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写真雑学65 パソコン    渡辺澄晴   

写真雑学65 パソコン    渡辺澄晴

確定申告  ドリーム展を明日に迫った3月1日、確定申告に行ってきた。この確定申告は今まではすべて妻にまかせていたが、今年は自分でやらなければならない。昨年の申告控えを探したがどこにあるのか見当たらない。確定申告の相談、作成の窓口は桜木町の日石横浜ホールの中にあると聞きそこへ行った。会場内はいっぱいの人が順番を待っていた。列に並んで待っていると、しばらくして係員から書類を渡された。見るとマイナンバーを記載する欄がある。これを記載しないと受け付けないという。不覚にも家に忘れてき。急ぎ戻り再び桜木町へ。相変わらず会場内は申告者でいっぱいだった。渡辺さんは申告書のパソコンを使えますか?」「使えます」「ではCの列でお待ちください」。言われた通りCの矢印に従って行くと数人の人が並んでいたが、隣のA、Bの列にはかなりの人が順番を待っていた。この人たちはパソコンが使えぬ人たちだった。

一人の係員がA・B・Cの3人の面倒を見るのだが、C列の我々はあてがわれたパソコンで言われた通り、氏名、住所、生年月日、マイナンバー等々を打ち込むだけで、作業は簡単に終わった。係員に報告すると、「これで終わりです。この番号札を持って奥の受付へ行ってください」。受付に行くとすでに書類ができていた。「住所氏名など間違いないか確認してください。これは控えです。お疲れさまでした」係員の丁寧な挨拶をうけた。A,Bの列には大勢の人が、番の来るのを待っていた。それにしても、スマホのキーをポコポコやるくせに、パソコンが使えない人が多いのにはおどろいた。

フォトドリーム展  そのパソコンを駆使してのフォトドリーム展も無事終った。入場者も昨年より多いと聞いている。作品も傑作揃いで、その横に貼られたレシピも力作だった。出展者44人の皆さんが、一生懸命制作した作品をどんな批評をするのか、期待も大きいと思う。それだけに批評する側も軽々しくは喋れない。講評準備のため、多田正司さんがzipに圧縮して出品作品をメールしてくれ、松浦孔政さんがレシピを郵送してきてくれた。この44人の作品とレシピを何度も見比べどのように話そうかと策を考えた。が、しかし、幸か不幸か持ち時間は40分。これでは一点の作品にかける時間は40秒足らずである。作品を見る目は人によって異なると思う。ここは一言評論を、ぶっつけ本番で臨むしかないと思った。

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by yumehaitatu | 2017-04-01 17:00 | 写真雑学 | Comments(0)

写真雑学64 コンテスト            渡辺澄晴   

写真雑学64 コンテスト                      渡辺澄晴

 私の所属している写真団体に、一般社団法人日本写真作家協会(JPA)というのがある。そのJPAの写真公募でこのほど、新潟市西区から大賞、金賞、銀賞を獲得したという地元新潟日報の新聞記事が新潟の友人写真家の羽賀康夫氏から送られてきた。

 県人3人上位賞を独占、応募総数は2.752点驚きの快挙。という見出しで3人の作品と顔写真が載っていた。いずれも新潟県西区。前回も大賞を受賞したのは女性(岡山県)だったが、今回も女性。その受賞作「幽玄」は、新潟県十日町市松之山地区の棚田を情趣に富んだ幻想的な雰囲気を写したもの。棚田といえばカメラマンが大勢狙う撮影スポットだが、よく見る棚田写真とは一味違った自然と光のコントラストを、一瞬のシャッターチャンスで捉えた自然と光の美しいファンタスティックな作品。公募作品は一般会員作品とともに昨年1213日から20日まで開催され会期中は5.022で賑わった。その後は大阪市立美術館、米子市美術館、仙台、岡山へ東京展と同じ内容で巡回展示される。当会から荒木優子さん、斎藤智徳さんが入選した。

 第28回からJPA公募は公表済みの作品も応募ができるよいになり、以前からデジタル加工の作品もあったが、特に創作部門を新設し、新しい表現による斬新な作品を期待する新しい部門で、われわれデジタル研究会には打って付けの部門である。

 110日の午後、第36回合同写真展フォト17を見に行った。市民ギャラリーのB1から3F全館に19のグループの作品が展示され、それを丹念に見ているうちに右足に痙攣の兆候がでたため一たん休息、‣・。とにかく見ごたえがあった。県や市が主催ならともかく、19団体をまとめて立派な写真展を開いたフォト実行委員会の統率力も素晴らしいと思った。

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by yumehaitatu | 2017-02-04 17:00 | 写真雑学 | Comments(0)

写真雑学63 遺影 渡辺澄晴   

写真雑学63 遺影

文化勲章を受章し昭和の日本画家を代表した堅山南風画伯の日常生活を写してほしいと、南風家から友人を通して依頼があったのは、今から36年ほど前の1980年の春。制作は東京世田谷の自宅ではなく、静岡県田方群は伊豆半島の富士山の見える山の上の別荘で、さすがに閑静な場所だった。当然ここへは定期バスはなく、マイカーでしか行けない。撮影時間を考えると、とても日帰りは無理。相談の結果、別荘に泊めてもらい画伯の一日を観察しながら撮影することにした。休日や休暇を利用して数日画伯と行動を共にしたこともあった。「こんど渡辺君はいつ来るの。」写真嫌いと聞いていたが、画伯に気に入られていたようだった。久し振りにまとまった写真が撮れると、こちらも張り切った。

その年の1230日肺炎のため田方の別荘で画伯が死去したことを新聞で知った。急ぎ上野毛の自宅に伺った。関係者から「渡辺さん、遺影になる写真撮っていませんか?」青山の斎場に飾る遺影だという。そのつもりで撮ったのは一枚もない。が、あの大催場に飾る写真なら、いつか秋山庄太郎さんの写した堅山画伯の威厳のある肖像写真を見たことがある。あの写真を飾らして貰おう。ご無沙汰のお詫びがてらに麻布の秋山事務所に電話した。「サイズを調べて伸ばしておくよ」と先生は気持ちよく引き受けてくれた。葬儀の当日、檀上には巨匠秋山庄太郎撮影の威厳に満ちた堅山南風画伯の遺影が飾られてあった。

 

妻の遺影 「渡辺キミさんは、ステージ4(末期)の肺癌です。お年ですから手術も放射線治療もできません。最後に打つ手は抗癌剤治療ですが・・」昨年の3月呼吸困難をおこし救急車で病院に運ばれ、検査の結果担当医師から告げられた言葉である。抗癌剤といえば、頭の毛が抜けるというのがすぐ目に浮かんだ。ステージ4の癌ならどんなに頑張っても余命は長くはない。毛が抜けないうちに写真を撮っておこう。そう思って妻の了解をとり挑戦をしてみたが、お互い気持ちのタイミングが合わず。満足した写真が撮れないでいた。

日を追って酸素の量が多くなり、持ち歩くボンベでは最高5にしないと歩けない状態になっていた。

 1022日(日)、妻は赤いセーターに赤い帽子をかぶり緑のスカーフを首に巻き外出の準備をしていた。月に1回、気の合った近所の奥さんたちが茶菓子を持ち寄り談笑するお集り会で、それをサロンと言っていた。妻はそのサロンを楽しみにしていた。「赤に緑。いい組み合わせだね!帽子も似合うよ」子供に言うように褒めた。歩いて1分もかからぬ裏の家に行くのに・・。「せっかくだから写真を撮ろう。」白い襖の前に妻を立たせ撮影の準備にはいった。「酸素のクダ外してよ・・」過酷な要求だった。健康な人なら「息を止めろ!」に近かったと思う。「こんなの着けては様にならないわね!」と言って妻は鼻からクダを外した。急ぎシャッターを切った。気持ちのタイミングが見事に合った。手ごたえありのサインを指で妻に送った。妻もホットした顔を見せ、満タンのボンベを転がしサロン会場へ向かった。<製作中の堅山画伯>
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by yumehaitatu | 2016-12-03 17:00 | 写真雑学 | Comments(0)

写真雑学62 越智さん 渡辺澄晴   

写真雑学62 越智さん                 渡辺澄晴

日本光学工業株式会社。(㈱)ニコンの前の名称である。製造されたニコンカメラがユーザーの手元に渡る流通経路は、特約店を通してカメラ店、そしてユーザーという手順になっていた。当デジタル研究会の前会長越智祥之さんは、その特約店樫村のセールスマンだった。すらりとしたスリムな青年でいつもニコニコと笑顔で我々に接してくれた。その越智さんと奇遇にもこのデジ研で一緒になった。ジョークを云い周囲の人を笑わすことも昔のままだった。ニコンにはニッコールクラブというユーザーのための組織があり、年に何度か各地でモデル撮影会が今も行われている。その撮影会や新製品発表会、カメラショー等々のイベントには特約店の越智さんも手伝いに来てくれた。越智さんを知ったのは1964年の東京オリンピック直後だから50年以上にもなる。細く長い付き合いだった。あの笑顔を思い浮かべながら、謹んで故人のご冥福をお祈りします。

どんなに時間をかけようが、お金を掛けようが作品は結果で評価される。その作品には作者の個性が出るように評価も人によって異なると思う。マンツーマンなら言いたいことも言えるが大勢の人の前では作者のことも考え、ひとことも言えず遠慮してしまうこともある。しかしその逆もある。越智さんの作品はどこかひとこと言わせるようなスキがあり、遠慮なくそれを指摘できた。そのことで会の雰囲気を和ませたことにも多かったと思う。

いま写真は多様化する価値観に、当会のようなデジタルフォトという新たなテクノロジーが加わり、どこに向かって進むのか、不確実で未知数の多い時代になった。工夫を凝らした皆さんの作品を毎月見るのはとても楽しく勉強になるが、この苦労して創った作品を講評するとなるとかなり気をつかっている。「出来もしないくせに・・」「勝手なことを言うな・・」など周囲から雑音が聞こえてくる思いを感じながら、難解な加工作品でも講評は鑑賞側の目で評価して、仕事だと割り切りひとこと言わせてもらっている。その小生、今年9

15日で88

歳の米寿を迎えた。どうかこれからも年の功に免じて多少の毒舌はお許しいただきたい。

写真説明  札幌で行ったニッコール撮影会土門先生(土門拳)と木村先生(木村伊兵衛) 越智さんも参加してました。】

          土門拳

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木村伊兵衛
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by yumehaitatu | 2016-10-01 17:00 | 写真雑学 | Comments(0)

写真雑学61     反骨のボクサー     渡辺澄晴   

写真雑学61     反骨のボクサー     渡辺澄晴

 東京オリンピックを2年後に控えた1962915日、社命によりニコンのニューヨーク現地法人に転勤した。妻と2歳の長男を日本に残しての単身赴任だった。偶然にもこの日は私の33歳の誕生日でもあった。その頃の日本経済は1ドルが360円の時代で、まだ急成長以前。勤務先のオフィスは、マンハッタン5番街111番地。ブルックリンのアパートから地下鉄に乗って30分の所にあった。

 赴任して間もなく、UPI通信社の依頼でシカゴに飛んだ。世界ヘビー級チャンピオンフロイド・パターソン対ソニー・リストンとのタイトルマッチを、リングの上から撮影したいというUPI通信社の依頼によるものであった。野球場の特設リングに250枚撮りカメラを5台取り付け、それらをリングサイドからカメラマンが1人で操作する工事である。今なら何でもないことだが、当時としては画期的な企画だった。試合は1ラウンドでチャンピオンのパターソンがリングに沈んでしまうあっけない結果だった。翌朝新聞紙上にはノックアウトの連続場面がユニークなアングルで載っていた。

嬉しいパニック 1960年、ローマオリンピックで金メタルを獲得したモハメド・アリがプロに転向し1964年、前述のソニー・リストンを破り世界ヘビー級の王者となった。そのモハメド・アリが1976616日プロレスラー、アントニオ猪木とによる格闘技戦で来日した。テレビでは羽田空港に2000人のファンが押し寄せ、大混乱の様子が報じられた。その彼を「ニコンの工場(品川‣大井)に呼ぼう」と、いうことになった。「来るわけがない」「駄目でもともと」「無理は承知」」で、交渉したところ、あっさりOKの返事がきた。まるで狐につままれたようだった。

 試合を2日後に控えた超多忙をさいてモハメッド・アリが乗った車が工場に到着した。休む間もなくニコンF3の組み立てラインを見学したが、その途中従業員の作業着にサインしたり女性社員にボクシングのポーズをしたりのサービス。他の職場の人たちは社内放送の制止も聞かず仕事を放棄して見学通路に待ちはだかる嬉しいパニックのひと時だった。帰りには、ささやかな土産だが、ニコンF3を寄贈した。そのモハメッド・アリが去る6月3日に亡くなった。

 人種差別を受けた悔しさから獲得した金メタルを川に投げ捨てたり、ベトナム戦争に反対し、兵役拒否で禁固5年と1万ドルの罰金を科せられ、その後も信念を曲げずに戦い続け、1971年に最高裁判所で無罪を勝ち取った反骨のボクサーモハメッド・アリさん。謹んでご冥福をお祈りします。
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by yumehaitatu | 2016-08-06 17:45 | 写真雑学 | Comments(0)

写真雑学60  米寿 渡辺澄晴   

米寿    渡辺澄晴

しばらく音沙汰のなかった写真家Mさんから電話があった。酔っぱらっているのか呂律の回らないしゃべりだった。「酔っぱらって電話するなんて無礼な奴!」と思いながら聞いていると、ひと月前に脳梗塞を患い目下リハビリ中で、ようやく室内を軽いものを持って自力で歩けるようになったと云うことだった。早速、お互いに「会いたいね!」ということになった。数年ぶりにMさんのいる広尾駅前のマンション10階を訪ねた。玄関を入るとすぐに「8」と記したレースカーの真っ赤なカバーが目に入った、その隣には本田宗一郎氏から贈られたというホンダのレースカーのエンジンが、ガラスのケースに収められ、モータースポーツ関連グッズとともに陳列してあった。

 Mさんは、六本木とスイスに事務所を持ちIRPA(国際レーシングプレス協会)のメンバーで内外出版社の依頼を受け世界を渡り歩くモータースポーツの写真家である。その彼が手足と口が自由にならなくなったのだから、さぞかし気持ちが苛立っているかと思っていた。ところが会ってみると意外にもクールだった。「なべさん! 俺はこの病気を機に車の運転も撮影も辞めることにした。もう82だぜー」「なんだ! まだ82か、俺は87だぞ、間もなく米寿だよ、車の運転やモーターレースの撮影は無理でも、花でも風景でもあるじゃないか、世はデジタルの時代。カメラもレンズも軽くなったしフイルム時代とは雲泥の差だよ!」「そうだ、すごいよなーデジタルは、回復したら世界の桜でも撮ってみるか。」Mさんは、もつれた舌で熱っぽくよくしゃべった。やはりこの人、写真とは縁の切れない人だと云うことがよく分かった。

 さて小生は、あと90日ほどで88歳の米寿を迎える。米寿なんてまだ遠い先の先と思っていたが、ついにその日がやってきた。昨年は転倒事故が3回あった。暮れには駅の階段から転落して、顔面15針を縫う大怪我をした。そんな事もあって遅きに失したが、考えを変えた。まず自宅の玄関口、階段、風呂場に手すりをつけた。そしてビルや駅の昇降は、エレベーターかエスカレーターを使用し、階段は手すりを利用することにした。運動と称して駅の階段を歩いて降りたり上ったりしたその結果が事故につながったのである。「元気ですねー」「若いですねー」と云われるのは、裏を返せば「躰を大事に、歳を考えて・・」などの忠告と受け止め、その有難い労りと激励の挨拶に感謝しつつ、これからも生涯現役で頑張りたい。

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by yumehaitatu | 2016-06-04 18:15 | 写真雑学 | Comments(0)

写真雑学59 一眼レフ   




写真雑学59 一眼レフ       渡辺澄晴


今年もCP+がパシフィコ横浜で開催された。以前の「日本カメラショー」から数えて50年以上の歴史をもち現在は、ドイツの「Photokina」アメリカの「PMA@CES」と並び世界3大カメラショーのひとつになっている。日本カメラショーは東京では銀座の髙島屋が会場だった。この頃はフイルムカメラの全盛時代で35ミリ一眼レフが主力だった。交換レンズもズームレンズや超望遠、超広角のレンズ、そして接写も一眼レフの大きな特徴なので、マクロレンズやそれに伴う接写機材なども次々発売された。

 当然花や昆虫を写す人たちが多くなり、カメラ雑誌からその撮影テクニックや機材の説明などの原稿依頼が頻繁にくるようになった。人に教えるには自分がそのことを経験し精通しなければならない。そこで我が家の庭をスタジオにして、接写に取り組んでみた。失敗も多かったが、そんな失敗も話のタネになった。そして写真展。

小さな庭の仲間たち こんなテーマで庭の草花、雑草、飛来してくる昆虫などを撮りまくり写真展を東京と大阪、札幌などで開いた。「被写体は足もとから!この写真展は我が家の小さな庭で展開する植物や昆虫の1年間のドラマです」これが写真展のキャッチフレーズだった。写真教室や講演には家の庭で撮った作例写真を編集してスライドホルダーに収め、そのスライドを投影しながら失敗談など経験をもとに話を誇張して聴衆を笑わせたりした。

 そんなある日、自宅に大分の農業高校M教諭から長い大きな段ボールが届いた。明けてみると温州ミカンの苗が10本。中の手紙には「先日は有意義なクローズアップのご講演ありがとうございました。・・餌不足でアゲハ蝶の幼虫の飼育にお困りのことを伺いお役にたてばと思い・・」実は大分で講演したとき「アゲハ蝶の一生を記録しているが、幼虫の餌が不足して困っている・・」こんな話しをしたそのリアクションの送りものだった。いただいた苗は2本を残し隣近所に分け、今では2本の苗は20キロの実のなる木となり、蝶も卵をミカンの葉に産みつけ、孵った幼虫は豊富な葉を食べサナギになり、羽化して元気に庭を飛び回っている。

カマキリの幼虫に魅せられ 家の近くの野原でカマキリの卵巣から幼虫が湧き出る光景を初めて見た。この神秘的な可愛い幼虫の仕草に魅了され、毎年近くの雑木林や野原に出かけ卵巣を採集してカマキリの誕生の撮影を楽しんだ。そしてこれらをまとめ、新宿のコニカギャラリーで「ザ・マンテス」といテーマで写真展をひらいた。展示作品の一部をデジタル化工をしたのもこのときである。

 以後も卵巣から誕生する幼虫の撮影に没頭していた。しかし年々周囲は宅地化され、卵巣の収集が困難になってきた。そこで新潟の友人にそのことを伝えると、年末になって友人から卵巣がぎっしり入った御歳暮と書かれたクッキーの缶が届いた。なんともありがたい戴きものだった。それから数年間、冬になると歳暮、年賀という形で宅配されてきた。あれから30年になる。アゲハ蝶は毎年、卵を産みにミカンの木にやってくる。カマキリも成虫になって飛んでくることもある。おそらくそのカマキリは新潟生まれの末裔ではないだろうか。



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by yumehaitatu | 2016-04-02 17:00 | 写真雑学 | Comments(0)

写真雑学58 乾杯 渡辺澄晴   

写真雑学58 乾杯

近頃、パーティーでは乾杯の音頭を仰せつかることが多い。わがデジタルフォト研究会でも会の長老ということもあり、私の乾杯が定番になっているようだ。大変光栄な役だと思う。もう一つ私の所属している写真団体の日本写真作家協会(JPA)でも、会の写真展のオープニングや総会のパーテーィには私が乾杯役を担当している。各地から集まる写友や写真界のお歴々を前にしての乾杯の音頭をとるのは、僭越と思いながら楽しみにしている。

長い一言

この会の式次第は、まず会長の挨拶から始まり来賓の祝辞、賛助会員の紹介と挨拶などが酒と料理を前に延々と続くのである。司会者の口からは「次に○○のA様から一言」と必ず一言が入るが、挨拶側は決して一言で終わることはない。やっと終わったと思ったら、「次に○○を代表して・・」このころになると会場から「まだあるの」「もーいいよ」などの囁きが聞こえてくる。こんなタイミングに「大変お待たせしました。ここで乾杯に・・・」と、司会者から乾杯役の紹介があると、「やれやれやっと乾杯・・」と、ほっとしたように会場は和やかにどよめくのである。そして≪乾杯≫!この≪乾杯≫は会場の殆どの人が待ちあぐんでいたセレモニー開始の一瞬である。

救急車

そのJPA展オプニングパーテーィの、乾杯役の大役を務める3日前の昨年12月11日。受け持っている写真クラブの年内最後の勉強会を終え、帰路に向かう途中だった。駅の下り階段で足を踏み外して転げ落ち、顔面と胸部を強打して一瞬気を失い、救急車のお世話になってしまった。病院で頭部のCTや胸部のレントゲン、心電図などの検査を受けた。医師から「お名前は」「生年月日は」「今日は何日でしょう」等時間を追って何度も質問された。それらのことは、はっきり答えたので、4日で退院することができた。頭部も胸部も異常がなかったことは、本当に不幸中の幸いだったと思う。しかし、退院はしたものの15針縫った顔ははれ上がり、とても人前に出る様相ではなかった。

思えば昨年は、年明けから写真展の準備で多忙だった。その最中、妻が緊急の入院。走り出した写真展を止めるわけにもいかず、最悪のことも考慮しながら決行をきめた。幸い周囲の人に支えられながら無事写真展を終え、妻も退院してやれやれと安堵したその直後、こんどは自宅の玄関口で右足を強打して病院に通い、全治まで2か月もかかった。そして10月にはビルの階段で転んで顎を打ち、その打撲の腫れが目だたなくなるまで、外出時にはマスクでカムフラージュしていた。

二度あることは三度ある

ことわざ通り、三度目の怪我は前述のように大きかった。いずれの原因も歳相応の振る舞いをしていなかったことにある。転ぶということは歩行時、足のつま先が上がっていないこと。つまり歩行動作の老化である。これからは駅やデパートなどの階段の昇り降りは必ずエレベーターやエスカレータを利用して、2度と転倒などしないよう日頃の行動には歳を考え十分に注意したいと決めている。そして次なる≪乾杯≫に備えたいと思う。

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by yumehaitatu | 2016-02-06 17:11 | 写真雑学 | Comments(0)

写真雑学56 接写の友 1 渡辺澄晴   

ネイチャーフォト万能写真家 木原和人

久し振りに今年は蝉の羽化を撮ろうと思っていたが、なかなか事が運ばず撮影をあきらめた。その蝉の羽化といえば、木原和人を思いだす。彼は春夏秋冬の風景写真から野鳥、野生動物、花や昆虫の接写までこなしていたオールマイティー・ネイチャーフォト作家だった。しかし、その木原は1987年ガンで死去。40歳の若さでこの世を去ってしまった。彼は10年間のサラリーマン生活中、各種フォトコンテストに入賞および年度賞など多数。1976年会社を辞めプロに転向し、1977年ごろからカメラ雑誌などに写真と記事を連載していた。私もそのころカメラやレンズ、花や昆虫の接写のハウツー記事を載せていたので、お互いに名前は雑誌の記事を通じて知り合っていた。

19791026日、銀座の富士フォトサロンで木原和人写真展 「一滴の自然」という写真展が開かれた。オープニングの日、会場を訪ねた。その入り口に背の高いスリムなイケメンとがっちりとした大柄な男が立ってした。スリムな男が木原和人、大柄な男は昆虫写真家の栗林慧。「渡辺です」と挨拶すると、二人は「おー渡辺さん・・」と異口同音の挨拶がかえってきた。お互いにカメラ雑誌で名前は知り合っていただけなのに、まるで長年の友のような出会いだった。

栗林慧は郷里長崎に栗林写真研究所を設立。医療内視鏡を基に作った自家製のレンズで「昆虫の目」で見た風景を再現したり、昆虫の飛ぶ姿をセンサーで捉えたユニークな昆虫写真などの功績により伊奈信男賞、日本写真協会賞ほか2008年に紫綬褒章を受章し長崎県平戸市の名誉市民になっている。

プロに転向した木原和人は、「自然とのふれあい」「光と影の季節」「光と風の季節」など写真展を通じ発表。写真集には、「てんとうむし」「みずのかたち」「こうげんのはな」「すながに」などの児童向けの写真集や「光と風の季節」「接写のフルコース」など華麗な豪華本も出版していた。その木原から「渡辺さん 蝉の羽化を撮りにきませんか・・」

という誘いの電話があった。「撮影は夜半になるので僕の家に泊まってというありがたい誘いだった。ちょうど「接写の技法」という本を執筆中だったので作例には願ってもない話しだと思い、誘いに甘えることにした。2日後千葉の稲毛駅で落ち合った。彼がランドクルーザーに乗って迎えてくれ、そのまま撮影地の梨畑へ向かった。撮影が始まり陽がとっぷり暮れたころ、ここの農園の主人がおにぎりとお茶を持ってやってきた。「俺は木原さんの写真が好きでねー。先日てんとう虫の本を孫に持ってきてくれたんだ・・」「てんとう虫は、アブラムシや貝殻虫など食べる益虫なんだが、中には野菜を食べる害虫もいる。そのてんとう虫は星が九つあって・・」と、木原が解説てくれた。蝉を撮りに来て思わぬてんとう虫の講義をうけた。撮影が終わりその日は彼の家でお世話になった。奥さんが夜食を用意していてくれていた。その夜食を食べながらカメラやレンズの話し、写真界や子供の事など、2人で夜明けまで語りあった。(文中名敬称略)

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by yumehaitatu | 2015-10-03 19:07 | 写真雑学 | Comments(0)

写真雑学55 ネイチャーフォト 渡辺澄晴   

写真雑学55 ネイチャーフォト

小さな庭の仲間たち

東京世田谷にあった上野毛の社宅から、今の保土ヶ谷に移って40数年になる。小さいけれど庭もあった。そこへ草花を植えた。間もなく新築祝いにと、群馬で椿を栽培している著名な人から蕾のついた椿の苗木が5本と、見事な皐月の盆栽が贈られてきた。大きな庭と勘違いしたのか、分に似合わぬ贈りものだった。「そうだここに咲く花やその花の蜜を求めて飛んでくる昆虫たちを撮ってみよう。」しばらくまとまった写真を撮っていない。庭を見て急にモチベーションがわいてきた。1970年の春だった。

それから1年半後、新宿のプラザホテル内のニコンサロンで「小さな庭の仲間たち」というテーマの写真展を開いた。内容は庭に咲く花。その花の蜜を求めて飛んでくる昆虫の生態などだった。このことがあって複数のカメラ雑誌社から花や昆虫の撮り方、交換レンズの使い方などの、原稿の依頼が絶え間なくあり、その原稿に添える作品作り。接写の実践指導。各地の講演をなど、多忙な日々が続いた。

ネイチャーフォトテクニック

自然食品、森林浴、バードウォッチング、アウトドアライフ・・・我々の身の回りには、こうした自然指向を奨励する言葉があふれている。各地で宅地造成が行われ、また、都市化が進められている昨今だけに、失ってしまった自然を求める気持ちもより高まってくるのだろう。しかし、ほんのちょっと注意してみれば、我々の身近にはまだまだ沢山の自然が残っている。

四季折々の風景や、美しい草花、愉快な昆虫たちの世界を写真に撮りたいと思っても、かっては露出を決定することからして困難だった。しかし今日では、メカニズムの飛躍的な進歩によって解決され、誰でも簡単・確実に素晴らしい自然界のひとこまを記録することができるようになった。露出、ピント等々撮影操作はすべてオート化され、また各種交換レンズの発達により、かって体験したことのない新たな視覚、いわば、もうひとつの自然をもとらえることができるように

なった。

ネイチャーフォトの素晴らしさは決して自然を破壊しないということだ。草花を採るわけでもなく、昆虫を捕るわけでもなく、ひたすら写真を撮るだけだから。ただ、「我々人間も他の動物や植物と同じ自然界の一員にすぎない」ということだけは忘れてはならない。彼らの生活を侵害することなく、そっと見せてもらうという謙虚な姿勢で撮影にのぞむことが大切だ。そうすれば彼らのほうから、感動的な自然界のワンシーンを必ずや提供してくれるはずだ。

この文章は1983年に発刊したハウツー本、「ネイチャーフォト・テクニック」の、『はじめに』という前書きである。

今年も折り返し点を回り8月になった。夕方になると、庭の木の根の周辺からセミの幼虫が地中から出てくる。しさしぶりにセミの生まれるシーンを、腰をすえて撮ってみたいと思う。 

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by yumehaitatu | 2015-08-01 17:00 | 写真雑学 | Comments(0)