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堀田義夫の「やぶにらみ論法」55   

推敲の勧め
 私のもう一つの趣味は絵を描くことですが、その先生が、「写生とかスケッチが自分の背の高さ位の量や経験を踏まないと満足な絵は描けない」と常に修練を積むことを勧めます。
 それでいて、「絵はいくらスケッチがうまくても、写生が上手でも、それを作品とはいわない。写生やスケッチは作品を生むための手段であって作品とは別だ」と矛盾したようなことをおっしゃる。
 友人に俳句をたしなむ人がいて、一句が作品として完成するまでにはいろいろな手順があるという。たとえば吟行に出かけたとき、いきなり完成した作品が生まれるということはなかなか難しい。譬えできたとしても、後になって納得がいかなくなることがよくある。だから一句を作りっぱなしにしないで、必ず見直すことがとても大切なのだと語っていました。
 この両者のご意見を整理すると、技術力習得のための努力は大切だが、それだけでは納得した作品にはなりにくいということでしょう。
 写真の場合は特にそうです。「よい被写体や条件に恵まれ感激してシャッターを切って、後はラボに任せ、出来上がったプリントを選んで、ハイ!それまぁでよ~」といった傾向が横行しています。そこで、絵でも俳句でも後でいろいろ考えを練り上げるように、写真も自分の表現しようと思って考えていることをもっと大切にしてみてはどうだろうか。
 私は自分の作品を見直し検討したり練り上げることを気障ったらしく「推敲」すると人に話すことがあります。「推敲」というのは主に文学の分野で使われますが、その考えは写真にも当てはまることだと思います。
 それでは自分の作品を「推敲」するとき、どのようなことに留意するかといいますと、おおよそ次のようなことです。
① 既に評価の定まっている作品のなぞりで満足していないか。
② 事物の説明をしようとしてトリミングに甘さがないか。(ルポ的な写真なら別だが…)
③ 旧来の経験的な見方、考え方から脱して、新しさに挑む姿勢が見えるか。 
④ 新しいメカニズムが生み出した新しい表現領域の獲得に応えられたか。
⑤ 技術力・技能力に溺れていないか(アーチストではあってもアルチザンではないんだから…)
⑥ 作家としてのオリジナリティが打ち出せたか。
想いが込められたか。
 今年の「夢の配達人展」の私の作品を見た人が、「ずいぶん時間がかかったでしょう?」と呆れ顔で質問した人がいた。たしかにそうした意味では「推敲」を重ねることは時間はかかるかも知れない。撮影してから10数年たったものもあるんだから…、 しかし、時間が問題なのではない。「推敲」を重ねることによって、よいと思われる作品にする努力が必要なのではないかと思っています。
<温暖化>
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by yumehaitatu | 2008-11-01 23:28 | やぶにらみ | Comments(0)

堀田義夫のやぶにらみ論法54   

「コレクション画像充実の勧め」
 当研究会の最大のイベントである【夢の配達人展】を来月に控えて、会員諸氏は作品作りに研鑽を重ねていることだろう。私自身も難行苦行の日々である。そんなある日、96才、現役の映画監督である新藤兼人さんの話を聞いた。
 「私の作品はパターンが決まっていないから、こんどはどんな作品なのだろうか?」という期待感を持って頂ける。と先取の気概を語り、そして「評価が低くても観客の入る映画は、格好悪くて、ボクには作れない」と芸術家としての格好よさを語っていた。
 これと同じような話しで、洋画家の梅原龍三郎さんは「私は百人の群盲のために絵を描こうとしているのではない。私の仕事を理解して共感される人がいれば、たとえそれが数人であってもいい」と語っている。ここにも芸術家・梅原龍三郎さんの美学が読み取れる。
 こうした孤高の大芸術家ではないが、私が最初に師事した絵の先生は「写生やスケッチは、技術の習得には必要不可欠なものだが、それを作品とはいわない」といわれ、技術習得と習得した技術によって生まれる作品を区別されていた。
 写真をメディアにした表現者にも同じ事は言える。「いい被写体に出会って、シャッターを切り、ハイ!それまでよ~…」といったものは「写真ではあっても、作品とは言えない。写した写真に想いを込めてこそ作品といえる」と思っている。
 たとえば映画の場合、監督の心に描かれた想いが影像をパーツとして組み合わされ、作品化が図られるのです。私たち写真をメディアに表現活動(フォトアート)するとき、未知のイメージに遭遇したり、イメージを増幅させる手段としてコレクション画像を充実させることは、一つの方法です。
そこで私の個人的な手法を紹介すると、撮影の機会がある毎に、 「ハッ!と思ったら撮る」撮ったものがその状態では鑑賞にならないようなものでも良いのです。大事なことは「ハッ!」と思うことです。
この「ハッ!」は具体的な言葉に言い表すことは難しいのですが、これをコレクション画像としてファイルに保存するのです。なにも感じない被写体ではなく、「ハッ!」としたんだから……
 私のコレクション画像には、「海の表情」「空の表情」「魚貝類」「植物」「昆虫」「鳥類」「動物」「人物」「人形」「背景・パターン」「都市の景観」等々と層別されてファイルが作られています。
 そうしたファイルは、さらに細分化されています。たとえば「空の表情」には〈梅雨空〉〈荒天の空〉〈晴天の空〉〈明け方の空〉〈暮れゆく空〉といったようになっています。
 こうして保存されたコレクション画像をパーツとしていろいろ組み合わせて、イメージを拡幅する手段にしています。
 私たちひとり一人が持っているイメージは貧困なものですが、このようにコレクション画像の組み合わせを考えると、いままでは経験したこともない、あるいは潜在的な意識との新たな出会いが期待できるのです。是非、知的財産でもあるコレクション画像を充実させようではありませんか。
「天空からのメッセージ」
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by yumehaitatu | 2008-10-04 21:24 | やぶにらみ | Comments(0)

やぶにらみ論法53 堀田義夫   

岡目八目
「岡目八目」という四字熟語があります。「岡目」は、他人のしていることを、はたから見ていると冷静に観察できるので、ことの善し悪しや損得がよく見えて正確な判断ができる。「八目」は、他人の打っている碁をはたから見ている者は、対局者自身よりも勝負を冷静に見ることができるので、八目も先の手まで見通すことができるということを譬えているのです。
 写真の世界にも同じことが言えそうです。当研究会でも、もうすぐ恒例の「夢の配達人展」が始まります。そのために担当役員は「岡目八目」の利点を生かした「下見会」や「作品づくり相談会」といったことを企画しています。
 ところが、この「岡目八目」にも落とし穴があるのです。といいますのは、その「岡目」がすべて正しいわけではないからです。
 よく例会などで指導者が、「私だったら…」と作品についてのアドヴァイスで自分の考えを強要している光景に接します。このことは私が尊敬する最初に師事した田村栄先生の「指導者というものは、その人の、やる気を応援することである」という考えと大いに違うので違和感を感じてしまうのです。
 ところが趣味や道楽の世界には「教え魔」的な存在の人がいるもので、その教え魔は自分の経験値の枠組内か、あるいは、自分はこんなに知っているんだぞ!といった自己顕示の姿勢が目立ちます。
 相手が知ろうとすることより、自分が知っていることを押し付けるのです。こんな手合いに出会ったら災難だと思ってください。
また、教え魔の人は、聞く側が「あんたなんかに聞きたくない!」と思っているかも知れないと警戒すべきです。すなわち「聞く側が信頼を置いてくれるかどうか」岡目八目に自身を検証すべきです。   
そこで、岡目八目も当てにならないとしたら、自分の作品の良否の選択基準をどこにおくべきかを考える必要があります。そのために一般的によい作品と思われる評価基準を整理しました。
① 「どう撮りたいか!」「なにを伝えたいか?」という作者の心が読み取れるか?
②写された写真が単に現実のコピーではなく、
オリジナリティーに富んでいるか?
③ 多くの作品の中で存在感を維持する充実した技術力に裏付けされているか?
④ 新鮮さ、洗練さを印象づける努力がなされているか?
⑤ 巧いではなく、良い作品を心がける。すなわち「巧い」は外観的感覚、「良い」は内面的感覚。
 こうした判断基準を自問自答してみることです。そのことを習慣づければ、もうひとりの自分が育ち「岡目八目」的に冷静に作品を判断してくれると私は信じています。
 それでも迷ったら、尊敬する先輩や同僚に意見を求め、相談に乗って貰うといいでしょう。そうでないといつまでも「お任せ人生」から脱却できません。
   <傷 跡>
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by yumehaitatu | 2008-09-06 22:39 | やぶにらみ | Comments(0)

やぶにらみ論法「わがままを楽しむ」堀田義夫   

わがままを楽しむ
7月14日の新聞にアメリカのメジャーリーグで活躍した野茂英雄投手の引退が報じられた。その記事の中で、「人は引退するときに燃え尽きたから悔いはない!といいますが、ボクの場合は悔いがあります」とコメントしていた。悔いのない人生なんてあるのかと改めて考えさせられた。
 ある公募展での話し。○○メーカーの型式○○の額縁に額装のこと、という規定に対して、型式の異なる額装の作品が持ち込まれた。当然規定外だから主催者から「展示は認めるが入賞審査対象外」と告げられて、出品者は怒って展示を断り作品を持ち帰ったそうだ。主催者側とすれば多くの作品を審査したり、展示効果などを考えれば、最低限の規定は守って貰わねばならないと思うだろうし、出品者にとっては、作品に対してもっとも似合う体裁で出品したいだろう、そこの折り合いが難しい。
 また、モノクロプリントで伝統のあるグループ展を見に行ったら、幹部の話として、最近の傾向で会員の中にはデジタルカメラを使う人が増えてきている。そうだからと言って伝統あるクラブなので、デジタルプリントは認めないというのだ。だが、明らかにデジカメで写したと思われる作品が展示されている。聞いてみると、デジタルでプリントアウトしたモノをフィルムカメラで複写して、現像・焼き付けして出品したモノなら認めているという答えが返ってきた。なんとも不可解な話である。
 また、ネーチャーフォトの愛好者を中心にしたクラブで、人物が写っていたり、人工物が写っていてはいけない、と言っていながら公園や植物園で花を写している。公園や植物園の花は人工的に交配されたり、植栽され、品種改良されているんだけどなーと思う。ばかげた話しである。
 俳優の中尾彬さんは,「趣味や道楽を楽しむには先生につかないことだ!」とちょっと驚くようなことを言っている。すなわち、一般的に先生と言われる人は、自分の趣味を押し付けたがり、また生徒の方は先生に褒めてもらいたいから先生の好きに合わせる。といった図式が存在する。
「こんなことをやったら、先生はなんて云うだろう」と思うと、いきおい発想が萎縮してしまう。元々、趣味だとか道楽といったモノは、先生や周辺の事情で行われるモノじゃなくて、自分が楽しむためのモノでなければならない。
 主催者側の都合で決められた出品規定に合わせて作品を創ったり、せっかく新テクノロジーとして登場し表現領域が拡大されたデジタル表現を否定して、アナロク時代の不自由な表現形態に固執することを強要される。あるいは人工的なモノが画面に入ってはいけない!といった、作者の表現意図を束縛されたんじゃつまらない。
 冒頭に掲げた野茂英雄投手の「悔いがある」という台詞。わたしたちは 「悔いがない」人生を送るために、人に後ろ指をさされても良いから、思いっきりわがままを楽しもうではありませんか。
     < 炎 暑 >
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by yumehaitatu | 2008-08-03 13:39 | やぶにらみ | Comments(0)

省略は武器 堀田義夫   

 先日、会員の荒井信雄さんがデジタルフォトでインフラレッドに挑戦した新しい試みの個展を新宿で開催したので仲間たちを誘いあわせて鑑賞ツアーを計画しました。その折り、フォトコン誌の選者である中谷吉隆氏の「フォト・ハイ句」展が近くの画廊で開かれていたので、ついでといっては失礼だが立ち寄り、その面白さに魅せられてしまいました。
 門外漢の私が俳句について論じようというのではありませんが、どうも俳句は、写真ととても似ているように思えます。会員の中にも、高張一司さん、大木伊都子さん、小山仁さんといった人たちは俳句に造詣が深いようですが、そうした人たちからの刺激もあってか最近ちょっと俳句に興味を持つようになりました。
 俳句はたった十七音という小さな器の詩ですが、自分の描写したいこと、伝えたいことを十七音の中に封じ込めるわけです。
 伝えたい気持ちを十七音に無理やり押し込めようとするとなんとも窮屈で、調子の悪い句になってしまうでしょう。俳句をすっきりした姿に仕上げ、しかも読み手の胸にストンと響かせるには「省略」という技法がとても大切だと聞かされています。
 先月、恒例の一泊撮影会が日光で行なわれました。戦場ヶ原から赤沼あたりは、最近10年間では最高の開花だと地元の人も驚くほど「ズミ」の花が咲き誇っていました。ベテランの矢守笙治さんは「これで今年の暑中見舞いは決まった!」と感激してシャッターを切っていたくらいです。
 そうした見事な条件の中で写した自分の作品を見直してみると、確かにきれいには写っています
が、胸にストンと響いてこないのです。
「きれいな景色を眺めて、シャッターを切った」といった印象の写真が多かったのです。
 俳句は十七音で季語を織り込み説明を省略して余韻を生みますが、写真もそうでありたいと思うのです。たとえば、自然の美しさを写しとろうとして、見えたモノすべてを、一コマのフレームの中に無理やり押し込めれば、なんとも窮屈で調子の悪い写真になってしまいます。 
 そうではなく、その中の一木一草に自分の想いをつなげて写し込まなければ、自然が持つ美しさには絶対かないません。「その場の情景を説明しようというのではなく、省略を武器に余韻を生む作品を写すべきだったのです。」この鉄則を私は失念していたのです。
「動く葉も なくておそろし 夏木立」という与謝蕪村の句がありますが、この短い十七音で、ジージーとやかましい蝉の声や、風もないうだるような暑さが伝わってきます。今回は自省を込めて写真表現に「省略は武器」ということをテーマで書かせていただきました。
<雲 間>
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by yumehaitatu | 2008-07-05 23:29 | やぶにらみ | Comments(0)

堀田義夫の「やぶにらみ論50」   

写真は3秒間が勝負
個人的なことだが、写真展をよく見るようにしている。「よい仲間を選ぶ・よい写真を見る・撮影の機会を多く持つ」ことは刺激を与えてくれ、写真を撮るときに大いに役立っているからです。
 ところで、いま(5月19日~25日)「08年度・ドリーム展」が例年のようにLプラザで開催されています。そこで思いつきですが、観客が作品の鑑賞にどの位の時間をかけているか、入場してから退場するまでの時間を計測してみました。
 その結果、一般的には平均7分かかって鑑賞していることが解りました。約80点の作品が展示されているから、一点の作品を鑑賞するのに約5秒かけていることになります。もちろん素通りされたり、じっくり鑑賞される作品もありますから、ここに挙げた数値はあくまで平均値です。
 その5秒間で「作者の表現しようとしているものはなにか?」「表現手段が適切だろうか?」「技術的レベルは?」「表現技法の巧拙は?」「表現意図に賛成できる。あるいは納得できない!」といった事柄を瞬時に判断するわけです。
 それでも、展覧会ですから、義理でお見えになる人もいるでしょうし、写真愛好者の自慢の作品に触れて自分の作画に啓発されることを期待して見えられる方もいるでしょう。ですから一点の作品に「5秒」という長時間?を費やしてくれるのです。
 これがコンテストの場合、500から1000点の作品が集まるとしたら、審査に1時間~1時間半くらいの時間をかけて行うのが普通です。仮に500点を審査するとして、講評や、表彰時間を省くと作品の評価時間(審査時間)は20分くらいだろうと思います。逆算すると2.4秒で一枚の作品の良否を判断する計算になります。いずれにしても、作品を鑑賞する、あるいは評価することに意外と時間をかけていないことに気づかれるでしょう。
 表題に掲げました【写真は3秒間が勝負】は私の持論ですが、仲間たちには必要以上にその持論を押し付けています。なぜなら、展覧会にしろ、コンテストにせよ、瞬間的ひらめきで鑑賞者や審査員の心をつなぎ止めなければなりません。ですから技術的に多少うまくても、類似作品が多いようなものは無視されてしまうことが多いのです。それよりも、技術的に多少欠点があっても、感覚的に新鮮な作品が望まれるのです。
 写真を趣味とする人たちは職人集団ではないのですから、技術比べでは意味がない。大事なことは多くの作品の中で存在感のある作品を作り出すことです。
 「存在感のある作品」とはどういうものか。それは、オリジナリティーに富んでいることが条件です。SMAPというグループが歌った「世界に一つだけの花」という歌の歌詞に「ナンバーワンよりオンリーワンをめざそう…」とありますが、今回のドリーム展ではA3ノビサイズ以下という制約の中で、桑田喜久子さんの作品が、そのオリジナリティーを評価されたことは嬉しい。たった3秒間で存在感を主張するようなオリジナリティーに富んだ作品を生み出すことを心がけましょう。
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by yumehaitatu | 2008-06-07 23:02 | やぶにらみ | Comments(0)

堀田義夫の「やぶにらみ論法」49   

 男と女
 この季節になると写真展は花盛り、4月は既に14の展覧会を見て歩きました。勉強になるものもあれば、時間と経費の無駄遣いだったと後悔するようなものもありました。そうした中で気がついたのですが、私の琴線に響いた作品の多くが女の人の作品だったことです。
 養老孟司さんは「養老訓」という本の中で、『講演会にやってくる高齢者の場合、女性はよく笑うが男性は笑わない人が多い。このことは、男は仕事を辞めるとやることがなくなる。現職時代は平坦な同じ硬さの道を歩いてきたからだ。ところが女の人の仕事、家事は死ぬまでついてきます。自然と身体や頭を使う。だから女の人はデコボコの硬さの違う道を歩んできたので、状況によって変革する力を持っている。』この違いだと説いています。
 また、ある人は、『男は過去を引きずって生きるが、女は未来を見つめて生きる。』といっていましたが、このことは、女は感覚的に男は概念的に物事を考えるということだろうと思うのです。
 感覚的思考というと、なんだかインスピレーションで考えるとか、直感的、思いつき、場当たり的といった軽い考え方のようですが、そうではなく表現者にとって、この感覚的ということが非常に大切だと私は思うのです。
 一方、概念的思考は人間が頭の中でこしらえたものをベースとした考え方です。つまり理屈が優先するのです。だから、作品に面白さが欠け説明的なものになりがちです。そのために写真的な技術力に優れてはいても表現力では劣ってしまうのでしょう。詩人の富岡多恵子氏によると、女の表現者は「アンドロジナス(両性具有)」である。
 すなわち女でありながら、男の眼を持ち、本来の女の目と両方の目で見ることが出来る。このことは男よりも表現者としては大変有利である。優れた女の表現者は、多かれ少なかれアンドロジナスであると論じ、ダイアン・アーバス(アメリカの女流写真家)論の中で女性表現者の優位性を説いています。
 いろいろのコンテストにしても、公募展でも入賞者の割合は「おとこ」のそれに比べれば「おんな」の入賞者の比率は非常に高いということを経験しています。
 写真なんてものは、うまくなる人は2~3年ですぐうまくなります。上手になる人は教わったことを素直によく聞き、理解して、いろいろ工夫しながら努力するからでしょう。PC分科会応用編でも、感覚的思考を優先させる女性の方が、概念的思考の理屈っぽい男性より面白い作品を作っているように思います。
 世の男どもは技術力を誇示した作品、理屈っぽい作品より、渡部義範さんや谷口勝太郎さんのように感覚的な思考を学習した作品作りをしないと、女性上位のこの傾向に歯止めはかからないと思うのですが、どうだろう。
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by yumehaitatu | 2008-05-03 23:01 | やぶにらみ | Comments(0)

堀田義夫の「やぶにらみ論法」(48)   

堀田義夫の「やぶにらみ論法」(48)
「常に一位を狙うことが上達への」
 最近の話題では、名古屋女子マラソンがありました。北京オリンピックに出場する選手選考を兼ねているということでいやが上にも盛り上がりを見せたのではないかと思います。ところが今回、北京オリンピック行きの切符はたった一枚、マスコミの報道では多くの人の関心と期待が高橋尚子選手に集まっているように報じていました。
 私は、Qちゃんこと、高橋尚子選手が優勝することはないだろうと秘かに思っていました。理由はありません。ただ、恩師小出監督の元から「自分流のトレーニングチームを作り、自分を育てていく」と宣言したときから直感的にそう思っただけです。 競技終了後のテレビのインタビューに「マラソンは孤独で過酷な競技です。だが、ひとりでは戦えません」と言葉少なく答えた小出監督の心の内が私には解るような気がしました。写真の世界でも、少し注目を浴びるようになると「自分流」「自立型」で消えていく人が多いからです。
 女子マラソンランナーといえば思い出すのが有森裕子さん。オリンピックで3位、銅メタルを獲得した人ですが、「入賞できたのは1等を狙って頑張ったからです。3等でもいいやと思って走ったら等外になったと思います」とインタビューで語っていましたが、これはまさに含蓄のある言葉だと思いますし、以来常に「一位を狙え」「存在感のある作品であれ」というのが私の信条になりました。だから周辺の人たちにも写真展やコンテストに応募するなら「一位を狙え!」と叱咤激励します。
 親しくしている写真仲間から、ある公募展に出品したいので作品を見てくれないかという相談を受けました。作品はさすがに公募展に出品しようと思うくらいですから大変優れたものでした。
拝見した作品に私の経験から気がついたことをいくつか指摘させて頂き、それがクリアーできればさらによくなるとアドヴァイスしておきました。
 数日後、「これならどうだ!」といわんばかりの再プリントを見せていただいた。正直、作品をよくするために努力したその執念には敬服しました。有森選手の言葉ではありませんが、写真展やコンテストに応募する場合も同じで、常に一等を狙って努力しなければ、佳作や入選すらおぼつきません。この仲間にそうした姿勢を読み取り嬉しく思いました。
 ですが、ここで誤解してはいけません。一位を狙うあまり、審査員や主催者の意に媚びるような作品を作ろうとしてはなりません。審査員の見識にもピン・キリです。またプロのように生活がかかっていて、いつもクライアントの顔色を見ながら仕事をしているわけではありません。 アマチュアですから、気に入った対象だけを選んで、自分の思うまま自由にシャッターがきれる。撮影は誰からも指図されないのです。王侯貴族のような気分で、自分の納得した作品を作ろうではありませんか。
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<冬の木立>

by yumehaitatu | 2008-04-06 17:52 | やぶにらみ | Comments(0)

堀田義夫の「やぶにらみ論法」(47)~器用と不器用~   

 毎月、研究会で会員が発表される作品は刺激に富んだもので楽しみです。また、何よりありがたいのは、役員の人達のお骨折りで開設されている当研究会のブログです。後日ブログを開けばそのときの感動を再確認できるからです。
 そうした作品を見ていますと、「器用にまとめたソツのない作品」と「不器用だが魅力的な作品」があることに気づきます。
 「デジタルフォト研究会」だから、なんとしてもデジタル処理をしたものでなければならないと思うのでしょうか、器用にデジタル処理をした作品に人気があるようです。
 私はそうは思っていないのです。デジタル処理をすることは作者の「作意・想い」といったことを強く打ち出すための手段でしかなくて、作品の価値とはあまり関係ないと思うからです。
 だから器用にデジタル処理をした作品よりも、デジタル処理は不器用でも中身の濃い作品に目がとまります。
 関西落語の大御所に桂文珍という師匠がいます。若い頃、落語にシンセサイザーやレザー光線などを取り入れた舞台は革新的で印象に残っています。ですから当時は時代の寵児としてマスコミなどに登場する機会も多く、テレビやラジオは週に17本ものレギュラー番組を抱えていたそうです。
 そんなとき、松竹喜劇の大看板、藤山寛美さんと対談したことがあったそうです。話題がテレビの話しに及んだとき、藤山寛美さんの口から意外な言葉が出たそうです。
 「あんさん怖いことやりまんなー そんなモン いずれ終わりますねん。そんなことに浮ついておらんで、自分の道をしっかり見ておかんとあかんでー」といわれたことが胸に突き刺さったそうです。
 さらに「器用な芸は飽きられる。不器用なやつほど、努力するから芸に厚みが増すモンや!」と諭されたそうです。以来、「わしは落語家だ、落語しか生きられん男や」と悟って不器用に生きることを決意したといいます。
 私が育てられたのは「瓢蟲社」という写真クラブですが、瓢蟲社の四天王として認められるようになっても、いつも、そのビリッカス。
 先生からみれば不器用なやつ!と見ておられたに違いありません。そうしたことを仲間に告げたら、ある男が「君は器用じゃない、だから人が10回やるなら、20回やれば人並みになる。30回やれば人並み以上になれる」といってくれました。それからはできるだけその忠告を実践するようにしています。
 不器用だから、いろいろと悔やんだり落ち込んだり、失敗したりしたことが全て自分を塗り込めています。これからはその塗り込められている模様を、“漆塗りの職人”が行う研ぎの工程と同じように研ぎ出す努力をしようとしています。研ぎ出すことによって、身に付いたいろいろの模様がきれいに浮き出してくれることを期待しながら……
                 <光のステージ>
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by yumehaitatu | 2008-02-29 22:20 | やぶにらみ | Comments(0)

堀田義夫のやぶにらみ論法 ~カビ生えた概念から脱却~   

~カビ生えた概念から脱却~
 仲間たちが昨年末「堀田義夫のいま」展を開いてくれた。「なにもいまさら……」と思ってはいたが、やってみればいろいろ勉強になった。その中からいくつか私の考えと違う意見を紹介してみよう。
 その① 「写真としては作りすぎじゃないの?」
 ある洋画家が言ったことだが、私は「絵空事」という言葉をこの人は知っているのだろうかと思った。絵画は画家の作意が加えられ、実物そのものの説明として描かれるのではない。
 写生とかスケッチをタブロー(フランス語で習作ではない完成作品をさす)とは言わない。写真に作意が加わることを否定するようではアーチストとして失格と断じたい。
 その② 「これって写真なの?」 といった反応も多かった。
それは「写真」という字句から真実を写すから写真。嘘がないから写真。といった概念が邪魔するのだろう。それは写真の特性の一つかも知れないが、欧米ではフォトグラム(光りで描く)と呼ぶ。私は光で描くことを主体に作品を作ったから仮に写真に分類しているだけだ。
 絵画でも板きれや新聞紙を貼り付けた作品や布を貼り付けたもの、音楽でも尺八とオーケストラのコラボレーション(共同・協力)といったように、異分野とのコラボレーションで新しい表現を試みることなどが現代の傾向である。文明の豊かな恩恵を受けて、新しい表現を開拓して行く姿勢こそ問われるのではなかろうか。
 その③ 「ずいぶん時間がかかるのでしょうね、私なんかにはとてもやっていられない世界」といった声もあった。
写真はシャッターを押して、ラボに画像処理を委ねて、そこからなんとか見られる写真を選んで、「ハイ!それまでよ!」といったことで満足感を味わっている人にとっては、確かに「時間」というのは大問題なのだろう。
アンセル・アダムスという写真家は「ネガは楽譜であり、プリントは演奏である。それらを巧みに演奏することは作者の感性だ。写真家が他のアーチストと同じように作品に時間を惜しまず制作に没頭すれば、もっと面白く可能性のある仕事ができるはず」と述べている。 
 また過日、横濱そごう美術館で切り絵作家・藤城清治「光りと影の世界展」を見た。現在83才という高齢にもかかわらず、ある作品の立木の葉っぱだけを6万枚切り抜き、2年の歳月を要したということを知った。
 別に時間をかけたから良いとはいわないが、自分の想いを作品に封じ込めようと思えばある程度の時間がかかるのはやむを得ない。その時間が惜しい、嫌だという人は、言い替えると自分の作品を自分で作ろうとせず、他人の力で自分の想いに比較的近い作品を選んでいるだけなのである。
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by yumehaitatu | 2008-02-02 23:29 | やぶにらみ | Comments(0)