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堀田義夫の「やぶにらみ論法」(84)   

堀田義夫の「やぶにらみ論法」(84)

【やる気】
 いまある仕事に取りかかっているが遅々として進まない。明日でいいやと先送りしていて【やる気】があまり起こらないのです。
 今月も友人の一人が他界した。私たちの年齢だから仕方ないのですが、それでもその友人とは一緒に写真を趣味に歩んできた人生だから感慨はある。
 最近の便りに「4月1日で81歳!。今日からロシア語の教室に通うことになった。去年ロシアに行ったが、言葉が通じないことで折角の旅も不満が残った。だからこれからロシア語を習って、シベリア鉄道を完乗(始発駅から終着駅まで)したい… それから文章講座にも通うことにした。自分史を書こうと思ったからだ。いのちが続いていたらネ!…」という内容だった。
 その男が、約二ヶ月後の5月28日に不慮の事故で黄泉への旅立ってしまった。坂村真民さんの詩に【人間いつかは終わりが来る 前進しながら終わるんだ】というのがあるが、その通り【やる気】満々の生きざまをわたしに見せてくれてきた仲間です。
 もう一人、60年来の友人が入院したという連絡が入った。誠実で何事にもクールに対処することからファンが多い。ここ数年体調のすぐれないことは感じていた。本来の生真面目さから、いろいろ写真界に顔を出し、教室にも指導に行っている。
 だが、人を介してわたしの耳に、○○先生はこの頃あまり元気がない。教室でも声が小さくて聞こえないし、あまり話さなくなった、ということだった。
 相田みつをさんの詩に【じぶんの後ろ姿は見えねーんだよなー じぶんには】というのがあるが、生徒にとってはその姿から、ある種の感慨を持つものです。そのため、生徒さんたちの【やる気】を削いでしまっていないか心配です。
 誠実な性格だから、みんなの期待に応えようとする気持ちはわからないでもないが、生徒たちの【やる気】を削いでしまっては本末転倒です。
 老人になっても、あらゆることに自分が前面に出るのは、いい生き方かも知れないが、大人げない。「大人げ」とは自分を引くことであり、わたしは「大人げ」という美学を大切にしたいと思っています。
 ところが、このことは人ごとではない。わたしも仲間と顔を合わせるたびに、「今日は体調はどうですか」と聞かれる。ということは、わたしも仲間たちの「やる気」を削いでいる、いってみれば、【じぶんの後ろ姿は見えねーんだよなー じぶんには】なのです。
 特にこれからの季節は最も辛い日々が続く。わたしより5才年長の教室に通ってきている人から、頑張りますねーと労われたとき、「仕方がないんだ」と本音を漏らしたら、「堀田さん、その仕方がないんだ、だから頑張るんだ!という気持ちが大事だよ」その気持ちがあなたの【やる気】を起こさせているんだ。と励ましてくれた。
 ただ【やる気】には期限を! 【やる気】を本物にするには、その実現のために期限をつける。それを怠ると【やる気】は夢のままに終わってしまう。と教えられた。
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by yumehaitatu | 2014-07-05 17:12 | やぶにらみ | Comments(0)

やぶにらみ論法【フォト五七五】(84)   

やぶにらみ論法【フォト五七五】(84)    2014年4月

 「五七五」という短詩形は世界に誇れる日本文化だろう。先日、参加16団体、参加者260名という大規模な写真展を見た。あらゆるジャンルの作品が陳列され「写真表現の見本市」のような印象だ。これを五七五の知恵で感想を述べる。
 もともとアマチュア写真家は職業写真家が生業として写真を撮っているのとは違い、写真というメディアを利用して人生を楽しむための趣味人である。川柳に「生きざまはみんな違って趣味の友」というのがあるが、出品者はそれぞれ過去は違った境遇で生きてきた。そしていま写真という趣味を楽しんでいる。豊かな人生経験がいろいろの作品を生み、見本市のような印象を与えるのだろう。
 アマチュアが写真を楽しむとき三つのパターンがある。一つは記録者、報告者としての観点から作画する人たち、二つ目は技術面に重きを置いて精進している人たち、三つ目は写真というメディアを使って創造的作品を作る人たちである。
 出品者の分類では、デジタル写真はいじくりすぎて嫌いという否定派、逆にデジタルだと、こんなことまでできるんだと興味を持った肯定派。そして、花が好き、富士山が好きと被写体の魅力の虜になっている人、あるいは、祭りやイベントといった写す目的のはっきりした行事ものといったように、展示作品は多様多彩。だから出品者側の価値観も多様だ。
 この展覧会のもたらす効果は、ひと頃オリエンテーリングという競技が流行った。地図と磁石を持たされて目的地までいかに早く着けるかを競うものだ。競技のコツは、いつも自分の位置を知ることで、自分がどこにいるのかわからなければ磁石も地図も役に立たないからだ。
 その競技と同じで、この展覧会のメリットは、自分たちのクラブが写真界の流れの中でどの辺の位置にいるのかを知る。そして自分たちの活動の軌跡の間違いを検証し、必要なら軌道修正する。間違っていなければ自信をもって、更に速度を増して前進する勇気を与える役割を果すことができることだ。
 だが、先ほども紹介したように、「生きざまはみんな違って趣味の友」というようにいろいろの人の集まりだから、運営は並大抵ではない。その陰には「輪の中の笑顔に幹事やめられず」といったように、面倒な幹事役を引き受けてくれた人たちの献身的な犠牲の上で成り立っているのである。
 訪れた鑑賞者の一人が、「これ写真?」という疑問を投げかけてきた。うちのクラブでは先生がこんなのは絶対認めてくれない。という嘆き節も耳にした。一般の人が写真は難しいものと思っている部分は、実は技術的な部分なのだ。技術的なことを駆使して写真を撮っている人は、天賦の才能に恵まれた人かと思われている。だからそうした先生は、写真の内容よりも、ピントがいい、トーンが素晴らしい、うまいフレーミングだ。といったように技術の善し悪しを云々するが、新しい傾向の作品を「前例がないと新芽は摘み取られ」といった具合に、新しい感性の芽を摘みとってしまう。
 また、「わたしの作品ですがどうでしょう」と声をかけられた。わたしには言いようのないつまらない写真だ。一瞬困ったが「欠点と言わず個性とフォローする」という五七五が頭をよぎり、その場をしのいだ。
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by yumehaitatu | 2014-05-03 20:46 | やぶにらみ | Comments(0)

やぶにらみ論法82 堀田義夫   

【人と作品 】
 電車に乗ったら,いま話題の佐村河内守氏のことを,大きな活字で刷り込んだ週刊誌の中吊りが目についた。
 稀代のペテン師,詐欺師といったレッテル,また,ゴーストライターの登場,制作したCD18万枚を回収,店頭からも商品を撤去したとあった。
 ところが,今朝(2月8日)の新聞に,文芸評論家・小林秀雄氏が良寛の掛け軸を手に入れて得意げに披露したが,良寛研究で知られる歌人の吉野秀雄氏に偽物と看破されて,「また,引っかかったか」と手近にあった日本刀でバラバラにしてしまったという記事を目にした。
 佐村河内守氏の場合は,ゴーストライターによる作曲。また,小林秀雄氏の場合は良寛さんの作品ではなく,第三者による贋作だった。いずれにしても,作品と作者が別々だということでは似たようなものだ。
 人にはそれぞれ見方,考え方がある。私個人としては,作品は自律することが好ましいと思っている。 
ソチ冬季オリンピックの男子フィギュアに出場する高橋大輔選手は,ショートプログラムの演技に佐村河内さんの作品といわれる「ヴァイオリンのためのソナチネ」を使う。マスコミの報道に接しても曲を変えないという。それは高橋選手が,作品をいいと認めているからだ。
 ところが世間の流れは,「じつはゴーストライターの作品だった,NHKが「現代のベートーベン」と囃したてた,そうした結果が一般の人を騙すことに加担した,だから店頭から商品を撤去する」という方向に向いたようである。
 立派なロジックのようだが,私は小林秀雄氏のように「また引っかかったか」と怒ればいい,すでに制作されたCDや店頭に並んだ商品の回収など必要がない。騙された方は作品の価値を見抜けなかったと,潔く諦めればいいのである。経緯は兎も角,作品に惚れている人がいるんだから,と思っている。
 一方,小林秀雄氏の場合のように,良寛さんという人の魅力で,作品の魅力に惹かれているわけではない。作品の真の価値なんて,どうでもいいのだ。だから,「また引っかかったか」と自分の非を素直に認めて,自分に怒りをぶつければいいだけの話だ。
 美術振興を目的にしている「日展」が,有力者に師事しなければ,入選の機会は限られることが明らかになった。作品より結果的に人脈を選んでいたと摘発されたのである。本来の趣旨から考えれば本末転倒である。
 私もある公募展の審査で体験したのだが,入賞を決める段階で,ある作品を異常に支持する審査員がいた。見かねた某審査員が,「作品を審査しているんだと思っていたんだが,君の言い分を聞いていると作品じゃなくて人を審査しているのかね」と皮肉った。勇気あるその審査員の発言に,私は胸のつかえがスーと一気に解消したことを覚えている。
 作品の価値を問うのではなく,その人を好き・嫌い・いい子・悪い子といった基準で決めているのだ。そうではなくて,私は自律した作品を評価する感性を養いたいと思う。
     白樹
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by yumehaitatu | 2014-03-01 18:55 | やぶにらみ | Comments(0)

堀田義夫のやぶにらみ   

「今でしょ」に思う

 テレビが,今年(平成25年)の流行語大賞が決まったことを報じていた。東京オリンピックく招致活動で,滝川クリステルがいった「お・も・て・な・し!」とか,若者言葉の「今でしょ」といったものが選ばれていました。
 「今でしょ」というこの流行語に私は共感しました。とかく怠惰な性格だから,今やらなくてはいけない仕事も,つい一日延ばしに伸ばしてその結果,無為に日々を送ってしまっている自分が戒められたように思えたからです。
 お釈迦さんは「過去を追うな,未来を求めるな。過去は過ぎ去った,未来はやってこない。今なすべきことを,しっかりとせよ」といっています。過去の栄光を思い浮かべて満足するな!。未来のことを,いたずらに妄想して心配するな!。そんなことより,今やらなければならないことをしっかりやれ!,といっているのでしょう。
 ところが私も80を越えました。そして「今のままでいいじゃないか,現状で満足すべきで,それ以上の欲をかくなよ,もう諦めておけよ!」と自分に囁く,もう一人の自分が心の中に住み着いているのです。
 そうした折に,渡辺澄晴先生から,「ワシントン広場の顔」という著書を恵与されました。紙背から読み取れたことは,「今やらなければならない,といった使命感とも思える気迫でした。先生とは,1000日くらいの人間経験に差があります。それを思うと,まだ自分には鍛える余地がありそうだと考えさせられました。
 ところで,「起承転結」という言葉があります。人の一生になぞらえることがありますが,この言葉が使われた「人生50年」と言うのは昔の話,「起」は20代,「承」は30代,「転」は40代,そして50代以降が「結」でしょうが,今では80才,90才でも元気に生きている人がたくさんいます。そう考えると,50代で「結」ではどうも納得がいきません。
 私も80を過ぎ,「結」の筈だが,前述したように立派な仕事をやっている先輩がいることを思うと,いまだ転がりっぱなしで「結」なんて見えてこない。そこで私は【人生には「結」なんてない。あるのは「転」だけ】。人生は【起承転々】でなければならないと考えました。
 【起承転々】は,「自分はまだまだ未熟である。可能性はたくさんあるのだから,探求心を失ってはならない。もっといろいろなことに挑戦していかなければならない。と思うことです。
 そして過日,写友との忘年撮影会に行きました。今回は「過去を追うな!,未来を求めるな!,いま,やらなければならないことをしっかりとやる」のだと意識して撮影に望んだのです。 仲間たちに励まされ,刺激を受けながら「今しかない」という気持ちを持つと,撮影が充実します。だから,今年は「今でしょ」という気持ちで,【起承転々】と転がりながら生命を燃焼させ,手を抜かずに生きていこうと決意しました。
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by yumehaitatu | 2014-01-11 17:19 | やぶにらみ | Comments(0)

堀田義夫「やぶにらみ論法」(80) 【気づき・気づかせる】   

登山家の今井淳子さんは「登山の楽しさは仲間と一緒 に登るから楽しい。特に価値観が同じ人だと更に楽しい」 と本に書いている。
今井さんが言うように作画の研究会も同じだ。同じ趣味の 人が集まり、話し合うことで、刺激を分かち合えるから 楽しい。しかし、そこに価値観の異なる人が混じると、 そうはいかない。
ある作画研究会での話題。「○○君,このポールは避けて 写すとよかったんじゃない」と提案したら作者が「その ポールに関心があって、モチーフに選んだんだ」という 答えが返ってきた。居合わせた仲間たちとの価値観が あまりにもかけ離れていたので、その場の空気は一瞬、 白けてしまった。このことは、作者と鑑賞者の間の価値観の 違いだ。価値観の違う話題は平行線をたどるだけ、大人 の論理として、正邪を糺そうとすると感情的なもつれが 発生するのを知っているから、話題はそこで打ち切れた。 こうしたケースは良くあることだ。
そのための対処方として、わたしは、プロ野球の優勝 請負人と謳われた名監督・野村克也さんの選手を 3 段階 で評価する方法を思い起こした。すなわち「無視・賞賛・ 非難」である。
野村監督が語る「無視」とは、『全国から集まってくる プロを志す選手は,人と比べようのない能力を持った人 たちである。本人たちもそのことを自認している。しか し、プロの世界は競争が激しい。そこで生き残るために 監督は、選手のいいところに気づいて、その長所をいか に伸ばすかということを考えてアドヴァイスする。そし て本人自身に気づかせ実行させることを考える。だが、 自分の技量を過信する選手はなかなか、そのアドヴァイスを 受け入れたがらない。
本人が、やる気を起こさないなら、無駄なことはしない方がいい。だからそうした選手は無視する』というのである。もっともなことである。
わたし自身,最近ある展覧会に出品するために出品作の 候補を仲間たちに見てもらった。これはいままでの わたしの習性でもある。それは、どの作品にも自分の 思い入れがあって、自分で自分の作品を選びきれない からそうしているのである。
わたしは写真で最も大切で、最も難しいと思っている ことは、カメラの操作でもプリントの技術でもない。
『写真的にものを見る』ことだと思っている。そうして 作り上げられた作品に客観的な説得力を持たせるため の工夫を心掛けている。その工夫の仕方を仲間たちの 目から見て、いいか、悪いか、悪いとしたら、どうす ればよかったかを気づかせて貰うためなのである。
その席である仲間が、「俺はここの処理がチョッと 気になるなー」と言ってくれた。非常に嬉しかった。 なぜかというと、自分でも気になっていたのである。 しかし苦心してやっとその不具合を解決したつもりで いたが、あと一息の努力を惜しみ、妥協していたことを 見抜かれ指摘されたからである。そのように気づかせ てくれる仲間がいることに感謝している。
<いのち尽きて>
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by yumehaitatu | 2013-11-02 18:37 | やぶにらみ | Comments(0)

やぶにらみ 79 堀田義夫   

堀田義夫の「やぶにらみ論法」(79)   

【忘れる力】
 もう50年以上続いている写真の例会に行った。50年以上続いている仲間の集まりだから、メンバーはみんな年寄りだ。だから写真の話もそこそこ、話題は体調に関することが多い。
 その中の一人が、真顔で「最近、物忘れが多くてね」と嘆いた。居合わせた他の連中も「俺もだ」といった発言がしばらく続いた。そして結論は「老化が進めば誰だって忘れっぽくなる」ということで納得して終わった。
 問題はその「納得」の仕方である。「年だから仕方がない」といったあきらめで納得したのか?あるいは「自分だけでない、みんなも同じなんだから…」といって妥協したのか。
 もう一つ、「忘れることは悪いこと」と思っていないか。「忘れてはいけない。よく覚えていなければいけない」と自分に言い聞かせているのではないか。
 子どもの頃、学校では、よく覚えているか、どうか、定期的に試験でチェックされ、忘れることはよくないことだとして育ってきた。だからいまもって、忘れることに対して忘却恐怖症を持っているのだと思う。帰宅してから、そのことが気になって、「忘れること」について考えてみた。
 わたし自身、記憶力にはかなり自信があった。しかし近ごろは信じがたい現象に直面することがある。人の名前がスーと出てこない。顔を見てもどこで会ったのか思い出せない。といった具合だ。
 しかし、家に帰る道を忘れた、あるいは服を着るのを忘れて裸のまま外に出歩いたといったわけではない。名前が出ない、どこで会ったか思い出せない、なんてことは、どうでもよいこと、たいした問題ではないから忘れるのだ。 

 変な譬えだが、部屋の中にガラクタがたまったら片付ける。そしていらないものを捨てるだろう。それと同じで、頭の中がいっぱいになったらゴミ出しをする必要がある。このゴミ出し作業が忘れることなのだ。そうして頭の中に隙間をつくり,新しい知識を入れる場所を確保することが大事だと思っている。 
 いま(平成25年8月7日)夢の配達人展が開かれている。会場で知り合いの人からどんなレタッチをしたのか聞かれ、記憶にあるレタッチの方法を説明した。ところが、その男はさらに、わたしの著書「字余りの人生」の画集を開いて執拗に質問するのである。その中で、わたしが「どうやったか忘れた」といった発言を気にとめ、「忘れないように記録を残していないのか」と詰るような視線を浴びせられた。
 いわれるように大事なことを忘れたでは済まない場合がある。しかしわたしは、「忘却」を味方にして、いままでの手法を忘れること(ゴミ出し)で、新しい手法を考えるのだと思うようにしているから、忘れることに対しての恐怖感はない。
 わたしは「忘却は老化ではない」と思っている。むしろ、忘れて頭の中に隙間ができたら、その隙間を埋める努力をすれば、「歳をとるってことは素晴らしいな、伊達に年をとっていない」と若者に尊敬される老人になれる。だから忘れっぽくなったと嘆くより、積極的に、「忘れる力」を利用しようと思いついた。
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by yumehaitatu | 2013-09-07 18:33 | やぶにらみ | Comments(0)

堀田義夫「やぶにらみ論法」(78) 奇跡を生む資格を取得   

堀田義夫の「やぶにらみ論法」(78)

奇跡を生む資格を取得   
 最近、アドベンチャースキーヤーの三浦雄一郎さんが80才を超えてエベレストに登頂したニュースに接して、その自らの可能性を追求する姿勢に感動した。
 また、当会顧問の渡邊澄晴先生も5月に20㎏に及ぶ撮影機材を担いでニューヨークに取材に行かれた。このことにも驚いた。
 私も先月、田崎龍一・西垣憲明・大嶋丁未子・堀井裕子さんら写友と山形・秋田の県境にある鳥海山周辺の撮影に行った。
 田崎さんのお骨折りで遊佐町の観光協会の職員が終日撮影地の案内をしてくれた。夜は役所の企画課・教育委員会・観光協会・ハンガリー友好協会山形県支部事務局長など多くの方と会食し歓談する機会も得た。その際、当日の撮影を案内してくれた観光協会の職員が私の年齢を知って、とても信じられないと大変驚いていた。
 こうしたことを考えると、人間の脳細胞には80才を超えて何か行動を起こすと、人に感動を与えたり、行動力に対する驚き、尊敬するという図式が組み込まれているように思える。
 もしそうだとすれば、80才という年齢に達すると、何をやっても奇跡を生む年代ということになる。言い換えると「奇跡を生む資格を取得」したということのようだ。
 ところで、シニアエージにとって写真という文化は親しみやすいせいか、多くの仲間に恵まれるが、長寿社会になった現在ではその幅は広い。定年を迎えシニアエージの仲間入りしても、60代はどうして良いか中々馴染めない。いってみればシニア「年少組」である。周辺に気を遣いながら見よう見まねでシニア生活に溶け込んでいく時期だ。
 70代は「年中組」に成長に、年少組の面倒をみる立場になる。やがて80代になると卒業{終末活動期}の道を歩むようになる。
 そうした考え方が一般的図式だろうが、私は、冒頭に掲げた三浦雄一郎さんの「自らの可能性を追い続けようとする生きざま」を見習いたい。あるいは、詩人の坂村真民さんに「人間いつかは終わりが来る 前進しながら終わるのだ」という作品があるように、理想としてはそうでありたい。と思っている。
 ところで三浦雄一郎さんの登頂の第一声は、「私が登ったのではない、サポーターの人たちの力が、私を登らせてくれたのだ」と聞いて、周辺の人たちへの感謝の気持ちを表したその言葉にまた感動した。
 渡邊澄晴先生も「かつての友人がニューヨークで活動していて、私の渡米のサポーターをしてくれるというから、50年ぶりの取材の決心がついた」と語っておられるが、まさにその通りで、奇跡を生む資格を得たからといって、自分一人の力では何も出来ない。
 私も今回の鳥海山周辺の撮影では前出のサポーターたちの励ましで実現したと思って、感謝している。ただ、「奇跡を生む資格取得者」という免許証には、権限・権力の行使権は付与されていない。だからシニアエージでは70代すなわち、「年中組」がいちばん威張ってすべてを取り仕切らねばならないのである。
<遊佐海岸16羅漢>
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by yumehaitatu | 2013-07-06 22:07 | やぶにらみ | Comments(0)

堀田義夫「やぶにらみ論法」(77) 出会いに感謝   

出逢いに感謝
 老いを楽しく生きるために、出逢いの機会を作る努力をしよう。そう思っているので、先月、現職時代のOB会へ出席したが、期待はみごとに裏切られた。
 当時、尊敬していた先輩・同僚が賞味期限切れの、ただの年寄りになっていたのです。賞味期限の切れたモノは捨てるか、買い換えるかしかない。捨てれば自分の周辺から仲間がどんどん減ってしまいます。買い換えるとは新しい出逢いを求めることです。
 過日、本会の幹事長の西垣憲明さんが中心となって「みんなの写真展」という展覧会に参加しました。16団体・約300人の出品者で規模としては、全国に類を見ない規模ではないかと思います。その諾否は別にしても、観客に好評のようでした。出品者の感想は、「他の団体の活動に啓発された」「趣味を通じて新しい人との出逢いを得られた」ということでした。
 「出逢い」というと人との出逢いを思いますが、そのきっかけとして、写真を趣味にしたことが役だったと思うのです。だから趣味は出逢いの道具です。そうして得られた新しい仲間は、新鮮な刺激を与えてくれます。
“生きざまは みんな違って 趣味の友” という川柳を目にしましたが、この川柳のように過去の生きざまは違った人の方が刺激になります。冒頭に書いたように、同じ釜の飯を食ってきた職場の先輩や同僚は賞味期限切れで刺激を与えてはくれません。
 年を取ると「出逢い」の機会は極端に減ります。だから私は積極的に出逢いの機会を得ようと努力してきたが、加齢とともに体力的に厳しくなりました。
 その難問を解決しようと、過去に撮影した写真の整理を始めました。いま流なら「終活」というのでしょう。自分の写真が一度発表するとそれでお終い?では、あまりにも軽い。そんな気がしたからです。
 書物だって、一度読んでら全部分かる本なら、読まなくてもいい。何度でも読み直そう、読み返すたびに、新たな刺激や目覚めを与えてくれような本は、名著なのだ。そんな写真が作りたい!そう思って毎日パソコンの前に座って頑張っています。
 写真はモノを克明に描写して、現象のある一瞬を定着する機能を持っている。その結果、写した写真はデーターとして「現実と等価なもの」と学習してきました。
 しかし一方で写真は自分がいて、被写体があって、それを写真に撮ったものをプリントして改めて見る。言い換えると、自分自身のモノを見る目を考える道具として「写真家の意志や主張」を表現します。写真は視覚的なことだが、作品には作者の心理的、精神的なモノが必ず関わってきます。だから写真は「目の哲学」と思っています。
 そうした意味では、本研究会には“旬”の作家が多く、いまさらのように出逢いのありがたさに感謝しています。
「サイコロ石」
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by yumehaitatu | 2013-05-04 22:39 | やぶにらみ | Comments(0)

堀田義夫の「やぶにらみ論法」76 リバースコーチを求めて   

【リバースコーチを求めて】堀田義夫
 古い友人に「60才以上になったらリバースコーチを作れ!」といわれたことがある。耳慣れない言葉なのでその意味を聞いてみた。
 【リバースコーチとは、自分を教え導いてくれる年上の人ではなく、若くても未熟でも新しい刺激を与えてくれる人、自分の知らない世界を教えてくれる人のことをリバースコーチと呼ぶ】のだ、と教えてくれた。
 なーんだ、そんなことならすでに実行しているわい! とそのときは軽く聞き流していたが、最近になって、自分の考えがいかに軽く、表層的だったかを思い知らされた。
 安倍晋三総理のおじいちゃんの元総理大臣の岸信介さんは、「年を取ったら風邪ひくな、転ぶな、義理を欠け」と名言を残している。体調と相談しながら、いただいた展覧会の案内状から、誠意や意欲のくみ取れない展覧会には義理を欠くことにしている。
 また、案内状の受け止め方もある。出品者の顔ぶれで、どの程度のレベルの展覧会かを自分勝手に推測してしまうことだ。また、仲間の評判にも耳を傾けて決断する。
 出品作家にとっては、「昨日よりは今日!」、「前回よりは今回!」といった意気込み(中にはそうでないものもあるが…)があるのだろうから、こちらの姿勢にも、過去のイメージで、鑑賞しないうちから、勝手な思い込みは失敬な話ではある。
 ところで、体調を崩す前まで、20数年間、一緒に月例会をひらいて勉強した人たちの展覧会に伺った。出品作の中に、昨年秋に一緒に行った奈良の撮影会の作品があった。撮影技術、レタッチとも非常にすぐれていて、その作品を見て、自分の力量の乏しさ、表現力の拙さ惨めさを実感した。
 この惨めさは「若いもんなんかに負けるかい!」といった思い上がった気持ちが私にあったからだと反省している。素直に自分の拙さを認め、若くて新鮮な刺激を与えてくれた作家とその作品をリバースコーチとして頑張るしかないのである。
 もう一つ印象に残った展覧会は、写歴5年くらいの経験しか持たない作家だが、発表のたびに注目してきた。
 この作家は、東南アジアを舞台に作画活動しているが、その取材量の広さ、知識の豊かさに圧倒さる。またモチーフの選択、コンセプトの明快さなど、人生の源資(知的経験の豊かさ)か私にとってのリバースコーチであることに気づかされた。
 写真の世界では、写歴の長さを自慢する輩が多い。写歴が長くても作品が発するメッセージが読み取れない自称・先生が跋扈し、リバースコーチの存在は認識したがらない世界だと感じる。
 私は日頃「共育」ということを標榜し、「若いから」「経験が浅いから」、といったことを本当に意識しないで、リバースコーチを求めていたか、いま改めて心の底から思っていたかを反省している。
 これからは、真剣にリバースコーチを求めて、人生を前進しながら終わりたいと思った。
<どぶ板通り>
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by yumehaitatu | 2013-03-09 21:58 | やぶにらみ | Comments(0)

やぶにらみ76 堀田義夫   

センスは誰にでもある!
 
 先日仲間たちと奈良に撮影に行った。行き帰りの車内では、写真談義に花が咲いた。そうした中で、「私にはセンスがないから……」と自分を卑下したような発言を耳にしたのです。
 だが、本当に自分にはセンスがないと思っているのだろうかとチョッと淋しい気がした。あるいは本当は、本心からは、そう思っていないのかもしれないという気もした。センスということはそれほど手に入れることが難しいのか。
 だいたい「センス」という言葉にはどんな意味合いが隠されているのだろうか?辞書をひいたら『微妙な味わいを感じ取る力』とでていた。
 私たちが写真を撮るとき、当たり前のものをじっくり観察して、「微妙な違い」「チョッとした違和感」を見つけて作画するでしょう。周りの人には「普通のもの」が、本人にとって「特別な何か」に見えるといったことがある。まさに「人と違うセンス」なのです。だから、センスのない人なんか、いないというのが私の持論です。
 先日、森光子さんの訃報をテレビで知った。そのとき思い出したことが、片平なぎさという女優が初めて主役を演じることになったので、大先輩の森さんに、どんなことに気を付けて望むべきかと尋ねた。森さんは「台本をよく読んで、その台本のどの部分が気に入ったか? もし気に入った部分が見付かったら、そこをどのように演じるかを真剣に工夫しなさい。すべてを巧く演じようとすれば、するほどお客さんは疲れてしまうから、自分が気に入った部分に、全神経を集中させて演じなさい」とアドバイスされたという話が伝えられている。
 この話は印象的で、写真の世界にも通じると思ったので、私の「夢ノート」に記されている。
写真経験が長くても、なかなかセンスの磨かれない人は、「被写体に写真を撮らされている」からです。もし、目の前にある被写体に自分の心を結びつけて、自分の気持ちを大切に、「楽しかった」「面白かった」「不思議だった」「美しかった」といったことを、どのように伝えようかと努力すれば、その人なりのセンスは磨かれるのです。
 作品ならば、作者は「作為を伝える最低限の努力をする」ことを心がける。そうすれば、その人なりのセンスは磨かれるのです。写真は巧く撮ることも必要だが、「気持ちの伝え方」はもっと重要だと思っています。
 センスの磨き方にはいろいろあるだろう。今回のように仲間と撮影を共にする場合などは「こんなもの見つけたよ!」とか「これなんだろう?」と楽しく会話を重ねながら、自分の欠けている部分を補うことが出来る。この仲間との刺激がセンスを磨く上ではいちばんの決め手であるようだ。
 もう一つ大事なことは、「思い切り」が肝心。私は今回の撮影にマンネリ化した視覚経験から抜け出したいと思って、風景写真はすべて16㎜の超広角レンズで写す!といった使用機材を制限し、限られた条件で撮影をした。これもセンスの磨き方かと思って実行したのである。
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by yumehaitatu | 2013-01-12 23:59 | やぶにらみ | Comments(0)