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やぶにらみ論63 アイディア欠乏症 堀田義夫   

写真仲間が私の作品を見て「俺も同じように写しているのだが、こんなイメージは思いつかない。アイディアで負けちゃうんだなぁ」という。また、「どうしてこんなアイディアが湧くのか不思議だ」ともいいます。
 だが、「アイディア」というと高尚な考えに裏付けられているように聞こえますが、日本語で言えば、たんなる「思いつき」のことです。「思いつく」ことなんて誰でもできます。だからアイディアが湧かないとか出ないというのは、アイディアを出す努力を怠っているだけなのです。
 ただ、「思いつき」は大事なのですが、その思いつきが理屈通りで当たり前ではつまらないものとして受け取られてしまいます。できることなら、人が思いつかないことを思いつくことです。マニュアル通りに考えていては、新しい創造性に巡り会える機会は乏しいのです。
 三浦半島の突端に「盗人狩り」と呼ばれる岩礁地帯があり、釣り人やカメラマンがよく訪れます。私も先日数人の仲間と撮影をともにしました。順光の岩場は質感表現には向きません。そこで私はこれを木版画のように仕上げたいと思いました。
 思いつきは理屈じゃないのです。トライ&トライです。漠然としてでもいいから「何をしたいか?」を考えて、いろいろトライしてみるのです。
試行錯誤をする中で、生み出される偶然との出会いに期待するのです。そうした思いつきの繰り返しがアイディア欠乏症の患者には一番の良薬のように思うのですが如何でしょう。
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第1トライ:背景コピー → フィルターのカットアウトを選び、木版画調にする。
第2トライ:背景コピー → フィルターの浅浮き彫りを追加して、画面に立体感を与える。
第3トライ:背景コピー → フィルターの輪郭のトレースで画像のエッジを立てる
第4トライ:背景コピー → 画質調整の色相・彩度で彩度を強調する。
第5トライ:背景コピー → 画質調整のレベル補正で特定の色を補正する。
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by yumehaitatu | 2011-01-09 09:57 | やぶにらみ | Comments(3)

やぶにらみ論法62 展覧会ア・ラ・カルト 堀田義夫   

 恒例の「夢の配達人展」も盛況のうちに終わった。会期中にNHKフォト575審査員の板見浩史氏が「誰にでも楽しめるフォト575入門」という講演のため見えられたので会場で立ち話をした。
 板見氏は私に「夢の配達人というネーミングは、本展が何を鑑賞者に伝えようとしているかが明確であり、出品者がそのことをよく理解して作画を楽しんでいるのが素晴らしい。また、近頃は写真の展覧会は多いのですが、中味の薄い、技術比べのような展覧会が多いと思っていたのですが、東京からこんな近いところでアバンギャルド(革新的芸術運動・前衛芸術)な活動が展開されていることに驚いた。来年も是非見させてほしい。」と感想を述べていました。
ところで、板見氏のいわれるとおり、写真展は本当に多い。私のところなどにも有名無名の方々や、グループからダイレクトメールが送られてくる。そうした展覧会について考えてみると、いくつかのパターンがあることに気づく。
その一つは、カリスマ的レッスンプロといわれる先生が指導するグループ、あるいはカルチャー教室的雰囲気を持った写真クラブの展覧会を見て感じることは、作者の作意というより指導者の好みに合わせた写真が並んでいる。ピント合わせ、露出補正、構図のまとめ方といったような写真技術の習得も写真を趣味にするには必要だから、それも「あり」としよう。しかし、そうした展覧会は技術習得に重点が置かれて、作品の内容が希薄で表現形態が画一的で退屈だ。
 二つ目は、○○写真連盟、○○写真協会、○○公募展、といった部類の展覧会である。こうした展覧会は出品者の射幸心を煽るように入賞順位がつけられる。出品者もそうした機会を利用して自分の力量をある権威?から認められたら……といった気持ちも手伝い、競合者に勝つために選者を意識し、作品づくりのコンセプトを検討して努力する。
そのために楽しいこともあるだろうが、半面クライアントの気を引く後ろめたさも付きまとう。しかし、一番目に挙げた展覧会よりはましだ。
 それらの展覧会と比べた時、「夢の配達人展」は確かに板見氏の指摘の通りアバンギャルドなのである。会場で「こんな写真見たことない」「これが写真なの?」「これじゃ写真じゃなくて絵だね」なんてことも耳にした。
大成功じゃありませんか。
 私は「写真」という読みが非常に気になるのです。カメラで撮れば「真を写す」というので写真と言いたいのだろうけれど、それは間違いだ。カメラという表現媒体を使って私たちは「画像」を創り出しているのです。写真でもない、絵画でも、版画でも切り絵でもない。そうした範疇に縛られない、もっと自由な表現形式を手に入れたいと思って活動しているのです。
 趣味・道楽は人のためにやっているのではありません。まず自分が納得し、楽しみ面白がらなければ、人を楽しませることなんかできっこない。そうした想いが「夢の配達人展」の出品作品一点一点に横溢していることが板見氏を驚かせたのかもしれないと私は思っています。
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by yumehaitatu | 2010-11-06 23:58 | やぶにらみ | Comments(1)

やぶにらみ論法61 写真を10倍楽しむ 堀田義夫   

 ピアノを楽しもうとする人は、まずピアノが弾けないと何も始まらない。また、絵を描く人も、スケッチやデッサンを勉強する。そうしたことを先生について学ぶとしても、すべては自分の手で技術を身につけることから始まるのです。

 ところが写真はというと、よい被写体に巡りあい、シャッターを切ったら、「ハイ!それまでーョー」だ。言い替えれば、作品をつくるということをラボに任せっぱなしだった。写真のいちばん楽しさのある部分を、お金を払って人任せにしていたのです。

 かつて写真を趣味とした人は、シャッターを押して、現像や焼き付け、引き伸ばしといった暗室作業は自分がやっていた。たとえば、現像液には色々の処方があって、ネガを軟調に、あるいはコントラストを強くするために、薬品の調合を工夫したりしていた。暗室で現像液に浸した印画紙に画像が現れ始めたときは、言葉にならないくらい感動的なものだった。

 現像温度にしても20℃±1℃という基準値はあるが、視覚効果や自分のイメージに仕上げるために、意図的に現像温度を変更して、粗粒子現像やハードコントラスト、縮緬じわ、といった技法を駆使したりしていた。だから作品には、人それぞれの個性が滲み出ていたと思う。
ところが、ラボにそのカテゴリーが奪われ、均質化した写真しか目にしないようになると、写真なんてものはちっとも魅力がなくなり、多くのクリエーターたちから見放され、侮蔑の目で見られるようになる。

 そうした流れの中から、デジタルフォトの台頭を見たことにわたしは大きな期待を持ったのです。
 デジタルフォトは飛躍的にその表現領域を広げてくれました。こんな便利なメディアを使わない手はないと、デジタルフォトに関心を持ち1992年頃から手を染めたのです。新しいメディア(表現媒体)を使って作品を生み出す作業には、多少の困難がつきまとい努力も要求される。

 しかし、ピアノを楽しみたい人はピアノを弾けなければならないように、デジタルフォトを楽しむためには、デジタルの画像処理の基本をマスターすることが必要だ。だが、ルールに従って「基本」をマスターすれば、デジタルフォトは簡単に楽しめることを知った。
そしてデジタルフォトの普及・啓蒙に努めるため、当研究会を立ち上げたのです。

 ところで、あなたは、いままで、写した写真と出来上がった写真があまりにも違うと思ったり、あぁ~自分は、写真が下手なんだなぁ~と思ったりしたことはありませんか?
 わたしは、それは思い違いだと思うのです。原因は、人任せだったからです。すなわち写す人とその想いを込めるプリント作業をする人が別々だったからです。
 写真は「よく写っている!」それだけでは意味はありません。いまは、露出もピントもカメラがやってくれます。道具に頼って五感を退化させてしまってはいないだろうか。
 アナログ時代よりも表現領域が拡大されたデジタルフォトになじみ、そのテクニックを学び、自分の想いを込めた作品作りのためのプリントを手がけることで、表現という楽しさを知り、写真の面白さが実感できて、いままでより写真を10倍も20倍も楽しむことが出来ると私は思うのです。
 そのお手伝いを当研究会の基礎講座や応用講座が応援しています。
   <北の大地>
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by yumehaitatu | 2010-09-05 00:26 | やぶにらみ | Comments(0)

やぶにらみ論法60 堀田義夫   

 「定年までの人、定年からの人」
 「歳を重ねるだけで人は老いない。理想を失うとき、人ははじめて老いる」と言ったのはサミエル・ウルマンだ。
 ところが、自分の生き様を反省するとき、「固有名詞」はすぐ出てこない、やっと「覚えたことも聞いたことも」すぐ忘れる。そんなとき「俺も惚けたなー」と思う。そうした悩みを抱えていたが、どうせ年をとるなら、「堂々たる老人になろう」と開き直ることにした。
 忘れることを怖れるより、どんどん新しいことに挑戦することの方が大切だ。そうした気持ちの持ち方で「定年までの人と定年からの人」では違いがでるのではないかと考えたからだ。
忘れるということは、自分にとって関心のないことまで覚えようとするから忘れるのだ。なんにでも関心を持てば、脳がパンクしてしまう。
 良寛さんが家にいると、近所の子どもたちが寄ってきて「良寛さん」と呼びかけると、その都度「ハァーイ」と返事をしたそうだ。このことは、頭の中でいろいろ考えることがあっても、与えられた刺激には素直に反応する。言い替えるといつも頭の中の風通しを良くしておくというエピソードである。
 いま応用講座で画像処理や作品の制作について仲間たちとともに学んでいる。そうした中に意欲的でなんでも習得したいという熱心な人もいる。
しかし、もう若くはないし脳の容量にも限界がある。講師の方の話しに素直に反応できるように、頭の中の風通しを良くすることだと思った。
また、画像処理を考えるとき『やりたいこと』から攻める。必死で機能を覚え、覚えた技法で作画しても作品にはならない。
 『やりたいこと』すなわち目的を決めることで、その目的にたどり着くために、コンピュータの操作や画像処理の技法を身につけることが技術習得の近道と考えた。
 ただし大切な注意点がある。それは一人で黙々と やっているだけでは、ただの自己満足に終わり脳への刺激にはならない。その点では応用講座は仲間 からの刺激が多いことがありがたい。
 また、脳への刺激を考えるなら「展覧会に出品する」「個展を開く」「画集を作る」「コンテストに応募する」「人に教える」などといったことは非常に有効な手段である。
 なにをやるにせよ、やったことを発表できる場や、人から評価される機会、人に見られていることを意識できる状況を作り出す。そのような状態の中でつねに脳の活性化を図り、そのための工夫をしている。
 いま、わたしは定年までの人で終わらず、定年からの人生を実り豊かなものにすることに成功したと思っている。このことは、写真を趣味とし、良い仲間たちに恵まれたからだと感謝している。

       「欣求の回路」
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by yumehaitatu | 2010-07-04 21:28 | やぶにらみ | Comments(1)

やぶにらみ論法59 異端の徒 堀田義夫   

 昨年ハマ展が、横浜開港から150年という節目を迎えて、会期中に「トークショー」を行うということになった。ハマ展に対して積極的に協力してきた実績はない。それなのにどうしたことか写真部を代表して講演者として選ばれてしまった。 
 そうした私のことを周囲は異端の徒というが、自分では決してそうは思っていない。健全な常識人であり、協調性もあるし仲間も多い。「鬼の堀田」という人もいるが実は「仏の堀田」が正しい。
 その私を、仲間たちは「異端の徒」というのが解らない。そこで本稿では、私の写真に対する考えを披露して、「異端者」という汚名を払拭したい。
1番目は、【写真を生業としない】
 写真で飯を食うためには、クライアントやアシスタントディレクターの声が、聞こえてきそうな写真だって撮らなくてはならない。
よくよく考えれば、わたしは写真が好きなんじゃなくて、カメラというメディアの持つ工学的・物理的な作用を借りて、自分の心の郷愁を写すことができることに魅力を感じているのだ。           
2番目は、【枠に縛られない】
 「マニュアルの通りに生きて落ちこぼれ」という川柳があったが、マニュアル通りにやれば、いい作品が生まれるかといえば、そうとは思っていない。
 俳人の金子兜太氏の作品を読むと「どうやったらこんな俳句が作れるんだろう? と思ってしまう。そう思う反面、まねをしようとは思わない。というか絶対まねはできないと思う。
 それは言葉の出所が違うからだ。ふつう先生や先輩から「こんな風に書いては、ダメ!」と教えられるようなことを全部やっている。
しかも、それで名句を作ってしまう。マニュアルから外れても、人びとから共感を得られるような作品が生まれればよいのだ。
3番目は、【自分を楽しませる】
 そのためには、「人から褒められたい」という気持ちを捨てることだ。人に褒められようと思うと、見る側の好きに合わせることになる。
そうではなく、自分が楽しめることが第一なんです。自分が楽しいと思わないものを、どうして人が楽しいと感じてくれるだろうか、まず自分が面白いと思うような仕事をすることが大切だ。
 エッセイストの落合恵子さんも、【世の中は異端の徒でないと時代を切り開いて行くことはできない。時代を変えられるのは異端の徒である。異端の徒の精神を支えるのは「夢」であり、その「志」である】といっている。
そうか!俺は「異端の徒」と呼ばれたら、表現者への賛辞だと思えばよいのか。そう気づいたら急に汚名返上などと言い訳している自分が滑稽に思えた。
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by yumehaitatu | 2010-05-02 18:37 | やぶにらみ | Comments(0)

やぶにらみ論法58 「面白くなければ趣味じゃない」堀田義夫   

 谷川真理さんという1991年東京国際女子マラソンで優勝した選手が、「マラソンの場合、まぐれで記録を出せるモノではありません。練習の質と量に応じて記録が伸びていくものです。」と語っています。
 ここが写真とは違うところだと思いました。
 写真の場合、あるコンテストで入賞したとか公募展で受賞したということを自慢している人に出会います。アマチュアの場合、公募展やコンテストに入賞することで、権威ある機関が実力を認定したと勘違いするのではないでしょうか。前出の谷川さんの話に「マラソンの場合、まぐれで記録を出せるものではありません。」といっていましたが、コンテストにしても公募展にしても「まぐれ」が多いのです。
主催企業や団体の枠内で取り決められた常識で、そこでの優劣の基準はそこでの常識と、たまたま一致したという「まぐれ」なのです。絶対的な価値観や実力評価とは無関係です。
 もう一つの思い違いは、実力や実績もないのに、「○○写真協会」などというところに加盟したり、「○○美術協会会員・会友」といった名刺の肩書きを欲しがり、いっぱしの作家を気取りたいといった
人たちがいます。それらの肩書きはその団体にしか通用しないことを知るべきです。
 スポーツの世界のように記録がはっきりしているのとは違って、かなり曖昧な価値観で左右されるアマチュア写真界では、そんなことより自分自身の力量と価値観をしっかり持つことを勧めたい
 趣味や道楽というものは、先生や仲間の趣味に合わせるんじゃないんです。自分が面白いと思うことが一番大切です。何事もやるからには上達したいと思うので人よりちょっとばかり努力する。
だが、その努力が苦痛であっては長くは続かないものです。  
漫画家の赤塚不二夫さん(天才バカボン)は、晩年記者から「修業時代は苦しかったでしょう?」という質問に対して「ボクは人のやらないことをやってきたから、ちっとも苦しいと感じたことはなかった。
自分が面白い!そう思ったことは人がやらなかったことをやっていたからです。自分が面白いと思わなければ、人だって面白いとは感じてくれませんよ」と語っていたが、全くその通りです。
 写真を趣味として60年になる。アマチュアとして私にはクライアント(顧客・得意先・広告主)がいる訳じゃない。またアートディレクター(美術監督)がついているわけではない。だからいつも自分が面白いと思ったことを続けてきました。その結果、周囲からは「おまえの写真は邪道だとか写真じゃない!と誹謗中傷されてきましたが、でもそのことを後悔してはいません。それより、これからはもっと面白がろうと思っています。
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by yumehaitatu | 2010-03-14 00:39 | やぶにらみ | Comments(0)

やぶにらみ論法57 「 おとこと、おんな」 堀田義夫   

  過日「女性たちの写真展」という展覧会を見ました。そのときこの世の中は「おとことおんな」しかいない、それなのに殊更「おんな」だからと謳うところが謙虚にも受け取れ、また、傲慢にも感じられ、「おんな」であることを異常に意識しているところが狡くもあり、賢くもあるように思えました。なぜなら、「男性たちの写真展」なんて聞いたこともないでしょう。でもわたしはこの「女性たち……」という響きにはかなり深い意味を感じているのです。
 話はちょっと逸れますが、2004年のアテネのオリンピックに、日本からは女性の選手は128人が参加。男性選手は102名でした。そしてメダルの獲得数は女性が13個。男性は5個でした。女性は入賞率10%。男性は5%。明らかに女性の方が成績はよかったのです。
 今年、ハマ展の写真部に応募して入選した120名の作家の割合は、男90名。女は30名でした。そのうちで入賞者は、男9名。女は6名。入選割合からすれば、男は女に対して3倍の入賞者を数えて当然なのに、結果は明らかに女性優位だったのです。
 唐突に、オリンピックやハマ展といった例を引き合いに出しましたが、わたしは日頃から写真であるとか、絵画といった感性を伴う世界は女性の性行に適しているように思うのです。その結果が前述の女性優位という結果を示しているのではないでしょうか。
 写真の場合、男性は知覚的・概念的・技術力に依存し、理論武装をした作品を好んでつくるように思います。言い方を変えますと、カメラの機能を使いこなすことに腐心して、バランスとか構図にとらわれすぎ、かえって物事の本質が見えなくなってしまっていることが多いように思うのです。
 その結果、ときを重ね、経験を積むに従って見せ方上手で巧いだけの写真家になっていくような気がするのです。
 そこへ行くと、女性の場合はろくにカメラもつかえないで、「どう撮ったらいいの!」と叫んでいながら、結構素晴らしい作品を発表します。カメラの使い方も解らないまま、写真を撮っていることで、逆に自由に撮れて感覚的な作品が写せるのではないでしょうか。また、女性は好き嫌いがはっきりしているから、自分が面白いと思ったことに素直に反応するからでしょう。
 当研究会でも、女性優位の傾向に皆さんはお気づきでしょうか。大木伊都子さん、桑田喜久子さん、本山栄子さん、林美江子さんその他、多くの女性作家の仕事に魅力を感じていませんか?
 わたしは、「面白くなけりゃアートじゃない!」と思っています。感心するような巧いだけの作品をつくってナンバーワンを狙うより、女性のように、自由で気ままな発想で作画を楽しみオンリーワンを目指す方がよっぽど楽しいと思うのですがどうでしょう。
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1年前、休稿となりました堀田先生の「やぶにらみ論法」、今号より渡辺先生の「写真雑学」と隔月で掲載させていただくこととなりました。 ご愛読をよろしくお願いいたします。          編集委員一同

by yumehaitatu | 2010-01-10 13:02 | やぶにらみ | Comments(0)

やぶにらみ 休稿   

皆様にご愛読いただいていました「堀田義夫のやぶにらみ論法」当分の間、休稿します。

by yumehaitatu | 2009-01-09 22:11 | やぶにらみ | Comments(0)

【後ろ姿】 堀田義夫   

 会員の夏目克幸さんの訃報に接したのは、11月21日に行われた“秋の高尾山、青梅”の撮影会から帰宅した直後であった。
 二日前の19日に見舞いの便りを送ったばかり、そして撮影会後にハマ展の表彰式に出席の予定をキャンセルして帰宅した直後にこの訃報に接したので、偶然とはいえ、なにか虫の知らせとでもいったことがあったとしか思えない。
 夏目先生とは、中学校の校長を終え、コミニユティーセンターで指導主事としていた頃からのお付き合いだから15年くらいになる。「ヌーボーとした男」というのが私の第一印象だった。
 「ヌーヴォー」というのはフランス語で「新しい」という意味をもつが、我が国では「ヌーとして、ボーとした掴みどころのない男」ということで使われる。だが私が「ヌーボーとした男」と感じたのはその意味とはちょっと違う。「細かいことにこだわらない人柄は、つまらない論議には加わらない、それでいて何か発言をされると、全く新しい次元で我々とは違った考え方を披瀝してくれた」からである。
 いま先生の後ろすがたを思い返すと私に多くの教訓を残してくれた。その多くは長い教職者の経験を通した人生訓だ。
 たとえば「教師として完全と思われる人は案外ダメなんですよ。それは自分は完全だからと思って、指導者ではなく、支配者になってしまうんですね。自分は教師としてダメなんじゃないか、未完成な人間だと思っている人は、未完成な人間の立場が理解できるので、共に育つ(教育とは違う共育)が出来ると思うんです」と語っていた。
 また「趣味だとか道楽の指導者は、知識を教えることではなく、その人の感性と情熱を育てることではないでしょうか」とも。そして理想的には「よいところは大きく育て、悪いところは徐々に小さくするということができたらね」とも話しておられた。
 いま、こうして夏目先生の後ろすがたを回想していると、書家であり、詩人・染織作家・宗教者でもあった相田みつをさんの「後ろすがた」という作品が脳裏をよぎった。
【後ろすがた】
 じぶんのうしろすがたはみえねーんだなあ
 じぶんには
 夏目先生もきっと自分の後ろ姿は見えなかっただろう。だけどいま私には、確かに夏目先生の大きな後ろ姿が見えている。本稿が個人的な回想に終始したことはお詫びする。しかし夏目先生の遺訓はオピニオンリーダーには有益であると信じたから、あえて取り上げた。これからは自分の後ろすがたを今まで以上に意識しながら生きようと思いました。
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by yumehaitatu | 2008-12-07 09:33 | やぶにらみ | Comments(0)

堀田義夫の「やぶにらみ論法」55   

推敲の勧め
 私のもう一つの趣味は絵を描くことですが、その先生が、「写生とかスケッチが自分の背の高さ位の量や経験を踏まないと満足な絵は描けない」と常に修練を積むことを勧めます。
 それでいて、「絵はいくらスケッチがうまくても、写生が上手でも、それを作品とはいわない。写生やスケッチは作品を生むための手段であって作品とは別だ」と矛盾したようなことをおっしゃる。
 友人に俳句をたしなむ人がいて、一句が作品として完成するまでにはいろいろな手順があるという。たとえば吟行に出かけたとき、いきなり完成した作品が生まれるということはなかなか難しい。譬えできたとしても、後になって納得がいかなくなることがよくある。だから一句を作りっぱなしにしないで、必ず見直すことがとても大切なのだと語っていました。
 この両者のご意見を整理すると、技術力習得のための努力は大切だが、それだけでは納得した作品にはなりにくいということでしょう。
 写真の場合は特にそうです。「よい被写体や条件に恵まれ感激してシャッターを切って、後はラボに任せ、出来上がったプリントを選んで、ハイ!それまぁでよ~」といった傾向が横行しています。そこで、絵でも俳句でも後でいろいろ考えを練り上げるように、写真も自分の表現しようと思って考えていることをもっと大切にしてみてはどうだろうか。
 私は自分の作品を見直し検討したり練り上げることを気障ったらしく「推敲」すると人に話すことがあります。「推敲」というのは主に文学の分野で使われますが、その考えは写真にも当てはまることだと思います。
 それでは自分の作品を「推敲」するとき、どのようなことに留意するかといいますと、おおよそ次のようなことです。
① 既に評価の定まっている作品のなぞりで満足していないか。
② 事物の説明をしようとしてトリミングに甘さがないか。(ルポ的な写真なら別だが…)
③ 旧来の経験的な見方、考え方から脱して、新しさに挑む姿勢が見えるか。 
④ 新しいメカニズムが生み出した新しい表現領域の獲得に応えられたか。
⑤ 技術力・技能力に溺れていないか(アーチストではあってもアルチザンではないんだから…)
⑥ 作家としてのオリジナリティが打ち出せたか。
想いが込められたか。
 今年の「夢の配達人展」の私の作品を見た人が、「ずいぶん時間がかかったでしょう?」と呆れ顔で質問した人がいた。たしかにそうした意味では「推敲」を重ねることは時間はかかるかも知れない。撮影してから10数年たったものもあるんだから…、 しかし、時間が問題なのではない。「推敲」を重ねることによって、よいと思われる作品にする努力が必要なのではないかと思っています。
<温暖化>
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by yumehaitatu | 2008-11-01 23:28 | やぶにらみ | Comments(0)