン広場の顔」。それに1962-1964/1990/2013をつけた。つまり過去の2冊から主なものを抜粋したものと、今年5月に取材したものを合体して編集した写真集である。本の装丁は、いま出版界に君臨している装丁家の菊池信義氏にお願いした。菊池氏は50年前、「ワシントン広場の顔」を装丁・編集・デザインを担当した人だったからである。電話で連絡をとり、銀座の事務所を訪ねた。50年ぶりの再会だった。快く装丁を引き受け、私のこだわりにも賛成してくれた。その結果、本の厚みもページ数も表紙の字体も同じにして50年前の写真集の復刻版のような体裁となった。

こだわったニューヨーク
 今回、私がニューヨークへ取材に行ったことで、様々な噂が飛んでいる。先日、写真のパーティーに招かれたとき、「20キロの荷物を背負って単身でニューヨークに乗り込んだ!というのは本当ですか?」とA氏からも質問をうけた。正確には30キロの荷物と共に・・である。その内訳は取材のアテンドをしてくれるニューヨーク滞在の写真家T氏に依頼されたプリント用の和紙・A3ノビ200枚と、ずしっとしたみやげの羊羹他、トランクの風たいを含め20キロ。リュックには、メインカメラとサブカメラ、友人に寄贈するカメラの3台の一眼レフカメラと交換レンズ、ノートパソコンなど、しめて10キロ。そして小物を入れたバッグ。つまり荷物は三っつに分散した。
それらの荷物と共に空港から出てきた私の姿は、20キロのトランクを押し、10キロの荷物を背負い、小物を入れたバッグを提げて一人で堂々と・・なのである。これだけの事なのに話題になったのは、80歳半ばのご老体というハンディーがあるからだと思う。しかし、一人旅は、荷物の管理に神経を使うことは間違いない。いずれにしろ、この噂は悪い話ではない。この尾びれのついたニューヨーク取材の武勇伝、これからも楽しく承っていく。
               <雨の読書>
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by yumehaitatu | 2013-12-09 11:17 | 写真雑学 | Comments(0)

写真雑学44「コンプレックス」 渡辺澄晴   

専用車
午前 10 時に横浜駅で写友と落ち合い、二科会の写真展を見に六本木に向かった。東急東横線に乗り中目黒まで 行き、同じホームで待っていた東京メトロ日比谷線の車両に乗り換えた。ところが乗った車両は8割方が女性。 よく見るとここは女性専用車だった。指定時間外だから 問題はないが、この女性専用車の「専用車」というフレ ーズにはいやな思い出があった。
日本が戦争に負けた 1945 年 8 月。米軍を主体とした連合軍が日本に進駐してきた。これを進駐軍と呼んでいた。 進駐軍専用ホテル、進駐軍専用劇場、進駐軍専用車など など敗戦後の日本には「進駐軍専用」という張り紙や看板があちこちで見受けられた。今もそうだが、戦後間も なくの朝夕のラッシュ時の電車は特にぎゅう詰めで凄か った。そのぎゅう詰めの車両をよそに、すかすかの車両があった。「進駐軍専用車両」である。その専用車両には、 でんと腰をおろして進駐軍兵士たちが乗っていた。中に は若い日本女性を伴った兵士もいた。ここは白人も黒人 もなく進駐軍という名を持つ兵士の平等な空間だった。
アパルトヘイト
1952 年サンフランシスコ講和条約による日本が主権を回復し進駐軍が撤退した。が、しばらくはアメリカ人に対しては、複雑な感情のコンプレックスを白人にも黒人にも抱いていた。あれから 10 年。1 ドルが 360 円の時代だったが、日本経済はようやく上向きになりはじめ、アメ リカ人に対するコンプレックスも薄れてきた頃の 1962 年の 9 月 15 日。2 年後に東京で開催されるオリンピックの対策を兼ね会社の命でニューヨークに渡った。奇しくも この日は私の 33 歳の誕生日だった。
日本では、あの専用車に白人も黒人も平等に、でんと座っていたアメリカ人も、ここアメリカの一部では、通勤バス、トイレ、映画館などに黒人差別があった。南ア フリカ共和国では有色人種に対する極端な差別政策の アパルトヘイトの最中で、この政策に反対していた同国 の黒人の指導者ネルソン・マンデラさんは既に投獄されていた。50 年前のアメリカにもこれに近い人種差別があ った。
人種のるつぼ
しかし、ニューヨークは違っていた。特に私が魅せら れたワシントン広場とそれを取巻く芸術家の街、グリニ ッチ・ビレッジは特別だった。まだ世に出ぬ画家や彫刻 家、詩人、俳優たちが安い住居を求め、このあたりに住み込み異色な街になっていた。また、ホモセクシャルや レズビアンの、同性愛の発祥地でもあった。週末の広場 には手に手に思い思いの楽器を持った若者たちが三々五々と集まり歌い踊り合唱、合奏していた。肌の色の同 じ男女が抱き合う様は別に珍しい ことではないが、ここでは黒人と 白人のカップルが堂々と肩を寄 せ合っている姿も見られた。 グリニッチ・ビレッジは人種差別など通用しない人種のるつぼの街だった。
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1963年3月撮影 、ワシントン広場(ニューヨーク)

by yumehaitatu | 2013-10-05 21:40 | 写真雑学 | Comments(0)

写真雑学43 出会い 渡辺澄晴   

写真雑学43 出会い

一触即発
 1962年9月15日、この日は私がニューヨークの現地法人に赴任した日であり、33歳の誕生日でもあった。赴任して間もない10月22日に当時のケネディ大統領が全世界に向け、ソ連がキューバにミサイル基地を建設中であることを公表し、「キューバに武器を搬入する船舶には断固たる措置をとる」と声明。米ソ一触即発の危機に全世界が緊張した。この重大ニュースはその日の夜、私もテレビで見ていたが、幼児が大人の話を聞いているようなもので話しの内容は分からなかった。が、大統領の深刻な顔、そして話しの中で「キューバ」「ソビエト」という国名が何度となくでてきたことから、ただならぬ事態であることは、おおよそ察しがついた。この事件はソ連のフルシチョフ首相がミサイル基地の撤去に同意、一触即発の危機は回避させたが、もし米ソが激突したら核戦争に・・ぞっとする事件だった。
素晴らしい出会い
 年が明け、ひょんな事から下宿の近くに住む彫刻家の斉藤誠治夫妻との交際がはじまった。東京藝術大学を卒業してから、しばらくしてニューヨークに来たという。下宿から歩いて10分ぐらいのところだったので、時おり夫妻の家を訪ねた。夫妻はいつも笑顔で迎えてくれ、ご馳走してくれた。いつしか「ナベさん」「誠治さん」夫人を「クニさん」と呼び合うようになっていた。アトリエで彼の作品と情熱的な制作態度を見ているうちに、ニューヨークに滞在中「俺も何かまとまったものを残そう」と写真への情熱が湧いてきた。余暇をカメラで「創る・残す」ということを教えてもらった素晴らしい出会いだった。
郷に入っては郷に従え
 斉藤氏の助言を受け週末にそのワシントン広場に通うようになっていた。「ワシントン広場の夜が更けて」は、すでに日本でもこの唄が流行していた。「この唄に乗ろう」既に心はこの場の虜になっていた。奇抜なスタイルをした若者、奇妙なカフェや商店街、どれもこれも私には珍しいものばかりだった。広場の中央にある噴水池には思い思いの楽器を持った若者たちが三々五々と集まり、歌い踊り合唱・合奏していた。、長い髪をたらした女、あごひげのボヘミアン、ここは自由な時間、自由な思想とあらゆる人種が集まる人種無差別の集合場所で、同性愛発祥の地ともいわれていた。
 月曜日から金曜日までは、服装は背広に派手なネクタイ、中折帽子というスタイルだったが、週末は一変した。この地の若者と接するには先ず服装からと、頭を洗いボサボサのヘアースタイルにジーパン姿で通うことにした。「郷に入っては郷に従え」の処世の法に従ったのである。
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by yumehaitatu | 2013-08-03 22:59 | 写真雑学 | Comments(0)

写真雑学42 ニューヨーク一人旅 渡辺澄晴   

宣言
行くか行くまいか?ためらっていたニューヨーク行きがついに実現した。半世紀50年という節目のいいニューヨークの取材は数年まえから心に決めていた。だが、ここへ来て決断できなかったのは、昨年の夏に路上を歩いていて信号を急いで渡る折、右足の筋を切るという怪我をしたからである。医師からは「運動不足」が原因だといわれた。「もし外国でこんな怪我でもしたら・・」そんな不安が頭を過ぎったのである。しかし、どうしても行きたい気持ちはそれ以上に強かった。そのためには体力をつけることだ。「年寄りの冷や水」と冷やかされながらも、自宅駅の近くにあるスポーツジムにトレーニングに通うことにした。そして昨年9月、新宿シリウスで2012フォトドリーム展のオプニングパーテーの際、乾杯に先立って「来年は50年目のニューヨークを撮りに行く、その写真展もやりたい、・・」と、皆さんの前で宣言し後戻りできないようにプレッシャーをかけた。出発は5月9日。ボストンマラソン中、爆発事件が起きた25日後である。
行きはよいよい
成田空港を発って13時間、無事ケネディー空港に到着、いよいよ入国手続き。持参荷物はメインカメラ、サブカメラ、友人に寄贈するカメラ、特別使用のミラーレスカメラ計4台とパソコン、ハードディスク、それぞれのバッテリーチャージャー、コード類等。それらがリユックにギッシリ詰まっていた。これが一人旅の辛さだ。ボストンであんな事件のあった後である。「検査は厳しいのでは」孤立無援の緊張の瞬間であった。パスポートと入国書類を係官に手渡すと、2つの荷物に目も触れず。「OK」の一言、入国手続きは気抜けのするほどあっけなく終わった。そして出国ロビーで現地滞在の写真家・棚井文雄氏の迎いを受けた。
帰りは厳しい検査
滞在期間中は初夏、初冬、夕立と写真日和に恵まれ、撮影は順調に終わりいよいよ帰国。棚井氏とは空港ロビーで別れ、再び一人旅になった。入国があっさりしていたので出国はもっと簡単と思っていたが、出国検査はなぜか厳しかった。帽子、上着、履いていた靴、ズボンのベルトとポケットの物を全部箱に入れ手荷物と一緒にベルトの上に乗せさせられた。問題はリックの中身だった。係官はカメラ、レンズを箱に並べ、その箱を持って奥に消えたのである。カメラ没収なんて事は先ずあるわけはないが、もしそうならば、せめてデーターを入力したパソコンとハードデスクだけでも返してほしい。そんな事を考えたほどの不安と緊張の時間だった。もちろん荷物はすべて戻ったが、なぜ奥に持っていったのか、理由は定かでない。

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by yumehaitatu | 2013-06-01 20:49 | 写真雑学 | Comments(0)

写真雑学41「懐旧」渡辺澄晴   

懐旧 
棒の先のカメラ
 今年に入り2020年のオリンピック・パラリンピックの東京招致に向けられPRが活発になってきた。
テレビでは頻繁に1964年の回顧記録、東京オリンピックの入場式と聖火台での点火の模様がよく放映されている。以前にも書いているが、その聖火台に点火する聖火ランナーの真後ろからニコンモータードライブをつけた3本の竿がふらふら動いて見える。
 通信社のAP,UPIとタイムライフ社のカメラマンが、シカゴのボクシング会場でヒントを得て、竿の先にカメラをつけた遠隔操縦の仕掛けである。その仕掛けを日本シリーズの、優勝監督の胴上げの撮影にも使用した。
川上の胴上げ
 今年1月元横綱の大鵬さんが亡くなった。そんなことから「巨人・大鵬・玉子焼き」というフレーズが再び聞こえてきた。日本の高度成長真っただ中の1960年代、大鵬は無敵の全盛期を迎えていた。
 プロ野球では長嶋、王を擁した巨人が1965年、南海ホークスと巨人の日本一をかけた日本シリーズが行われた。巨人が3勝1敗あと1勝で優勝という前日の午後、スポーツニッポン社の写真部長のK氏が日本橋の本社に私を尋ねてきた。K氏とはなぜか気が合いお互いよく行き来していた。「明日の後楽園での第5戦を巨人に賭けてみたい。勝てば川上監督の胴上げがある。その胴上げをオリンピックの聖火台を撮ったような仕掛けを使って撮ってみたいので協力して欲しい」という趣旨だった。
  「それなら魚眼レンズで撮ってみよう」とK氏に提案した。全画面180度の測量用として開発した直径24ミリの円で写る特殊レンズで、うまくいけば必ず話題を呼ぶはずと思った、K氏も乗り気になった。
そしてそのレンズを貸与した。
 しかし大きな心配があった。当日巨人がこの試合に勝たなければ、撮影の仕掛けが他社にばれてしまうことだった。が、勝利の神は巨人に向いた。
 試合は2対2のまま9回となり、その9回裏に巨人が1得点のさよなら勝ちとなったのである。めでたく川上監督の胴上げとなった。
 もっとめでたいことは川上監督の胴上げを真上から俯瞰して撮ったユニークな写真が、この年1965年「スポーツ写真大賞」に選ばれたことだった。
 翌年は各社が真似をしてカメラをつけた数本の竿が胴上げ場面に登場した。当然ながら、長い竿を使って球場の中で撮影するのは危険!ということになり以後は竿の持ち込みは禁止になった。
<ニューヨーク 1963年>
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by yumehaitatu | 2013-03-24 15:37 | 写真雑学 | Comments(0)

写真雑学40 写真集出版秘話   

 晴れがましい写真展
 2020年のオリンピック東京招致がいよいよ本格的になった。およそ50年前の1964年にも開かれ、その興奮が残っている翌年、私の写真展「ワシントン広場の顔」がオープンした。前日まで立木義浩氏の「舌だし天使」が開かれていて、私の後が荒木経惟氏の写真展だった。まだニコンもキャノンもコダックもギャラリーがなく、この銀座の富士フォトサロンが写真家の憧れのギャラリーだった。ここはプロの登竜門。渡辺澄晴という無名のサラリーマン写真家が新進気鋭の2人の写真家に挟まれてこの晴れの舞台で個展をやる。「一体何者だろう!」と注目された。
 フイルム時代を過ごした人にはお分かりと思うが、来場者には、木村伊兵衛・土門拳・伊奈信男・渡辺勉、伊藤逸平・田中雅夫・浜谷浩、八木原茂樹・重森弘庵・魚住励・大竹省二・・・(敬称略)。3冊の芳名録には写真雑誌しかお目にかかれなかった著名なプロ・アマ・評論家の方々の名があった。
 渡りに船
 写真展初日の午後、40代なかばの小柄な女性が「面白いから行って来い。写真集にしたいから相談してみろと社長に言われ見に来ました。」といって図書出版 株式会社悠々洞・山崎柳子という名刺を差し出した。ここは写真家たちの憧れのギャラリーである。そこで写真展ができることだけでもラッキーなのに、写真集なんて考えてもいなかった。『ぜひお願いします。』二つ返事だった。そして展示してある116点の写真を説明した。
 新橋駅の近くに毎日新聞社の分室の一角に出版社悠々洞があった。ほっそりと背の高い初老の社長と若い青年がわれわれの来るのを待っていた。青年は菊池信義と名乗るデザイナーで、装丁を担当。写真集の名は写真展と同じ「ワシントン広場の顔」Face of Washington Squareにきめ、1965年(昭和40年)12月夢の写真集が発売された。
 菊池信義氏は1977年装丁家として独立後、2008年までに1万数千冊の装丁を手がけ1984年、装丁の業績により第22回藤村記念暦程賞を受賞。1988年、第19回講談社出版文化賞を受賞した装丁界の巨匠になっている。
 山崎柳子さんは、小説家活動に入り、1966年上期、同下期、1968年下期の3度も芥川賞にノミネートされたが念願かなわず得度して1981年僧侶となり、1999年7月24日他界。
 出版社の倒産
 写真集が発刊されて2年ほどして「君の本神田でぞっき本になっているぞ!」と友人から驚きの電話があった。出版社悠々洞が倒産したのである。作家として己の本がぞっき本になっているなんて、そんな情けないことはない。急ぎ神田に駆けつけた。そこには夢の写真集「ワシントン広場の顔」が5冊づつ紐で束ねられ、計25冊が哀れな姿で店の外に置かれていた。定価1800円の本が600円の価格になっていた。店の主人に会い著者であることを名乗り、25冊全部を自宅に郵送してもらった。
 1865年当時の物価は今の1/10位だから1800円は高いと思ったが、幾つかの新聞社も紹介記事を載せてくれたし、NHKのテレビ番組、夜のアルバムでも取り上げてくれ本は順調に売れていると聞いていたのに、なぜ? 山崎さんの話しでは、その後スタッフの反対も聞かず5000円の豪華本を出版したのが命取りになったようだ。この頃はカメラ雑誌の閉鎖、中小出版社の倒産が相次いだ。
 ぞっき本として店先から置かれていたあの時から、おおよそ半世紀。その店の店主はすでに代替わりしていたが、拙書は上段のガラス戸棚の中に置かれ、高価な値段で陳列されていた。ちなみに魚山発行の2010初夏号写真関係文献目録には、函並、帯欠で45,000円と、載っている。
<修理>
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渡辺先生の画像が「JPA」のホームページに掲載されています。クリックすると移動します。ぜひご覧ください。
「ワシントン広場の顔」Face of Washington Squareへ



by yumehaitatu | 2013-02-02 20:33 | 写真雑学 | Comments(0)

写真雑学39 視聴率   

写真雑学39 視聴率                         渡辺澄晴

 いよいよ総選挙。候補者は支持を求めて選挙戦に入った。政府や各政党が国民の支持率を気にするように、テレビ番組も高い視聴率を目指して企画されていると思う。
 ところがこの11月16日、衆院解散の朝、NHKテレビニュースのトップに自社のニュースキャスターが電車内で女子大生に痴漢。強制猥褻で「警察に逮捕された」と放送。男女2人のアナウンサーが「視聴者に多大な迷惑をかけた」と謝罪する場面があった。自社の社員の不祥事を報じることは心中察するに余りある物があったと思う。当事者はニュースキャスターという有名人。彼の会話は歯切れが良くニュースアンカーマンとしでの逸材だった。ファンの一人として、このような破廉恥な不祥事を起したことは、実に残念でたまらない。この事件は民放でも、新聞各社特にスポーツ紙では1ページ1面いっぱい写真入で載せられた。当然週刊紙各誌にも・・。しかし、このことでNHKのニュース番組の視聴率が下がることは考えられないが。
 低視聴率
 決め付けてしまうのは早いかもしれないが、今放送されているNHK朝の連続テレビ小説「純と愛」は、たぶん低視聴率で終わるのではないか?。ヒロインの純がホテルの客室の廊下やロビーを駆け回ったり、素頓狂な声でわめいたり、訳の分からないドタキャンの結婚式等々、騒々しくて馬鹿馬鹿しく、観るに耐えないドタバタドラマだからである。
 3年前、埼玉県川越を舞台にした『つばさ』もドタバタ劇だった。しばらく我慢して観ていたが、たまりかねドタバタ不要と手紙をかいてNHKに送ってみた。
 その『つばさ』の制作スタッフから早速返事がきた。「『つばさ』へのご意見ありがとうございます。ドタバタは不要とのご意見は真摯に受け止めたいと思います。もちろん私たちの主題はドタバタではなく、人が心に抱える「痛み」を描きたい。それも暗く悲しいドラマではなく、朝から元気の出るドラマ作りを目指しています。・・・・今後の展開の中で、その思いが幾ばくかはお感じになれると思いますので、引き続きご覧くだされば幸いです。」と、丁寧な返事をいただいた。しかし、引き続き観てみたが結論はドタバタだった。その後のサーフィンを主題にした『ウエルかめ』も意味不明の魅力のないドラマだった。この2つのドラマは1964年に放送された朝ドラ以来最低の視聴率だったようだ。(この欄写真雑学17ひとりよがりと1部重複)
良い作品は外から啓蒙されてくる。 
 制作側は『朝から元気のでるドラマ作りを目指して』の演出だと思う。面白く見せるためにはオーバーアクションも必要だが、過剰過ぎると視聴者から反感を抱いてしまうものだ。面白くないものが続けば、朝ドラは面白くないという先入観となる。私もその1人だった。だからもう朝ドラは観ないと決めていた。
 ところが、その後、漫画家水木しげるさんの妻、武良布枝さんの自叙伝、「ゲゲゲの女房」が話題になり、新聞や雑誌に取り上げられ、朝ドラに登場した。先日この指とまれの撮影会の場所、深大寺が舞台となり、内容は笑いとペーソスを織り交ぜた迫真の朝ドラだった。続いて「てっぱん」「おひさま」。ファッションデザイナー小篠綾子さんの生涯を描いたフィクションストリー「カーネーション」そして「梅ちゃん先生」は、いずれも朝のひとときを楽しませてくれた元気の出るドラマだった。 
 それだけに、今回の「純と愛」の期待も大きかったが見ての通り、視聴者無視のドタキャンドラマである。これが月曜日から土曜日まで朝8時と昼の0時45分。BSプレミアムでは朝7時30分と夜の11時。ご丁寧に土曜日の午前9時30分からその週の総集編。いっずれもゴールデンタイムだから腹立たしい。せめて次回の朝ドラは、楽しく元気の出るものを期待したい。
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by yumehaitatu | 2012-12-01 21:20 | 写真雑学 | Comments(0)

写真雑学38 再会    渡辺澄晴   

                    40年ぶりの再会
 元PANA通信社の社長近藤幹雄氏が去る6月に他界された。その通夜の日に「渡辺澄晴さんですか?」と話しかけてきた人がいた。近藤氏がPANA通信の社長時代に知り合った菅田正俊氏である。彼とはベトナム戦争に従軍して北ベトナムで殉職した親友の嶋元啓三郎氏の結婚披露宴の席で談笑して以来だから40ぶりの再開だった。一週間後、その菅田氏が横浜にやってきた。昼食を共にして場所を喫茶に移しても話しは止め処なく続いた。40年という歳月には積もり積もったものがあった。

みちくさ 
 まだまだ話しは尽きないが、「また会おう」と喫茶を出た。横浜駅に向かう帰りの地下通路で、目にとまったのが話題の【原鉄道模型博物館】のポスター。博物館はJR横浜駅から数分のところにある。「見たいね!行こう!」2人は躊躇なくそこへ向かった。原信太郎氏が子供のときに作った機関車をはじめ膨大な精密鉄道模型と鉄道コレクション。とりわけ大人も夢中にさせたのが,精巧に作られた大ジオラマ。「こんな素晴らしいジオラマを大人だけで見るのはもったいない、今度は孫を連れて来よう。」2人の想いは同じだった。

キャパになれなかったカメラマン
 2日後、家にズッシリ重いダンボール箱が送られてきた。送り主は講談社の小川卓氏からだった。箱を開けると平敷安常氏の「キャパになれなかったカメラマン」上下巻とベトナム戦争従軍記者を綴った書籍5冊の本が入っていた。添付の手紙には「・・・ながらくご無沙汰しています。今朝PANA通信社の菅田大兄から、渡辺さんが色々な会で活動していることを電話で知らされました。当然のことながら渡辺さんの写真集【ニューヨーク28年目の出会い】の解説文を書いた私のボス、小山昌生さんのことも話題になりました。」

渡辺さんは元気だなー
 「・・しかし、菅田大兄がもっとも興奮をおびてたのは、『渡辺さんは83歳だそうですが、お元気なんですよ。私は77歳だけど、会う同級生はみんなヨタヨタしているよ。渡辺さんは元気だなー』のセリフでした。・・・私は相変わらず浮き草家業にどっぷりつかっておりますが、ここ数年まとまった仕事と言えば、同封しました平敷安常さんの著作を作ったことでしょうか。これらの本には渡辺さんがご存知のカメラマンが大勢出てきます。
 あいにく手元にないために同封できないのは残念ですが、読売新聞サイゴン特派員日野敬三さんの「ベトナム報道」の講談社文芸文庫化も楽しい仕事でした。」
 既に講談社を辞したと思っていた小川氏が今もエディターとして楽しく活躍していた。思いがけず元気な便りに接し嬉しかった。近いうちに40年の積る話しを菅田しを交えて語り会える日を楽しみにしている。
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by yumehaitatu | 2012-10-06 23:52 | 写真雑学 | Comments(0)

写真雑学37 方向音痴 渡辺澄晴   

個性で走る日曜ドライバー
1978 年7 月、梅雨晴れの週明け出社してから間もなく、
日本経済新聞社文化部の婦人記者から「三本先生(三本和彦・モータージャーナリスト、写真家)から伺ったのですが、車のことで面白いお話しを聞かせて頂けるようなので・・・」と、取材の申し入れの電話があった。その日の午後、水色のT シャツの似合うクールビス・スタイルの婦人記者が訪ねて来ました。近くの喫茶店に行き、コーヒーを飲みながら、1 時間程取材をうけました。この彼女との一問一答は、6 日後の日曜日、朝刊の全国版に”個性で走る日曜ドライバー”という見出しで掲載されました。

その内容は、『・・・・・渡辺澄晴さんが車のハンドルを握るようになって、二年とはたっていない。十四、五年前、教習所の指導員の態度に腹を立て「金輪際、車なんかに乗るものか」と、心に決めたものの、花や昆虫、風景を写真撮るために遠出するようになると、不便をかこち始めた。汽車やバスの時間を気にしながらでは落ち着かないし、カメラやレンズの重さもこたえるようになったからだ。
そこで再び挑戦した結果、今度は首尾よく免許を手にいれた。この報を聞いて驚いたのは会社の人々。なにしろ渡辺さんの方向音痴は社内でも有名で・・・・運転するようになっても残念ながら方向音痴は一向によくならず、目的地の逆方向に走るくらいは毎度のこと。・・・自宅のある保土ヶ谷から横浜駅まではすんなり行けるが、逆の横浜駅から保土ヶ谷間はなぜか引っかかる。二十分とかからないところが一時間もかかり、しまいには「オマエ、いったいどこへ行くつもりだ。オレたちウチに帰るんだよ」と意のままにならない愛車に言い聞かせる始末だ。』

・・・栃木の山奥に迷い込んで山犬に取り囲まれ、肝を冷やしたり、・・・道順を聞いても分からないので、土地の人に最寄の国道まで先導してもらったこともある。こんなわけだから「ちょっとドライブでも」と声をかけても、渡辺さんの車に乗る人はめったにいない。ただ道に迷ったおかげで、思わぬ被写体にめぐり合うチャンスもある。
ところが、せっかくみつけた穴場だからもう一度とは思っても、同じ場所に行き着いたためしはないが、内心はこの迷走がまた楽しいらしい。
【昭和53 年(1978 年)7 月9 日 日曜日の日経朝刊の記事から】

そのころカーナビがあったなら「目的地までご案内します」「交通規制に従って運転してください」「およそ1000 メートルを左です」「この先の信号を左です」「間もなく目的地です」【お疲れさまでした」。まるで助手席に若い女性を乗せて走っているようだ。こんな装置が今ではポケットに入れ携帯できるようになりました。【方向音痴】という言葉はやがて死語になってしまうのでは・・。
とはいっても、「右だ!左だ!」「オマエの教え方が悪いんだ・・・!」「しっかり地図をみとれよ!」など、責任をなすり合い喧嘩をしながらの、アナログ運転も、懐かしい思いでとして、フイルムカメラの時代とともにいつまでも楽しく語りついでいきたいと思います。
日本経済新聞社の記事を添付します
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by yumehaitatu | 2012-08-05 10:03 | 写真雑学 | Comments(0)