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写真雑学55 ネイチャーフォト 渡辺澄晴   

写真雑学55 ネイチャーフォト

小さな庭の仲間たち

東京世田谷にあった上野毛の社宅から、今の保土ヶ谷に移って40数年になる。小さいけれど庭もあった。そこへ草花を植えた。間もなく新築祝いにと、群馬で椿を栽培している著名な人から蕾のついた椿の苗木が5本と、見事な皐月の盆栽が贈られてきた。大きな庭と勘違いしたのか、分に似合わぬ贈りものだった。「そうだここに咲く花やその花の蜜を求めて飛んでくる昆虫たちを撮ってみよう。」しばらくまとまった写真を撮っていない。庭を見て急にモチベーションがわいてきた。1970年の春だった。

それから1年半後、新宿のプラザホテル内のニコンサロンで「小さな庭の仲間たち」というテーマの写真展を開いた。内容は庭に咲く花。その花の蜜を求めて飛んでくる昆虫の生態などだった。このことがあって複数のカメラ雑誌社から花や昆虫の撮り方、交換レンズの使い方などの、原稿の依頼が絶え間なくあり、その原稿に添える作品作り。接写の実践指導。各地の講演をなど、多忙な日々が続いた。

ネイチャーフォトテクニック

自然食品、森林浴、バードウォッチング、アウトドアライフ・・・我々の身の回りには、こうした自然指向を奨励する言葉があふれている。各地で宅地造成が行われ、また、都市化が進められている昨今だけに、失ってしまった自然を求める気持ちもより高まってくるのだろう。しかし、ほんのちょっと注意してみれば、我々の身近にはまだまだ沢山の自然が残っている。

四季折々の風景や、美しい草花、愉快な昆虫たちの世界を写真に撮りたいと思っても、かっては露出を決定することからして困難だった。しかし今日では、メカニズムの飛躍的な進歩によって解決され、誰でも簡単・確実に素晴らしい自然界のひとこまを記録することができるようになった。露出、ピント等々撮影操作はすべてオート化され、また各種交換レンズの発達により、かって体験したことのない新たな視覚、いわば、もうひとつの自然をもとらえることができるように

なった。

ネイチャーフォトの素晴らしさは決して自然を破壊しないということだ。草花を採るわけでもなく、昆虫を捕るわけでもなく、ひたすら写真を撮るだけだから。ただ、「我々人間も他の動物や植物と同じ自然界の一員にすぎない」ということだけは忘れてはならない。彼らの生活を侵害することなく、そっと見せてもらうという謙虚な姿勢で撮影にのぞむことが大切だ。そうすれば彼らのほうから、感動的な自然界のワンシーンを必ずや提供してくれるはずだ。

この文章は1983年に発刊したハウツー本、「ネイチャーフォト・テクニック」の、『はじめに』という前書きである。

今年も折り返し点を回り8月になった。夕方になると、庭の木の根の周辺からセミの幼虫が地中から出てくる。しさしぶりにセミの生まれるシーンを、腰をすえて撮ってみたいと思う。 

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by yumehaitatu | 2015-08-01 17:00 | 写真雑学 | Comments(0)

写真雑学54 カメラ屋からのメッセージ   渡辺澄晴   

写真雑学54 カメラ屋からのメッセージ   渡辺澄晴
老いの一徹

「カメラ屋からのメッセージというハウツー本を書きたいが・・」と、横浜市内のカメラ店の社長T氏から突然電話で相談をうけた。平成6年の夏、まだフイルム全盛期の頃である。「店頭で顧客の相手をしているうちにどうしても書かなければ」という気持ちになったのだという。出版は自費でもという熱心なもので、電話口で話す彼の出版構想は止め処なく大きく膨らんでいた。一冊のハウツーものをまとめるにはかなりの労力と、調査など、もろもろのファクターをクリアしなければならない。自分の経験からハウツー本はそんな簡単なものではない。半ば見縊りと驚きを感じながら、彼の熱っぽい相談にも「大変ですよ」「慎重に」と繰り返し、出版を思い止まるような返事をしてその日の電話を終えた。

正直なところ出版はあきらめたのではないかと思っていた。ところが電話を受けてから約1年が過ぎた頃、ひさしぶりにT氏から電話がきた。「以前お話しした件、やっと書き上げました。原稿を送るから目を通して欲しい・・。」とのことだった。老いの一徹というか、根性というか、彼はついに書いてしまったのである。間もなく原稿が送られてきた。岡山へ行く新幹線の車中でその原稿をみた。目次を見ると、カメラのこと、レンズのこと、フイルム・照明・構図の知識と多岐にわたる写真全体の項目が書き述べられていた。

だがハウツー記事の難しさはイラストと作例写真にある。このような類の本はなるべく文字を少なくイラストと写真作例を多く取り入れないと読者には理解されない。それは大変な作業である。「どうするつもりだ!」と心配した。ところがそんな心配は無用だった。次に届いた原稿は、そのイラストと作例写真を多く入れたものだった。〈カメラやのおやじからのメッセージ〉のサブタイトルに〈本格派を目指すための知識とテクニック〉というメインタイトル通り、本格派カメラマンへのハウツー本である。【あとがきの稿の終わり当たってには、「活字離れの時代に発行しても読む人はいないだろうという忠告を聞く度に『読んでくださる人は必ずいる』と自分に言い聞かせながら、やっと脱稿の日を向かえることができました。」・・・A4判155ページの初心者にも分かりやすい「カメラの知識とテクニック」が見事に出来上がったのである。

写真の基本は昔も今も同じ

とにかくカメラは変わってしまった。若い時からカメラに親しんできた中高年の方にはそんな印象を強く感じることだろう。フイルムを使わず、すべての機能はマイクロコンピューターによって制御されている。フイルム全盛期に書いた本だから、今頃こんな本は通用しないだろうと思うだろう。しかし、家族の写真や旅行の記録写真だけでは物足りず、作品といわれる写真を写してみたいとなるとカメラの機能の働きを、より効果的に使いこなさなければならない。つまり、ハイテクカメラの知識を深め、撮影にどう生かすか、ということになる。

ISO感度・絞り値・シャッタースピードと露出のこと被写界深度・パンフォーカス・ライティング・ストロボ・発色・望遠レンズ・広角レンズ・ズームレンズ等々。基本的なことは今も昔も変わらない。「写真の基本を知らなくてうまい写真が撮れるわけがない。」カメラ屋のおやじT氏は今もこの本を教科書にして教室を開いている
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by yumehaitatu | 2015-06-06 17:00 | 写真雑学

デジタルは素晴らしい   

写真雑学53  個展   渡辺澄晴

デジタルは素晴らしい

 久しぶりに個展を開いた。テーマは「ワシントン広場の顔」19621964/1990/2013とした。「ワシントン広場」は、アメリカ・ニューヨーク・マンハッタンの中央を走る5番街の出発点にある。

 会社の命で妻子を日本に残し渡米したのが1962915日、この日は33歳の誕生日だった。1ドルが360円の時代で日本経済は急成長に入っていた。写真界も一眼レフが多く使われるようになり、撮影領域も広がってきた。しかし今のように性能の良いズームレンズは無かったので、すべて単体レンズを使用した。

 この頃に愛用していたレンズは28mmと105mmだった。2台のカメラにそれらのレンズを着けて首に下げ、バッグの中には予備のカメラと50mmと200mmに20本程度のフイルムや露出計など、ぐさりと肩と首に食い込む荷物を持ち、休みの日には欠かさず撮り歩いた。フイルムはTRI-X ISO感度400800に増感して使っていた。

カメラはオート時代

 199060歳を期に28年ぶりにニューヨークに渡った。既にカメラはオート時代。フイルムの巻き上げも巻き戻しも、ピンとも露出も全てオート化。カラーフイルムも安定した発色で、安心して使えるようになっていた。レンズも高性能なズームレンズが発売され、何本も交換レンズを持ち歩くこともなく、肩も楽になった。

 この頃は各地でハイジャックが横行、空港での警備が厳しくなり、通関時のX線検査には頭を痛めた。ISO感度400までなら大丈夫という説もあったが、結局フイルムは袋に入れ係官にそれを見せてX線を免れてもらった。

アナログとデジタルの落差

 フイルム時代はどんなに注意してもフイルムに付着したゴミやキズは拡大されて残る。それを細い筆で埋めるスポッティングという最後の仕上げ作業があった。 デジタルカメラで写した画像は瞬時に確認でき、その画像は空気に触れずにプリントされるからその心配はない。しかし、パソコンに取り込んだフイルムには、もともと付着していたゴミやキズは残るけれど、今はツール作業で簡単に処理できる。

 「ピントはどうか」や「露出はどうか」の心配もなく、ホテルに帰ってから写した画像をパソコンで再度確認、分散整理して保存、明日への撮影に備えた。

 撮影途中でもISO感度が自由に変えられる機能はスナップ写真にはとても有効だった。

 今回の個展は、A3とA3ノビを合わせ約90枠、写真約120点を展示。アナログとデジタルの雲泥の差を感じながら個展へのプリンティングを楽しんだ。

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by yumehaitatu | 2015-04-04 20:31 | 写真雑学 | Comments(0)

写真雑学52 【写 友】 渡辺澄晴   

写友からの年賀状
「小生82歳になりました。最近は書くのも大変なので来年から失礼します」「母が亡くなってから父はめっきり気が弱くなり、カメラを持って出かけることも・・」(娘代筆)「数年前より腰痛で出て歩くのは病院だけで・・」「30日に退院しましたが人口臓器をつけ・・」「年には勝てず、あちこち不調で娘に助けられて過ごしています。・・」写友からの年賀状も新春の挨拶の後にこんな添え書きが目立ってきた。
そしてデジタルを敵視していた写友から、「いまだフィルムで頑張っている・・」いう痩せ我慢から「・・デジタルに鞍替えしまたが・・原稿料が安くなり収入が減って・・」などの悲痛な賀状もあった。
写す友達
写真を撮る仲間のことを写友と言っているが、この「しゃゆう」と云う単語を変換すると「社友」「社有」と出てくるだけで、辞書にも「写友」はない。つまり「写友」は写真界だけの通用語である。
サラリーマン時代は日本各地を回っていたので、写友が各地にできた。その写友の一人、沖縄在住のSさんから、「まだ雪を踏んだことが無いので雪国へ行ってみたい。案内してくれないか」と、頼まれていた。20年前の話しだが、たまたま冬の札幌に行く機会ができたのでSさんに連絡、羽田空港で落ち合い札幌に向かった。そしてこの日は写友というより尊敬する札幌の先輩Aさんの案内で、歓楽街札幌・すすき野の夜を楽しんだ。
翌朝、小樽の写友Mさんが仕事を休んで、車でホテルに迎えにきてくれた。3人で札幌市内を観光して、小樽を回り千歳空港でMさんと別れ、Sさんと2人で釧路に飛んだ。時は1995年1月16日。阪神・淡路大震災の前日だった。
1995年1月17日
翌朝、関西方面で大地震があったことをホテルのテレビ知った。迎えにきた釧路の写友Kさんからも地震のことを聞かされたが、そのまま丹頂鶴のいる鶴居村に向かった。Kさんが車から500mm望遠レンズと三脚を出し沖縄のSさんのカメラにセットし、撮影の勘所をSさんに伝授していた。初めて雪を踏み、初めて見る野生の鶴。その鳴き声と飛び交う鶴の群にSさんは興奮していた。
夕方ホテルに戻り、3人で食事をした。テレビからは震災の模様が放映されていた。燃え上がる家屋や崩壊したビル。横倒しになった高速道路。刻々と増える死傷者の数。6434人の命を奪った阪神・淡路の大震災。その1995年1月17日の夜は、沖縄の写友と釧路の写友と3人で、後ろめたい複雑な気持ちで食事をしたことを覚えている。
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by yumehaitatu | 2015-02-07 17:47 | 写真雑学 | Comments(0)

写真雑学51 時代遅れのカメラマン 渡辺澄晴   

                        
写真雑学51 時代遅れのカメラマン
写真展シーズン 個展、団体展と写真展の案内が頻繁に家に来ます。もちろん 時間の許す限り見に行っています。つぶさに写真展を見た感想は、作品が鋭くはっきりしてきたということです。つまりピントがよく画像が鮮明になりました。この事はデジタルカメラの効果によるもので、フイルムカメラで写したものと比べれば一目瞭然です。しかし、今だに耳するのは「デジタルカメラで撮った写真はピントが深い」。つまり被写界深度が深いということです。このようなことを言う人は、ズームレンズが発達していないフイルム時代、焦点距離の異なった交換レンズを何本も持ち、露出もピンとも手探りで決めて撮影していた1部の人たちの勘違いか、フイルム時代のノスタルジアを持った人たちです。このピントが深いという現象はカメラではなく、使用レンズの性能によるものです。
 今のカメラにはズームレンズが着き、露出もピントもカメラ任せの押せば写る便利なカメラです。そんな便利なカメラで育った人は、突然被写界深度の質問を受けたら答えに戸惑うこともあるかと思います。そこでこの「ピントが深い」の被写界深度についてちょっと触れたいと思います。
被写界深度 ある距離にピントを合わせたとき、その距離にある被写体が鮮明に写るのはもちろんですが、合わせた被写体の前後のものもある範囲は鮮明に写っています。その鮮明に写っている被写体の前後の範囲(奥行き)を被写界深度とか被写体深度と呼んでいます。
この被写界深度は、
①レンズの絞りを絞り込むほど被写界深度は深くなり、絞りを開けるほど浅くなります。
②ピントを合わす距離が遠いほど被写界深度は深く、近いほど浅い。
③被写界深度はピントを合わせた位置の前方は浅く、後方は深い。
④レンズの焦点距離が短いほど被写界深度は深く、長いほど浅い。
という4つが一般条件としてあげられます。ただし花など近くで写すと③の条件のピントを合わせた前後の深度はあまり違わなくなり、接写などでは前後の深度は同じと考えていいと思います。
何故デジタルカメラは被写界深度が深いのか 前述の被写界深度の条件を念頭に置き自分のカメラを見てみよう。上からレンズをのぞくと、18-200mm 1:3.5-5.6とか記してあります。このレンズに書いてある意味は焦点距離が18mmの広角から200mmの望遠で、明るさは18mmのときにF3.5だが、焦点距離を長くするに従い暗くなり、200mmではF5.6にF値が変化する。ズーム比が約11倍のズームレンズということです。フイルムカメラの全盛時代は今のようにズームレンズがなく、35mmカメラでは50mmF1.4またはF2が常備レンズで、広角レンズは28mm、35mmで明るさはF2かF2.8で、100mmでもF2.8の明るさでした。この被写界深度のことを書き出すと延々と切りが無く続きます。要するにフイルムカメラも、デジタルカメラも使うレンズが同じなら被写界深度も同じであり、浅い深度をのぞむなら明るい単レンズを使えばいいのです。
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by yumehaitatu | 2014-12-13 17:55 | 写真雑学 | Comments(0)

写真雑学50 吹き上げの自然 渡辺澄晴   

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吉岡専造氏 その2
昭和55年(1980年)5月末、朝日新聞社から、ずっしり重い荷物が我が家に届いた。送り主は吉岡専造さんからだった。昭和天皇、皇后両陛下が日常ご起居になっている吹上御所のお庭、吹上げ御苑を吉岡さんが7年の歳月を費やしとらえたサイン入りの写真集である。B4判布装美麗函入り、オールカラー176ページ。宮内庁長官、侍従長、侍従次長、等々の序文。和文・英文の写真解説が60ページ、重量4kの豪華版である。「いろいろ撮影の協力有難う・・・」という手紙も添えてあった。
写真集の[あとがき]には、「宮内庁の嘱託を受け、両陛下のお写真を撮影することになった。まず、撮影場所をどこにするかを決めるために、宮殿や吹上御所を案内していただいた。それは昭和46年5月末のことである。吹上御苑もその時はじめて拝見した。手入れの行き届いた宮殿のお庭とまったく違った情景の印象は強烈だった。・・・膝まで延びた草むらからいきなりキジが飛び出たり、四季のうつりかわりに、種々の野草が花をつけるさまには”陛下と野鳥の合作”で出来た自然がある。私は吹上げ御苑の巧まざる風情のなかに、陛下のお人柄を感じることがしばしばであった。・・・そしてそのありのままの姿を撮影しはじめたのは、翌47年からである。・・・自然が作り出す吹上げ御苑の美しさはいつも新鮮であり、いくら写しても撮りきれない。いつの間にか7年も経ってしまった。この度、おゆるしを得ていままで撮影したフイルムの中から390枚を選び『吹上げの自然』として上梓することになった。」
吹上げには桜の数だけでも20数種類もある。見たこともない草花。一つ一つの植物、昆虫、野鳥には専門家が解説。江戸城以来の古い庭、深い森、武蔵野のあるがままの自然が美しく息づく吹上げ御苑の四季を記録した、御苑の自然図鑑ともいえる豪華写真集である。
吉岡さんは政治家など人物を撮る技芸はたけているが、自然の草木、とくに草花の接写では私が先輩。度々写した作品を持って私の勤務する丸の内の本社へ謙虚に尋ね、花の接写や昆虫の写し方、レンズの選択などを聞きにきた。とくに白い花の『白』には拘りがあった。そして撮影から7年、素晴らしい写真集が編纂された。
蛍を撮りたい
ある日、吉岡さんが「吹上げの蛍を撮ったが・・」と、写真を持ってきた。見せてくれた写真は昼間のようで、夜の様相ではなかった。その写真を見て都会での蛍の撮影は無理だと私は思った。夜の蛍を撮るには、先ず皇居の街灯をけすこと。仮に消せても、どんよりした低い曇り日だと日比谷や銀座の灯りが雲に反射して暗黒にはならない。月の無い快晴で周囲の灯りを消すことなど不可能。だと思っていたら、さすが吉岡さん!やまぶき流れのゲンジ蛍が1点載っていた。
JAF(自動車連盟)
新聞社を辞めてからも、吉岡さんは忙しかった。「きみは酒を飲まないからこの仕事の良さは分かるまい。こんないい仕事はないよ。」JAFの会報を見せながら私への第一声だった。車の助手席に座り、全国の道をたずね、その土地の酒を飲み、美味いものを食べ、温泉に浸かる。たしかにこんな美味しい仕事はない。まさに写真家冥利に尽きる話だが、そんな話し誰にも来るものではない。昭和天皇に好かれ、吉田茂元首相に信頼された、おごらず謙虚な『吉岡専造』という人柄に魅されたからである。

by yumehaitatu | 2014-10-04 17:00 | 写真雑学 | Comments(0)

写真雑学 49 花形プレスカメラマン    渡辺澄晴   

写真雑学 49 花形プレスカメラマン        渡辺澄晴

*吉岡専造氏 その1
JR有楽町駅と地下鉄銀座駅にほど近い東京都千代田区有楽町2丁目に所在する有楽町センタービル。かってこの地域内には、朝日新聞東京本社、日本劇場(日劇)丸の内ピカデリーがあった。その朝日新聞社は4階が編集局で5階が出版局。その5階の奥に出版写真部があった。そこには〔新聞社に所属したスタッフ・カメラマン〕という枠をこえ、フリーの写真家たちと同じように創作活動を行っていた花形プレスカメラマンたちがいた。
その花形カメラマンの一人、吉岡専造さんに面会をもとめた。会社の部活、写真部の撮影指導をお願いするためだった。吉岡さんは快く会ってくれた。「おれも勉強になるから」と、潮来へのバス日帰り撮影会に参加してくれた。 1957年、今から57年前である。バスの中では写真のこと、カメラやレンズのことなど、持ってきたニコンS2を見せながら「こいつは故障もなく頑丈でいい。うちの連中はデモの取材では顔へ飛んでくる石をこのカメラで防ぐんだ」など冗談も交えた話で盛り上がった。別れ際に「今日も帰ったら仕事が待っているんだ。今は言えないが、すぐわかるよ」。 それは写真展、人間零歳・真司君の365日(東京高島屋)のワンカットだった。1960年写真集にもなった。1981年この人間零歳のモデル吉岡真司君は早稲田大学卒業して、㈱ニコンに入社した。
吉岡専造さんはまさに花形プレスカメラマンだった。写真嫌いで知られた吉田元総理も、大磯の自宅に取材に来た吉岡さんの人柄に魅せられ「吉岡君ならいい」と、自由に写真を撮らせてくれ、1967年写真集「吉田茂」を出版した。また在任中に宮内庁の委嘱をうけ、昭和天皇の御影を撮影していた。1996年宮内庁の許可を得て「素顔の昭和天皇」を発刊。このことを契機に吹き上げ御所内の植物を撮影。新聞社を定年退職してからも撮影をつづけ1980年写真集「吹き上げの自然」をまとめた。またJAF(自動車連盟)の会報の表紙他、写真ぺージも長年担当していた。
2003年日本写真協会功労賞受賞。表彰式は恵比寿の東京都写真美術館で行はれた。その後何度か電話での交流はあったが、お会いしたのはこの東京都写真美術館が最後だった。2005年5月2日、逝去。
*人間零歳の死
ニコンのM氏から電話があった。「悲しいお知らせです。渡辺さんとはもっとも関係の深い人なので・・・吉岡真司が5月の連休に南アルプスに行き、愛犬と共に滑落死した・・」という悲しい連絡だった。真司君とは4月末に、新宿コニカギャラリーで偶然出会っていた。「渡辺さん」と、声をかけられ、振り向くと真司君だった。久々の出会いだった。近くの喫茶店でコーヒーを飲みながら親父さん(専造さん)の話しで終始した。別れ際、「今度職場が変わったので近くに来たら寄ってください」と、名刺をくれた。その10日後に訃報。彼は57歳で逝ってしまった。
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by yumehaitatu | 2014-08-02 17:00 | 写真雑学 | Comments(0)

写真雑学48 ミステーク 渡辺澄晴   

写真雑学48 ミステーク             渡辺澄晴

彫刻ミス
1972年2月6日札幌オリンピック、70メートル級(ノーマルヒル)ジャンプ競技で笠谷、金野、青地の日の丸飛行隊が金・銀・銅を独占した。その4日前の真駒内での開会式の最中、親友の嶋本啓三郎氏の死を知人のカメラマンから知らされた。嶋本氏は結婚ほやほやだった。その彼がベトナムへ発つ10日程前、2人で銀座に行き食事をした。その折「ナベさんいいものを見せてあげるよ」と、28ミリF2.8の広角レンズを差し出した。よく見ると、F2.8とあるべきF 値の彫刻文字がF2. としかなく、8の字が刻まれていない。メーカーとしては、あってはならない恥ずかしいミス。「これは申し訳ない,取り替えるよ」と、いうと、「とんでもない。こんな希少価値のレンズは絶対に手放さないよ、一流メーカーでもこんなミスがあるんだね」と、笑いながらバッグにしまいこんでしまった。 「そのレンズはベトナムに持っていくの?」 「もちろん持っていく、しかし俺もかみさんをもらったし、危険なベトナム取材はこれで終わりにするよ」。 これが私への最後の言葉だった。既にベトナムでは、ピューリッツアー賞を受賞した澤田教一カメラマン他、ジャーナリストの殉職が相ついでいた。嶋本氏の写真も死後キャパ賞を受けたが、それがあの問題の彫刻ミス35mm F2.のレンズで撮ったものかは定かではない。

誤字・脱字
1970年代はカメラ雑誌社の依頼でカメラやレンズのハウ・ツー記事をよく書いていた。今でもそうだが誤字・脱字がよくあったが、この事は本人が気づかないうちに編集担当者が直してくれていたようだ。だが編集側にも抜かりはあった。ある月の号に、『知っておきたいレンズの基本公式』という特集記事で「数値の間違えがあると」読者から電話があった。 【一本の桜の木を15mの距離から35mmの広角レンズで写したら、フイルム面に縦18mmの大きさに撮れた。この桜の木の高さは幾らになるか?】という問題。 数式で計算された答えは約8000mmつまり8m。これを8000mと書き間違えたのである。数値としては大きな違いだが、高さ8000mの木などあるわけがない。笑ってパスする問題なのに。「わざわざご指摘有難う」と、お礼を言っては見たが・・・・・・。

ねたみと揚げ足取り
どこにもちょっとした人のミスを、鬼の首を取ったように騒ぎたてるものがいる。小保方晴子・理化学研究所ユニットリーダーのSTAP論文捏造疑惑は、あのノーベル賞受賞の山中教授まで巻き込んだ。十数年前、ドイツの学術誌に発表した論文に関し、遺伝子解説画像が切り張りしたのではないかと、ネット上での指摘があったという。画像の切り張りは、いまのデジタル時代なら簡単だが当時の画像加工は未熟であり、「こんな綺麗な切り張りを山中教授に出来るわけがない。だから切り張りではない。」と、ある化学者が解説した。
とにかく難しいことはわからないが、新聞やテレビの情報だけの素人知識でも、山中教授のiPS細胞は、他の研究者によって再現されている。このことだけでも、小保方さんのSTAP細胞とは雲泥の差があると思う。
ネット上の匿名の御仁は、かなりの知識を持たれる科学者と推測するが、10数年前のこんな指摘は、ねたみとしか思えない。人の揚げ足をとる時間があるなら自分の研究に没頭してもらいたいと思う。
              <求愛>
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by yumehaitatu | 2014-06-07 20:35 | 写真雑学 | Comments(0)

写真雑学47 札幌オリンピックの思い出 渡辺澄晴   

日の丸飛行隊
数々の感動と勇気をくれた、ロシアのソチで開催された冬季オリンピックも無事に終わった。冬季オリンピックといえば、1972年の札幌オリンピックを思い出す。札幌駅から車で20分の所に宮の森ジャンプ競技場がある。ここで70メートル級(ノーマルヒル)のジャンプ競技が行われた。1972年2月6日札幌オリンピック4日目。日本の有望種目である70メートル級ジャンプを見ようと朝から大勢の人が集まった。日本から笠谷、金野、青地、藤沢の4選手が出場して、1位から4位まで日本勢が占め、日の丸飛行隊金・銀・銅のメダル独占となった。私は彼らの勇飛行をジャンプ台の真下でみていたが、実はジャンプ競技を見に行ったのではなく、撮影中にフイルム面に発生する静電気の対策に、カメラメーカーの一員として札幌にいたのである。
カメラのメンテナンスと静電気対策
乾燥している冬には誰もが経験したことがある、あのビリっとくる静電気。高感度フイルムでは、静電気が火花となってフイルムにも発生していた。対策はフイルムを冷やさないことと乾燥させないことがわかっていた。取あえずカメラを覆うキルティングケースを作り、背面にカイロを入れ、フイルムを暖める防寒ケースの策だった。それを国内外の報道カメラマンに配布した。開会式の前夜札幌市内のホテルで彼らを招待、その使用法を説明した。問題はカイロ。今のように使い捨ての貼りカイロではなく、当時はベンジンオイルを使用する充填式だった。今思えば滑稽な話しだが、スピグラから35ミリカメラに変えた日本で始めての大きな冬の祭典だからフイルムに火花の模様が残る深刻な事故を未然に防ぐことに賢明だったのである。この時代、ISO400の高感度フイルムは、コダック社のトライX。カメラはニコンという状況だったから、コダック社と静電気情報を共有しながら対策を講じるようになっていた。フイルム時代の苦くも懐かしい思い出である。
親友の殉職の報
開会式は札幌郊外の真駒内野外競技場で行われた。天皇陛下(昭和天皇)の開会宣言のあと、歌や踊りの開会式のイベントが盛大に行われた。行事も終わりに近づいた頃、顔見知りのカメラマンから、ベトナムで取材中の、友人の突然の訃報に驚愕した。1967年2月、UPI通信社のクレーム処理のためベトナムのサイゴン(現ホーチミン)に渡った折、いろいろ世話になったPANA通信社のカメラマン嶋本啓三郎氏だった。このベトナム以来、すっかり嶋本氏とは意気投合し、東京でも何度か会った。「俺もかみさんをもらったし、危ない戦場取材はこれで最後にするよ!」と言い残して行ったのが最後になった。彼はタイムライフ・AP・UPIのカメラマンと共に米軍ヘリコプターに乗り、戦場取材に向う途中で、カンボジア国境地帯で撃墜されたのだった。嶋本氏らの乗ったヘリコプターが撃墜された4日後に、札幌では日の丸飛行隊が、金・銀・銅のメタルを独占。その快挙に日本中が沸いていた。
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by yumehaitatu | 2014-04-05 20:56 | 写真雑学 | Comments(0)

写真雑学46 50という数字 渡辺澄晴   

写真雑学46 50という数字
 出場50回
 年末になると週刊誌や新聞に紅白歌合戦の話題が盛んになる。特に今年はご本家のNHKでは、各番組の合間や特別番組を組んで初出場歌手や話題歌手の紹介、くどいほど宣伝に躍起だった。中でも「北島三郎50回出場これが最後の紅白歌合戦、大トリで締めくくり」という話題を大きく取り上げていた。紅白初出場は第14回(1963年)、デビューから1年後の27歳の時から50年、昨年の大晦日2013年が50回の出場になった。
 近年、演歌が少なくなった紅白には興味がなく、当日は民放のチャンネルでボクシングを観ていた。ボクシングが終わったので、NHKのチャンネルに切り替えた。すでに歌合戦も最終に近づき大トリの出番。出演者が勢ぞろいしたステージで大きな竜に乗って主役登場。代表曲「まつり」を熱唱。歌い終わると紙吹雪が舞う中、出場歌手らと握手を交わし「北島はこれで紅白を卒業させていただきます」と宣言した。まさに歌手本懐の光景だった。「歌手生活50年」「芸能生活50年」という区切りのいい半世紀の話題は、これからも長寿国日本では続々楽しい話題となって出てくると思う。

 ニューヨークに赴任した50年前
 南アフリカ共和国では、全人口の16数パーセントの白人が64パーセントの非白人を人種に基づいて差別していた。いわゆるアパルトヘイトの政策。その政策に反対していた黒人の指導者、ネルソン・マンデラさんが投獄されたのが1962年。ニューヨークに赴任した年である。28年後に釈放されるが、その年は私が1990年「ニューヨーク28年目の出会い」というテーマで取材に行った年だった。後に南アフリカ大統領となり、ノーベル平和賞を受賞。そして昨2013年12月全世界の人々に惜しまれながら他界された。国家反逆罪として終身刑となって50年になる。
 人種差別はアメリカにもあった。50年前の南部ではトイレ・バス・海水浴・劇場にいたるまで差別されていた。比較的人種平等のニューヨークでも差別があった。だが私の愛したワシントン広場と、その周辺のグリニッチ・ビレッジには、それがなかった。
 あれから50年。一般旅行者に嫌われていた黒人の街ハーレムも、今は観光地となり公園は禁煙、道に散らかっていた紙屑も落書きもなくなっていた。街の顔は拍子抜けするほど綺麗になっていた。
    *1963年 マンハッタン・黒人街で ~今や、この子供たちも60歳半ば~
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by yumehaitatu | 2014-02-02 07:55 | 写真雑学 | Comments(0)