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堀田義夫のやぶにらみ論法 71 堂々とした老人に!   

堀田義夫の「やぶにらみ論法」(71)   
【堂々とした老人に!】

 「年を重ねるだけで人は老いない。理想を失うとき、人は初めて老いる」といったのは、詩人のサミエル・ウルマン(アメリカの無名の詩人)だ。この詩を座右の銘にしていたのがマッカーサー。それを松下幸之助がインタビューで紹介して一躍有名になった詩です。
 ところが最近の自分を振り返ると、固有名詞はすぐ出てこない。覚えたことも、聞いたこともすぐ忘れる。「俺も惚けたなー」とつくづく思う。だが近頃は、どうせ年をとるなら「堂々とした老人」になろうと開き直ることにした。忘れることを怖れるより、どんどん新しいことに挑戦することの方が大切だと気づいたからです。
 いま応用講座で、画像処理や作品制作について仲間たちと学んでいる。もう若くないし、脳の容量にも限界があるから、思うように理解できない。そこで体得したことが、必死で機能を覚え、覚えた技法で作画しても作品にはならないということだ。まず、「自分が思っていること・やりたいこと」が明確でないと、覚えたことも聞いたこともすぐ忘れてしまう。知識としては教えてもらえるが、知恵は教えてもらえないからです。
 そこで、自分が何をやりたいか?といった目的をはっきりさせて、コンピュータの操作や画像処理のテクニックを身につけるのが有効なことに気づいた。ただ、一人で黙々とやっているだけでは、それは自己満足に終わり、脳への刺激にはならない。その点では応用講座は仲間からの刺激が多いのが有り難い。
 脳への刺激を考えるなら、展覧会に出品する、個展を開く、画集を発行する、コンテストに応募する、人を教える。などといったことが非常に有効な手段になると思う。何をやるにせよ、やったことを発表する場や、人から評価される機会、人に見られていることを意識できる状況を自ら作り出す。そのことによって脳の活性化が図れる。私自身は、そうした仲間たちに囲まれて、堂々とした老人になろうと思うのです。
 「青春とは、人生のある期間をいうのではなく、心の様相をいうのだ。優れた想像力、逞しい意志、燃ゆる情熱……こういう様相を青春というのだ。」とサミエル・ウルマンは詠っている。 
 また、
   人は信念とともに若く  疑惑とともに老いる
人は自信とともに若く  恐怖とともに老いる
希望ある限り若く    失望とともに老い朽ちる
(後略)

 今回はサミエル・ウルマンの詩が、マッカーサー元帥の座右の銘であったと聞くが、これは私たち年寄りにとっても「堂々とした老人」になるための座右の銘であるように思えたので紹介しました。
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by yumehaitatu | 2012-05-05 22:17 | やぶにらみ | Comments(0)

やぶにらみ論法70 堀田義夫   

偶然との出会い
 写真の仲間たちが、君の作品の発想はどうして生まれるんだろう。あたまの中を見てみたい、俺にはそんな発想やイメージは全然湧かない。という声に褒められたのか、あきれて侮蔑されたのか悩む。 そんな仲間に、あるとき、撮影した原画から、作品に仕上げるまでの課程を披露したことがある。試行錯誤を繰り返す私の作業を見ていた仲間が、「なーんだ偶然か!」とがっかりした様子でした。
 確かに、多くの人は、偶然などというあやふやなものは信じないし、それに従わない、というのが普通です。もう40年くらい前の話ですが、仲間にフィルムを1本ずつ渡して、「無作為」に写真を撮ってくるように宿題を出したんです。そして、その中から10枚選んで出品することを申し合わせました。
 仲間の中には、首からカメラをぶら下げて、セルフタイマーをセットして、町をうろつく、その間にカメラが勝手にシャッターを切ってしまう。 あるいは夜の町を歩きながら、ストロボのチャージが完了したら、その瞬間、その位置で自分の姿勢も、カメラの方向や角度も、そのままの状態でシャッター切ったという人もいた。
「無作為」 というのはかんたんに言えば、デタラメに写真を撮ってこい!。あるいは、偶然に写った写真を持ってこい。すなわち、いままでの経験とは違って、写そうと意識しなかった被写体にレンズを向けることを要求したのです。そうした行為の中から新たな出会いを探ろうとしました。
 例会の当日、各自が写した写真を、ごちゃごちゃにして机の上に並べられました。きっと、誰の写真なのか
判らないだろうと思っていたのですが、案に相違して、ほとんどの作品がどの作家のものか判ったのです。
 昔のフィルム1本は36枚撮れたので、10枚提出する作業は作家自身です。その選ぶという行為に作家が持ち合わせている感性の働きかけがあるのです。だから、デタラメに写した、偶然に写った、という写真でも、みごとに個別化されているんです。なぜこんなことを仲間にやらせたかというと、いつも概念的に被写体を選び、それを見せ方上手に見せることを訓練していたってダメ!昨日より今日のほうが、経験を積んだはずなのだから経験的知恵を生かすことが大事だと考えたからです。
 日本近代詩の父といわれる萩原朔太郎は『音楽の演奏者や劇の俳優や職業カメラマンたちは技術者である。彼等は芸術家ではない。なぜなら、彼らは真に「創作」を持っていないじゃないか』というが私も枯渇した脳みそに期待するのではなく、創作のための手段として偶然を必然として捉えたい。「偶然」 は求めていた世界より、もっと大きな世界を教えてくれたり、気がつかない可能性を引き出してくれることがあると思っていたからです。 
 だから、偶然を信じて突き進めば、その先に新しい世界が広がる。偶然がもたらしてくれる未知な世界に遊び、好奇心の赴くままに作画を愉しむ、好奇心旺盛なら、面白いことに出会えると信じているからです。この姿勢が私の創作の根幹なのです。
<パラダイス>
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by yumehaitatu | 2012-03-03 22:18 | やぶにらみ | Comments(0)

やぶにらみ論法69 堀田義夫   

 ある写真クラブに、知り合いのおばあさんを入れてもらった。新人の加入に周りの人が大歓迎して親切にいろいろ面倒を見てくれたそうです。
 ところがおばあさんの足は次第に遠のいていった。ある日、そのおばあさんと顔を合わせたので「最近は教室にも余り行かないそうですね」と尋ねてみた。
 「皆さん大変に親切にして下さいますが、私は理解力も感性もなくて、皆さんにご迷惑ばかりかけるので、申し訳なくて行きにくくなってしまったのよ」という答えだった。
 続けて、「先生はとても親切に教えて下さるのに、それに応えられなくて精神的に参ってしまうのよ」という気持ちも聞かせてくれた。
 この話を聞いて私も多少は初心者の指導をした経験から、大いに考えさせられました。
話の中で「とても親切に…」に、というところに問題がありはしないかと。
 それは教えすぎているからです。本人の能力以上に教えようとすることは、決して本人のためにならないのです。教えすぎは「感じる力」を奪ってしまいます。
 本人が気づく前に答えを教えられても、だいたい聞く耳を持っていないから残らないのです。
すぐれた指導者というものは最初から答えを用意するのではなく、あくまで自分自身に「気づかせる」ように仕向けることです。その結果、本人に足りないものを身につけるための方策を探してやることだと思うのです。
 何でもかんでも教えようとすると、自ら考えようとする意思を奪ってしまいます。まずは本人が思うとおりに
やらせてみることが大切です。たとえまちがったやりかたをしていても、本人が気づく前に教えてしまえば元の木阿弥になってしまうからです。
 撮影会で足利に行ったときのことですが、「何にも写すものがない」「どこを撮ったら良いのか分からない」という声を耳にした。だからといって私は教えようとは思わない。
 私は「ここは作品になるよ!」なんてところはないと思っているからです。だが撮影会は多くの仲間と撮影を愉しみながら、それぞれの作家の感性からいろいろ学ばせてもらえることが嬉しいのです。すなわち「気づき」のヒントを与えてくれるからです。
パブロ・ピカソがモンマルトルの丘を散歩する時間になると、周囲の画廊が一斉に店を閉めてしまうというエピソードが伝わっています。それは、店先に飾ってある若い感性豊かな作家の作品からピカソがヒントを得て作品化してしまうことを恐れたからだというのです。「天才は天才的に剽窃する!」と池田満寿夫さんが喝破していますが、これはピカソに「気づかせない」ための画商の作戦だったのです。
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by yumehaitatu | 2012-01-14 22:06 | やぶにらみ | Comments(0)

やぶにらみ論法68 堀田義夫   

 近頃はフラクタル画像を使った作品を目にする。これは,デジタルならではのテクノロジーが生んだ新しい表現領域の拡大です。だが、こうした高度?なテクニックを習得することは高齢者にとっては容易ではない。そして、「私は頭が悪いから…」ついて行けないと落ち込んでしまわないだろうか?
 わたしも若い頃は一緒に勉強している人に比べると、理解力に劣ったり、技術的に不器用だったので、ひどく惨めな思いを経験した。
 あるとき、尊敬している先輩と、先生のお宅へ伺ったことがあった。ときのことです。
 「○○君は写真の技術も高いし、感性もいい。だから僕は、非常に誇りに思うし期待している」と先生は褒めておられた。私としてはたしかに、その先輩と比較されれば、その通りと納得せざるを得ません。しかしその先輩と比較されて、「堀田君はそうした意味では少し落ちる」と言われたみたいに思えたので、落ち込んでしまった。
 その姿を先生の奥様が気づいたらしく、何気なく話題をそらし「堀田君,良寛さんの詩にこんなのがあるんですけど知っている?」といって、教えてくれたのが次の詩です。
 『この地に兄弟あり 兄弟こころおのおのことなれり 一人は辯にして聡く一人は訥にしてかつ愚かなり、われその愚かなるものを見るに生涯あまりあるがごとし またその聡きものを見るに到るところ亡命して趨る』
 意訳すると,ここに兄弟がいます。一人は雄弁で聡明ですが,もう一人は口べたで賢くありません。でも,愚かな方は余裕たっぷりに人生を楽しんでいます。賢い方はどこへ行っても失敗を重ね、逃げ回ってばかりいます。「到るところ亡命して趨る」ような生き方は、大事なところを一つも見ていないで,命をすり減らしているだけだ。いうのです。
 兄弟の生き様を並べて示しただけの詩ですが、良寛さんは人間にはみんないいところがあるが、愚かな方は、ゆったりと余裕たっぷりに人生を歩んでいると言って、軍配を上げているんですよ。といった話をなされたのです。
その後,寺田寅彦さんの「科学者とあたま」という随筆に巡り会ったとき、「良寛さん」の話とつながっているように思いました。その部分を抜粋して紹介すると、頭のいい人が科学者になるというのが世の常識だけど、科学者は,頭が悪いことも必要だと。場合によっては、頭の悪い人の方がすぐれた仕事をする。というのです。
 『頭のいい人は,いわば足の速い旅人のようなもので、人より先に、人のまだいけないところに行き着くこともできる代わりに、途中の道端、あるいは、チョッとした脇道にある肝心なものを見落とす恐れがある。
頭の悪い人、足ののろい人が、ずっと後から大事な宝物を拾っていく場合がある。といった内容でした。こうして考えると、早く理解して要領よく作画に反映させるより,理解力に遅れがあって気にしないで、のんびり行くことの方がいいのかもしれませんね。
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良寛さんの詩

by yumehaitatu | 2011-11-05 23:59 | やぶにらみ | Comments(0)

堀田義夫のやぶにらみ論67 比べない   

比べない    
 伝統ある公募展を見た。その折に会場で面白い統計を目にした。それは応募者の内訳です。細かい数値は覚えていないが、応募者の分布が60代が500人,70代が600人で全体の41%を占めているのです。それに続いて50代・40代・80代といった順位です。
 年寄りには魅力のある公募展が、なぜ若者に嫌われるのか。このことについて、もう10年くらい前になるが、江成常夫・土田ヒロミ氏らと話したことがある。
 そのとき土田氏は、若い人に門戸を開こうとするなら、従来形式では乗ってこない。年寄りは人と比べっこして、どっちが上かを決めたがる。しかし若い写真家は、撮っている流れ、行動する流れ、考える流れの中で見てもらいたいと思っている。 その中の1点を切り取ってみせられても、それは文脈を外した見方で、写真に写っているものだけを見ることになる。従来の1点豪華主義の比べっこ形式に納得しない、と話していた。
 この時、私の脳裏に相田みつをさんの「百点満点のビリ」という詩が思い出された。

【百点満点のビリ】
 「小学校の運動会 一年生の走りっこは五十メートル スタート係の先生の赤い旗が振られるたびに お父さんやお母さんたちの声が山間の校庭に沸き上がる 「わァ! うちの太郎は一着よ!」「うちの花子は二着だ!」一着だ,二着だ,と順位をつけるのは大人たち つまり,自分では走らない傍観者  走っている当事者 子どもたちは 大人のつける順位などは 全く意識にない ただひたすらに走るだけ 命いっぱいに走るだけ 命いっぱいに走ることが尊いのだ 命いっぱいに走ることではみんな百点満点なのだ  一着二着の順位はあるけれど 一着も百点満点 二着も百点満点そして 百点満点のビリなのだ」

 この詩には「走る」と言うことに対する姿勢が問われ、そこに比べっこなどの介入する余地はない。
 私は異端者と周囲から見られていたが,若い頃は「負けてたまるか!」と思って、なにごとにも頑張った気がする。ところがあるときから、一着も二着も,そしてビリも意識しない「誰とも競争しない、比べっこしない」と思うようになりました。誰かが私の作品を見て,なるほどなと感じてくれればいい。上手いとか,きれいな作品を作る人は大勢いる。器用に生きるばかりが人生じゃない。私の作品を見て,「こんな下手な写真より,俺の方が上手い!」と見る人に優越感を持たせるような写真家が一人くらい居てもいい。最近はその思うようになりました。
 「競争する」ということは比較することです。「誰かと比べて上手・下手」を論じるより,比べることのできない作品を生み出すことの方が私には大きな意義があるのです。だから誰とも比べっこをしないで,これからも自分らしい生き方を貫きたいと思っています。
【青い池】
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by yumehaitatu | 2011-09-04 13:40 | やぶにらみ | Comments(0)

やぶにらみ論法66 堀田義夫   

堀田義夫の「やぶにらみ論法」

知的資産整理の勧め

外山滋比古さんの「人生二毛作」のすすめという本に、中年からの読書で、新たな感動や刺激を求めても、それはたんなる暇つぶしで終わってしまいかねません。新たな本より過去に自分を揺るがすような知的体験を与えてくれた本を、読み直した方が有効で,そういう本をたまに開いて、しばらく読んでは「思考に遊び」時を置いて、また読んで「思考を深める」。味読と独自思考を繰り返すことが,大きな利益をもたらすと書いています。

 私たちは,少しでもいい作品が作りたいと、新らしい知識や感動や刺激を求めて,努力しようというのに,それを「たんなる暇つぶし……」とは、きつい言い回しです。そこで,私は,自分の作画や撮影態度に照らし合わせて考えてみました。
 新たな感動や刺激を求めて撮影に出かけます。そうして撮った写真を整理するわけですが,若いころと違って整理が追いつきません。そうこうしているうちに次の撮影で、また新しい感動や刺激を求めた写真が追加されます。
 ですから十分にイメージを熟成させる、言い換えると「思考に遊び、思考を深める」といった余裕などありません。まして,一度作品を発表したら、それで、すべてが終わり! そんな繰り返しですから、作品制作が観念的だったり、惰性的に作品化が図られていたのではないかと……

そこで、今年から「思考に遊び、思考を深める」ことを実行するために、過去の作品や資料を整理しようと思い立ちました。その結果、私なりに大きな収穫を得ることができました。
すなわち,過去の作品は画像処理に対する技術の未熟さ,機器類やソフトの性能といった面で,納得しないまま妥協してしまった作品もありました。そうした作品に再び手を入れ,完成度を高めることができたものもあります。また、自分が、ハッと思って写した写真ですから、その時点では作品化しなくても、後日、容易に見ることができるようにしておかないといけません。
ところが実際に作業して、フィルムやメディア、それに関係する資料が、どこのファイルに保存したのかわからない。これには困りました。
 遠い昔,先輩から「伸ばしたフィルムがどこへ行ったか分からない,というようではとうてい写真の上達は望めない」と教えられてきたけれど,いま改めて「思考に遊び、思考を深める」ことを志すなら,自分の知的体験である資料を,いかに使い勝手よく整理することが大切であるかを実感し,いま懸命にその整理に取り組んでいるところです。
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by yumehaitatu | 2011-07-10 20:00 | やぶにらみ | Comments(0)

やぶにらみ論法65 堀田義夫   

師との出会い
 鎌倉時代の僧,親鸞聖人は「正師を得ざれば,学ばざるにしかず」といっています。すなわち、いい加減な先生について学ぶくらいなら,むしろ学ばない方がいい。というのです。
 同じようなことを,某カメラ雑誌の記事で見つけました。
 「素人写真の世界は,自称プロの多い世界です。ダメな指導者について3年習うのであれば,有能な指導者を3年かけて探す方が上達の近道です」と書かれていたのです。
 そこで私自身はどうかと振り返ってみました。昭和23年(1948年)東横線の元住吉駅と武蔵小杉駅の間に「工業都市」という駅がありました。そのガード下に小さな写真屋さんがあって,店主は懸賞写真でかなり稼いでいたそうです。
 その人が中心になって写真クラブを作ることになり、指導者として田村栄先生をお呼びすることになりました。これが私のスタートで,最初の師匠との出会いでありました。
 3年後,すなわち昭和26年に田村先生のご都合で、伊藤蒼海先生と変わられた。ですから二番目のお師匠さんが伊藤蒼海先生です。
それから6年後,昭和32年(1957年)に東京写真研究会の赤穂英一先生にも教えを請うようになりました。 この三人のお師匠さんとの出会いが後に,私の写真の考え方に大きな示唆を与えてくれたと思います。
 最初の田村栄先生は
 「私は評論家じゃない。皆さんの作画についての助言者です。私は助言するとき,作者がいちばん見たかったものは何か?その見たものを,他者に伝えるための工夫がよかったか,悪かったか,もし悪かったら何をどうすればよかったかを見抜いて助言することが私の役目です」と。
 二番目の師匠・伊藤蒼海先生は
 「教師なし・先輩あり・教習なし・研究あり」ということを実践させられました。
 すなわち,ここには先生はいない!みんなが先生でなければならない。しかしそれではまとまりがつかないから先輩は先輩として敬意を払おう。また,教えてもらえるなんてことを期待してはいけない。
自分で考えろ! そうして,みんなが育とう。と常に言っておられました。
 三番目の赤穂英一先生は
 「指導者は,理屈や技術を教えることじゃない。理屈は本を読めば理解できる。技術は長く経験を積めば解決する。大事なことは,その人の持っている人と違った感性を見いだし,育てることだ」と常に口になされておられました。
 そうしたお師匠さん方から学んだことを私は実践してきました。そして,後輩に伝えてきたつもりです。親鸞聖人の「正師を得ざれば……」というお言葉は全くその通りだと思います。私はこのようによいお師匠さんに出会えたことに深く感謝しています。
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by yumehaitatu | 2011-05-08 18:26 | やぶにらみ | Comments(0)

堀田義夫の「やぶにらみ論法」64   

五体の散歩
 年をとってもボケずに、元気でいられることを誰でも願います。そのために,何か体にいいことをしようと考えます。お金もかからず、気軽にできるという意味では散歩に勝るものは少ないでしょう。病は脚から、だから足腰を鍛えるために散歩という理屈です。
 ところが,最近そうではないことに気づきました。昨年の酷暑に「念力のゆるめば死ぬる大暑かな」という村上鬼城の俳句を地でいった体験から、これ以上、老醜をさらし、写友の善意や犠牲に甘えていてはいけないと自分自身に言い聞かせ,写真教室の講師は辞退しました。
そうしてわかったことがあります。それは、「年を重ねてもボケずに……」という願いからすると、散歩は脚だけではだめ!ということです。背筋を伸ばして、老境を生きるためには、手・口・頭・といった、五体の散歩こそが大切だということを実感したのです。 
一般的に男より女の方が健康体を維持できるのはなぜか、ということに関心を持った医学者がいたそうです。一つの推測として、料理など家事をすることの多い女性は、そのぶん手を動かし、頭を使うから、男より健康体を維持する能力に優れているというのです。説得力のある考察だと思います。
問題は口の散歩だ。体力が衰えると、それを補うのが精神力、つまり元気です。いままでは写真クラブの会合などに顔を出して、好きな仲間たちと好きな写真について語り合う機会がありました。しかし,今年からはそうした機会を大幅に割愛したので、口の散歩が著しく不足する。
人に会い、人と話すことは、気分を高揚させる。いい気分になれば、それが体中に元気の「気」を行き渡らせてくれます。いままでは,そうした仲間たちが気力を支えてくれていました。ありがたいことでした。
 頭の散歩とは、先に結論を言ってしまえば、「知識」を積み重ねることではありません。知識の習得ではなく、自分の頭で「考える」ことです。考える習慣が大切なのです。
私自身の体験からすると,普段は70点くらいの作品しか撮らない人が、いざ展覧会に出品するとなると、非常におもしろい作品を作ることがあります。70点の作品しか作れない人は足りない分、自分の頭で考えようとします。そうした作品には発想がユニークであったり、考え方にも独創性があります。これに対して、仲間から写真がうまいと思われている人の作品は,自分の知識で勝負します。だから独自の思考力が求められる展覧会の作品としては常識的、理知的作品に終わってしまって面白くないように思います。そうした意味では多くの人との出会いを持つことが必要だと思そんなことに気づいて,います。
一昔前は、老人は尊敬の対象にされていました。しかし、いまの時代は「老人は哀れなもの」と見られがちです。それは、尊敬に値する生き方を若者に見せていないからかもしれません。体も頭も使わないとどんどん錆びてしまいます。最近は「五体の散歩」が極端に減ってしまって,不安な日々を送っています。
      <北辺の浜>
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by yumehaitatu | 2011-03-06 17:18 | やぶにらみ | Comments(1)

やぶにらみ論63 アイディア欠乏症 堀田義夫   

写真仲間が私の作品を見て「俺も同じように写しているのだが、こんなイメージは思いつかない。アイディアで負けちゃうんだなぁ」という。また、「どうしてこんなアイディアが湧くのか不思議だ」ともいいます。
 だが、「アイディア」というと高尚な考えに裏付けられているように聞こえますが、日本語で言えば、たんなる「思いつき」のことです。「思いつく」ことなんて誰でもできます。だからアイディアが湧かないとか出ないというのは、アイディアを出す努力を怠っているだけなのです。
 ただ、「思いつき」は大事なのですが、その思いつきが理屈通りで当たり前ではつまらないものとして受け取られてしまいます。できることなら、人が思いつかないことを思いつくことです。マニュアル通りに考えていては、新しい創造性に巡り会える機会は乏しいのです。
 三浦半島の突端に「盗人狩り」と呼ばれる岩礁地帯があり、釣り人やカメラマンがよく訪れます。私も先日数人の仲間と撮影をともにしました。順光の岩場は質感表現には向きません。そこで私はこれを木版画のように仕上げたいと思いました。
 思いつきは理屈じゃないのです。トライ&トライです。漠然としてでもいいから「何をしたいか?」を考えて、いろいろトライしてみるのです。
試行錯誤をする中で、生み出される偶然との出会いに期待するのです。そうした思いつきの繰り返しがアイディア欠乏症の患者には一番の良薬のように思うのですが如何でしょう。
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第1トライ:背景コピー → フィルターのカットアウトを選び、木版画調にする。
第2トライ:背景コピー → フィルターの浅浮き彫りを追加して、画面に立体感を与える。
第3トライ:背景コピー → フィルターの輪郭のトレースで画像のエッジを立てる
第4トライ:背景コピー → 画質調整の色相・彩度で彩度を強調する。
第5トライ:背景コピー → 画質調整のレベル補正で特定の色を補正する。
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by yumehaitatu | 2011-01-09 09:57 | やぶにらみ | Comments(3)

やぶにらみ論法62 展覧会ア・ラ・カルト 堀田義夫   

 恒例の「夢の配達人展」も盛況のうちに終わった。会期中にNHKフォト575審査員の板見浩史氏が「誰にでも楽しめるフォト575入門」という講演のため見えられたので会場で立ち話をした。
 板見氏は私に「夢の配達人というネーミングは、本展が何を鑑賞者に伝えようとしているかが明確であり、出品者がそのことをよく理解して作画を楽しんでいるのが素晴らしい。また、近頃は写真の展覧会は多いのですが、中味の薄い、技術比べのような展覧会が多いと思っていたのですが、東京からこんな近いところでアバンギャルド(革新的芸術運動・前衛芸術)な活動が展開されていることに驚いた。来年も是非見させてほしい。」と感想を述べていました。
ところで、板見氏のいわれるとおり、写真展は本当に多い。私のところなどにも有名無名の方々や、グループからダイレクトメールが送られてくる。そうした展覧会について考えてみると、いくつかのパターンがあることに気づく。
その一つは、カリスマ的レッスンプロといわれる先生が指導するグループ、あるいはカルチャー教室的雰囲気を持った写真クラブの展覧会を見て感じることは、作者の作意というより指導者の好みに合わせた写真が並んでいる。ピント合わせ、露出補正、構図のまとめ方といったような写真技術の習得も写真を趣味にするには必要だから、それも「あり」としよう。しかし、そうした展覧会は技術習得に重点が置かれて、作品の内容が希薄で表現形態が画一的で退屈だ。
 二つ目は、○○写真連盟、○○写真協会、○○公募展、といった部類の展覧会である。こうした展覧会は出品者の射幸心を煽るように入賞順位がつけられる。出品者もそうした機会を利用して自分の力量をある権威?から認められたら……といった気持ちも手伝い、競合者に勝つために選者を意識し、作品づくりのコンセプトを検討して努力する。
そのために楽しいこともあるだろうが、半面クライアントの気を引く後ろめたさも付きまとう。しかし、一番目に挙げた展覧会よりはましだ。
 それらの展覧会と比べた時、「夢の配達人展」は確かに板見氏の指摘の通りアバンギャルドなのである。会場で「こんな写真見たことない」「これが写真なの?」「これじゃ写真じゃなくて絵だね」なんてことも耳にした。
大成功じゃありませんか。
 私は「写真」という読みが非常に気になるのです。カメラで撮れば「真を写す」というので写真と言いたいのだろうけれど、それは間違いだ。カメラという表現媒体を使って私たちは「画像」を創り出しているのです。写真でもない、絵画でも、版画でも切り絵でもない。そうした範疇に縛られない、もっと自由な表現形式を手に入れたいと思って活動しているのです。
 趣味・道楽は人のためにやっているのではありません。まず自分が納得し、楽しみ面白がらなければ、人を楽しませることなんかできっこない。そうした想いが「夢の配達人展」の出品作品一点一点に横溢していることが板見氏を驚かせたのかもしれないと私は思っています。
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by yumehaitatu | 2010-11-06 23:58 | やぶにらみ | Comments(1)