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堀田義夫のやぶにらみ   

「今でしょ」に思う

 テレビが,今年(平成25年)の流行語大賞が決まったことを報じていた。東京オリンピックく招致活動で,滝川クリステルがいった「お・も・て・な・し!」とか,若者言葉の「今でしょ」といったものが選ばれていました。
 「今でしょ」というこの流行語に私は共感しました。とかく怠惰な性格だから,今やらなくてはいけない仕事も,つい一日延ばしに伸ばしてその結果,無為に日々を送ってしまっている自分が戒められたように思えたからです。
 お釈迦さんは「過去を追うな,未来を求めるな。過去は過ぎ去った,未来はやってこない。今なすべきことを,しっかりとせよ」といっています。過去の栄光を思い浮かべて満足するな!。未来のことを,いたずらに妄想して心配するな!。そんなことより,今やらなければならないことをしっかりやれ!,といっているのでしょう。
 ところが私も80を越えました。そして「今のままでいいじゃないか,現状で満足すべきで,それ以上の欲をかくなよ,もう諦めておけよ!」と自分に囁く,もう一人の自分が心の中に住み着いているのです。
 そうした折に,渡辺澄晴先生から,「ワシントン広場の顔」という著書を恵与されました。紙背から読み取れたことは,「今やらなければならない,といった使命感とも思える気迫でした。先生とは,1000日くらいの人間経験に差があります。それを思うと,まだ自分には鍛える余地がありそうだと考えさせられました。
 ところで,「起承転結」という言葉があります。人の一生になぞらえることがありますが,この言葉が使われた「人生50年」と言うのは昔の話,「起」は20代,「承」は30代,「転」は40代,そして50代以降が「結」でしょうが,今では80才,90才でも元気に生きている人がたくさんいます。そう考えると,50代で「結」ではどうも納得がいきません。
 私も80を過ぎ,「結」の筈だが,前述したように立派な仕事をやっている先輩がいることを思うと,いまだ転がりっぱなしで「結」なんて見えてこない。そこで私は【人生には「結」なんてない。あるのは「転」だけ】。人生は【起承転々】でなければならないと考えました。
 【起承転々】は,「自分はまだまだ未熟である。可能性はたくさんあるのだから,探求心を失ってはならない。もっといろいろなことに挑戦していかなければならない。と思うことです。
 そして過日,写友との忘年撮影会に行きました。今回は「過去を追うな!,未来を求めるな!,いま,やらなければならないことをしっかりとやる」のだと意識して撮影に望んだのです。 仲間たちに励まされ,刺激を受けながら「今しかない」という気持ちを持つと,撮影が充実します。だから,今年は「今でしょ」という気持ちで,【起承転々】と転がりながら生命を燃焼させ,手を抜かずに生きていこうと決意しました。
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by yumehaitatu | 2014-01-11 17:19 | やぶにらみ | Comments(0)

堀田義夫「やぶにらみ論法」(80) 【気づき・気づかせる】   

登山家の今井淳子さんは「登山の楽しさは仲間と一緒 に登るから楽しい。特に価値観が同じ人だと更に楽しい」 と本に書いている。
今井さんが言うように作画の研究会も同じだ。同じ趣味の 人が集まり、話し合うことで、刺激を分かち合えるから 楽しい。しかし、そこに価値観の異なる人が混じると、 そうはいかない。
ある作画研究会での話題。「○○君,このポールは避けて 写すとよかったんじゃない」と提案したら作者が「その ポールに関心があって、モチーフに選んだんだ」という 答えが返ってきた。居合わせた仲間たちとの価値観が あまりにもかけ離れていたので、その場の空気は一瞬、 白けてしまった。このことは、作者と鑑賞者の間の価値観の 違いだ。価値観の違う話題は平行線をたどるだけ、大人 の論理として、正邪を糺そうとすると感情的なもつれが 発生するのを知っているから、話題はそこで打ち切れた。 こうしたケースは良くあることだ。
そのための対処方として、わたしは、プロ野球の優勝 請負人と謳われた名監督・野村克也さんの選手を 3 段階 で評価する方法を思い起こした。すなわち「無視・賞賛・ 非難」である。
野村監督が語る「無視」とは、『全国から集まってくる プロを志す選手は,人と比べようのない能力を持った人 たちである。本人たちもそのことを自認している。しか し、プロの世界は競争が激しい。そこで生き残るために 監督は、選手のいいところに気づいて、その長所をいか に伸ばすかということを考えてアドヴァイスする。そし て本人自身に気づかせ実行させることを考える。だが、 自分の技量を過信する選手はなかなか、そのアドヴァイスを 受け入れたがらない。
本人が、やる気を起こさないなら、無駄なことはしない方がいい。だからそうした選手は無視する』というのである。もっともなことである。
わたし自身,最近ある展覧会に出品するために出品作の 候補を仲間たちに見てもらった。これはいままでの わたしの習性でもある。それは、どの作品にも自分の 思い入れがあって、自分で自分の作品を選びきれない からそうしているのである。
わたしは写真で最も大切で、最も難しいと思っている ことは、カメラの操作でもプリントの技術でもない。
『写真的にものを見る』ことだと思っている。そうして 作り上げられた作品に客観的な説得力を持たせるため の工夫を心掛けている。その工夫の仕方を仲間たちの 目から見て、いいか、悪いか、悪いとしたら、どうす ればよかったかを気づかせて貰うためなのである。
その席である仲間が、「俺はここの処理がチョッと 気になるなー」と言ってくれた。非常に嬉しかった。 なぜかというと、自分でも気になっていたのである。 しかし苦心してやっとその不具合を解決したつもりで いたが、あと一息の努力を惜しみ、妥協していたことを 見抜かれ指摘されたからである。そのように気づかせ てくれる仲間がいることに感謝している。
<いのち尽きて>
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by yumehaitatu | 2013-11-02 18:37 | やぶにらみ | Comments(0)

やぶにらみ 79 堀田義夫   

堀田義夫の「やぶにらみ論法」(79)   

【忘れる力】
 もう50年以上続いている写真の例会に行った。50年以上続いている仲間の集まりだから、メンバーはみんな年寄りだ。だから写真の話もそこそこ、話題は体調に関することが多い。
 その中の一人が、真顔で「最近、物忘れが多くてね」と嘆いた。居合わせた他の連中も「俺もだ」といった発言がしばらく続いた。そして結論は「老化が進めば誰だって忘れっぽくなる」ということで納得して終わった。
 問題はその「納得」の仕方である。「年だから仕方がない」といったあきらめで納得したのか?あるいは「自分だけでない、みんなも同じなんだから…」といって妥協したのか。
 もう一つ、「忘れることは悪いこと」と思っていないか。「忘れてはいけない。よく覚えていなければいけない」と自分に言い聞かせているのではないか。
 子どもの頃、学校では、よく覚えているか、どうか、定期的に試験でチェックされ、忘れることはよくないことだとして育ってきた。だからいまもって、忘れることに対して忘却恐怖症を持っているのだと思う。帰宅してから、そのことが気になって、「忘れること」について考えてみた。
 わたし自身、記憶力にはかなり自信があった。しかし近ごろは信じがたい現象に直面することがある。人の名前がスーと出てこない。顔を見てもどこで会ったのか思い出せない。といった具合だ。
 しかし、家に帰る道を忘れた、あるいは服を着るのを忘れて裸のまま外に出歩いたといったわけではない。名前が出ない、どこで会ったか思い出せない、なんてことは、どうでもよいこと、たいした問題ではないから忘れるのだ。 

 変な譬えだが、部屋の中にガラクタがたまったら片付ける。そしていらないものを捨てるだろう。それと同じで、頭の中がいっぱいになったらゴミ出しをする必要がある。このゴミ出し作業が忘れることなのだ。そうして頭の中に隙間をつくり,新しい知識を入れる場所を確保することが大事だと思っている。 
 いま(平成25年8月7日)夢の配達人展が開かれている。会場で知り合いの人からどんなレタッチをしたのか聞かれ、記憶にあるレタッチの方法を説明した。ところが、その男はさらに、わたしの著書「字余りの人生」の画集を開いて執拗に質問するのである。その中で、わたしが「どうやったか忘れた」といった発言を気にとめ、「忘れないように記録を残していないのか」と詰るような視線を浴びせられた。
 いわれるように大事なことを忘れたでは済まない場合がある。しかしわたしは、「忘却」を味方にして、いままでの手法を忘れること(ゴミ出し)で、新しい手法を考えるのだと思うようにしているから、忘れることに対しての恐怖感はない。
 わたしは「忘却は老化ではない」と思っている。むしろ、忘れて頭の中に隙間ができたら、その隙間を埋める努力をすれば、「歳をとるってことは素晴らしいな、伊達に年をとっていない」と若者に尊敬される老人になれる。だから忘れっぽくなったと嘆くより、積極的に、「忘れる力」を利用しようと思いついた。
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by yumehaitatu | 2013-09-07 18:33 | やぶにらみ | Comments(0)

堀田義夫「やぶにらみ論法」(78) 奇跡を生む資格を取得   

堀田義夫の「やぶにらみ論法」(78)

奇跡を生む資格を取得   
 最近、アドベンチャースキーヤーの三浦雄一郎さんが80才を超えてエベレストに登頂したニュースに接して、その自らの可能性を追求する姿勢に感動した。
 また、当会顧問の渡邊澄晴先生も5月に20㎏に及ぶ撮影機材を担いでニューヨークに取材に行かれた。このことにも驚いた。
 私も先月、田崎龍一・西垣憲明・大嶋丁未子・堀井裕子さんら写友と山形・秋田の県境にある鳥海山周辺の撮影に行った。
 田崎さんのお骨折りで遊佐町の観光協会の職員が終日撮影地の案内をしてくれた。夜は役所の企画課・教育委員会・観光協会・ハンガリー友好協会山形県支部事務局長など多くの方と会食し歓談する機会も得た。その際、当日の撮影を案内してくれた観光協会の職員が私の年齢を知って、とても信じられないと大変驚いていた。
 こうしたことを考えると、人間の脳細胞には80才を超えて何か行動を起こすと、人に感動を与えたり、行動力に対する驚き、尊敬するという図式が組み込まれているように思える。
 もしそうだとすれば、80才という年齢に達すると、何をやっても奇跡を生む年代ということになる。言い換えると「奇跡を生む資格を取得」したということのようだ。
 ところで、シニアエージにとって写真という文化は親しみやすいせいか、多くの仲間に恵まれるが、長寿社会になった現在ではその幅は広い。定年を迎えシニアエージの仲間入りしても、60代はどうして良いか中々馴染めない。いってみればシニア「年少組」である。周辺に気を遣いながら見よう見まねでシニア生活に溶け込んでいく時期だ。
 70代は「年中組」に成長に、年少組の面倒をみる立場になる。やがて80代になると卒業{終末活動期}の道を歩むようになる。
 そうした考え方が一般的図式だろうが、私は、冒頭に掲げた三浦雄一郎さんの「自らの可能性を追い続けようとする生きざま」を見習いたい。あるいは、詩人の坂村真民さんに「人間いつかは終わりが来る 前進しながら終わるのだ」という作品があるように、理想としてはそうでありたい。と思っている。
 ところで三浦雄一郎さんの登頂の第一声は、「私が登ったのではない、サポーターの人たちの力が、私を登らせてくれたのだ」と聞いて、周辺の人たちへの感謝の気持ちを表したその言葉にまた感動した。
 渡邊澄晴先生も「かつての友人がニューヨークで活動していて、私の渡米のサポーターをしてくれるというから、50年ぶりの取材の決心がついた」と語っておられるが、まさにその通りで、奇跡を生む資格を得たからといって、自分一人の力では何も出来ない。
 私も今回の鳥海山周辺の撮影では前出のサポーターたちの励ましで実現したと思って、感謝している。ただ、「奇跡を生む資格取得者」という免許証には、権限・権力の行使権は付与されていない。だからシニアエージでは70代すなわち、「年中組」がいちばん威張ってすべてを取り仕切らねばならないのである。
<遊佐海岸16羅漢>
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by yumehaitatu | 2013-07-06 22:07 | やぶにらみ | Comments(0)

堀田義夫「やぶにらみ論法」(77) 出会いに感謝   

出逢いに感謝
 老いを楽しく生きるために、出逢いの機会を作る努力をしよう。そう思っているので、先月、現職時代のOB会へ出席したが、期待はみごとに裏切られた。
 当時、尊敬していた先輩・同僚が賞味期限切れの、ただの年寄りになっていたのです。賞味期限の切れたモノは捨てるか、買い換えるかしかない。捨てれば自分の周辺から仲間がどんどん減ってしまいます。買い換えるとは新しい出逢いを求めることです。
 過日、本会の幹事長の西垣憲明さんが中心となって「みんなの写真展」という展覧会に参加しました。16団体・約300人の出品者で規模としては、全国に類を見ない規模ではないかと思います。その諾否は別にしても、観客に好評のようでした。出品者の感想は、「他の団体の活動に啓発された」「趣味を通じて新しい人との出逢いを得られた」ということでした。
 「出逢い」というと人との出逢いを思いますが、そのきっかけとして、写真を趣味にしたことが役だったと思うのです。だから趣味は出逢いの道具です。そうして得られた新しい仲間は、新鮮な刺激を与えてくれます。
“生きざまは みんな違って 趣味の友” という川柳を目にしましたが、この川柳のように過去の生きざまは違った人の方が刺激になります。冒頭に書いたように、同じ釜の飯を食ってきた職場の先輩や同僚は賞味期限切れで刺激を与えてはくれません。
 年を取ると「出逢い」の機会は極端に減ります。だから私は積極的に出逢いの機会を得ようと努力してきたが、加齢とともに体力的に厳しくなりました。
 その難問を解決しようと、過去に撮影した写真の整理を始めました。いま流なら「終活」というのでしょう。自分の写真が一度発表するとそれでお終い?では、あまりにも軽い。そんな気がしたからです。
 書物だって、一度読んでら全部分かる本なら、読まなくてもいい。何度でも読み直そう、読み返すたびに、新たな刺激や目覚めを与えてくれような本は、名著なのだ。そんな写真が作りたい!そう思って毎日パソコンの前に座って頑張っています。
 写真はモノを克明に描写して、現象のある一瞬を定着する機能を持っている。その結果、写した写真はデーターとして「現実と等価なもの」と学習してきました。
 しかし一方で写真は自分がいて、被写体があって、それを写真に撮ったものをプリントして改めて見る。言い換えると、自分自身のモノを見る目を考える道具として「写真家の意志や主張」を表現します。写真は視覚的なことだが、作品には作者の心理的、精神的なモノが必ず関わってきます。だから写真は「目の哲学」と思っています。
 そうした意味では、本研究会には“旬”の作家が多く、いまさらのように出逢いのありがたさに感謝しています。
「サイコロ石」
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by yumehaitatu | 2013-05-04 22:39 | やぶにらみ | Comments(0)

堀田義夫の「やぶにらみ論法」76 リバースコーチを求めて   

【リバースコーチを求めて】堀田義夫
 古い友人に「60才以上になったらリバースコーチを作れ!」といわれたことがある。耳慣れない言葉なのでその意味を聞いてみた。
 【リバースコーチとは、自分を教え導いてくれる年上の人ではなく、若くても未熟でも新しい刺激を与えてくれる人、自分の知らない世界を教えてくれる人のことをリバースコーチと呼ぶ】のだ、と教えてくれた。
 なーんだ、そんなことならすでに実行しているわい! とそのときは軽く聞き流していたが、最近になって、自分の考えがいかに軽く、表層的だったかを思い知らされた。
 安倍晋三総理のおじいちゃんの元総理大臣の岸信介さんは、「年を取ったら風邪ひくな、転ぶな、義理を欠け」と名言を残している。体調と相談しながら、いただいた展覧会の案内状から、誠意や意欲のくみ取れない展覧会には義理を欠くことにしている。
 また、案内状の受け止め方もある。出品者の顔ぶれで、どの程度のレベルの展覧会かを自分勝手に推測してしまうことだ。また、仲間の評判にも耳を傾けて決断する。
 出品作家にとっては、「昨日よりは今日!」、「前回よりは今回!」といった意気込み(中にはそうでないものもあるが…)があるのだろうから、こちらの姿勢にも、過去のイメージで、鑑賞しないうちから、勝手な思い込みは失敬な話ではある。
 ところで、体調を崩す前まで、20数年間、一緒に月例会をひらいて勉強した人たちの展覧会に伺った。出品作の中に、昨年秋に一緒に行った奈良の撮影会の作品があった。撮影技術、レタッチとも非常にすぐれていて、その作品を見て、自分の力量の乏しさ、表現力の拙さ惨めさを実感した。
 この惨めさは「若いもんなんかに負けるかい!」といった思い上がった気持ちが私にあったからだと反省している。素直に自分の拙さを認め、若くて新鮮な刺激を与えてくれた作家とその作品をリバースコーチとして頑張るしかないのである。
 もう一つ印象に残った展覧会は、写歴5年くらいの経験しか持たない作家だが、発表のたびに注目してきた。
 この作家は、東南アジアを舞台に作画活動しているが、その取材量の広さ、知識の豊かさに圧倒さる。またモチーフの選択、コンセプトの明快さなど、人生の源資(知的経験の豊かさ)か私にとってのリバースコーチであることに気づかされた。
 写真の世界では、写歴の長さを自慢する輩が多い。写歴が長くても作品が発するメッセージが読み取れない自称・先生が跋扈し、リバースコーチの存在は認識したがらない世界だと感じる。
 私は日頃「共育」ということを標榜し、「若いから」「経験が浅いから」、といったことを本当に意識しないで、リバースコーチを求めていたか、いま改めて心の底から思っていたかを反省している。
 これからは、真剣にリバースコーチを求めて、人生を前進しながら終わりたいと思った。
<どぶ板通り>
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by yumehaitatu | 2013-03-09 21:58 | やぶにらみ | Comments(0)

やぶにらみ76 堀田義夫   

センスは誰にでもある!
 
 先日仲間たちと奈良に撮影に行った。行き帰りの車内では、写真談義に花が咲いた。そうした中で、「私にはセンスがないから……」と自分を卑下したような発言を耳にしたのです。
 だが、本当に自分にはセンスがないと思っているのだろうかとチョッと淋しい気がした。あるいは本当は、本心からは、そう思っていないのかもしれないという気もした。センスということはそれほど手に入れることが難しいのか。
 だいたい「センス」という言葉にはどんな意味合いが隠されているのだろうか?辞書をひいたら『微妙な味わいを感じ取る力』とでていた。
 私たちが写真を撮るとき、当たり前のものをじっくり観察して、「微妙な違い」「チョッとした違和感」を見つけて作画するでしょう。周りの人には「普通のもの」が、本人にとって「特別な何か」に見えるといったことがある。まさに「人と違うセンス」なのです。だから、センスのない人なんか、いないというのが私の持論です。
 先日、森光子さんの訃報をテレビで知った。そのとき思い出したことが、片平なぎさという女優が初めて主役を演じることになったので、大先輩の森さんに、どんなことに気を付けて望むべきかと尋ねた。森さんは「台本をよく読んで、その台本のどの部分が気に入ったか? もし気に入った部分が見付かったら、そこをどのように演じるかを真剣に工夫しなさい。すべてを巧く演じようとすれば、するほどお客さんは疲れてしまうから、自分が気に入った部分に、全神経を集中させて演じなさい」とアドバイスされたという話が伝えられている。
 この話は印象的で、写真の世界にも通じると思ったので、私の「夢ノート」に記されている。
写真経験が長くても、なかなかセンスの磨かれない人は、「被写体に写真を撮らされている」からです。もし、目の前にある被写体に自分の心を結びつけて、自分の気持ちを大切に、「楽しかった」「面白かった」「不思議だった」「美しかった」といったことを、どのように伝えようかと努力すれば、その人なりのセンスは磨かれるのです。
 作品ならば、作者は「作為を伝える最低限の努力をする」ことを心がける。そうすれば、その人なりのセンスは磨かれるのです。写真は巧く撮ることも必要だが、「気持ちの伝え方」はもっと重要だと思っています。
 センスの磨き方にはいろいろあるだろう。今回のように仲間と撮影を共にする場合などは「こんなもの見つけたよ!」とか「これなんだろう?」と楽しく会話を重ねながら、自分の欠けている部分を補うことが出来る。この仲間との刺激がセンスを磨く上ではいちばんの決め手であるようだ。
 もう一つ大事なことは、「思い切り」が肝心。私は今回の撮影にマンネリ化した視覚経験から抜け出したいと思って、風景写真はすべて16㎜の超広角レンズで写す!といった使用機材を制限し、限られた条件で撮影をした。これもセンスの磨き方かと思って実行したのである。
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by yumehaitatu | 2013-01-12 23:59 | やぶにらみ | Comments(0)

やぶにらみ74 『しなやかに自分流を貫く』 堀田義夫   

 『しなやかに自分流を貫く』
 写真サークルで撮影会に参加したときのことだが、バスの中で幹事さんから 「今日の撮影会についてアドバイスをお願いします」 といわれた。確かに撮影会に参加したとなれば 「上手な写真を撮りたい」 と思うのは当然です。しかし私は写真のウデを上げようと頑張ったのは、撮影から仕上げまでの技術が難しかった時代のことで、そうしたことがすべて容易になった今日では、ウデ自慢は流行らないと思っています。
 だから 「現場に立ち会わなければ、何をアドバイスしてよいかわからない。とにかくフィルムの時代と違うのだから、自分がよいと思ったら、バンバン撮ることです」と曖昧な話しか出来なかった。 自分が良いと思ったらバンバン撮ることだといったのは、私は「撮ろうかどうか迷ったとき、先ずシャッターを切る」ということにしています。このことは、以前にある場所を、撮っておくべきかどうかを迷った末、結局撮らなかったことがあったのです。ところが、後日作品集を作るときに、その写真があれば構成に役だったのにと、悔やんだことがありました。後の祭りです。そのことがあって以来、「迷ったときは撮る!」と決めたのです。
 デジタルカメラは小さなカードにフィルムなら10 本分くらいの写真を写し込むことが出来るのだから、迷っていてはもったいない、どんどん撮っておく方が良いのです。
 よく、被写体をしっかり観察して撮る。ということがいわれます。たとえば、花の写真を撮るとき斜光線を選ぶか逆光線を選ぶか、カメラアングルをどうするか構図はどうするか、主題に対して背景をどう処理しようかといった、上手に撮るために画面構成考えることを 「観察」と思われているようですが、そうではないのです。何が被写体であれ、そういったことは、いかに上手に画面構成を纏めるかの工夫であって、「観察」ではない。「観察」とは、被写体の何を写真化するか、そこからいかに想像力を膨らませるかということだと思っているからです。
 私は 「撮影会」 というのは旅行気分でその場のそのときの発見だと思っています。そうした意味で撮影会というのは私にとっては、いつも小さな探検家気分にさせてくれます。
 「おっ、面白いところを見つけたね」 「こういうのって、ふつう撮らないよ」 「でも、何となく気になるなあ」「チョッと抽象的だけど、そこがいいのかもね」「この写真、なんか変な写真だけど、いいんだよなあ」「想像力をかき立てるっていうか、詩を読むって気分になる。そういう魅力があるよね」と仲間たちに言ってもらえる写真を撮りたいと思っているのです。
 だから、私には被写体を説明しているだけの写真はつまらないのです。ところが人に言わせれば、私のような写真は独りよがりの写真で、良くないという人がいますが、私は独りよがりでいいと思っています。それが個性につながるのです。個性を感じられない写真は、他人も面白がっちゃくれないと思うからです。
ですから、冒頭の 「今日の撮影会についてのアドバイス……」 という幹事さんの依頼に対して曖昧な話しか出来なかったのです。傑作を撮ろうなんて思わずに、しなやかに自分流を貫くことをお勧めします。
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by yumehaitatu | 2012-11-03 23:57 | やぶにらみ | Comments(0)

堀田義夫の「やぶにらみ論法」73   

“おまけ”を手に入れる

 完璧だと思っても、もう一押しすれば、おまけが手に入る。 そう言ったのはトーマス・エジソンだ。
それを最近実体験した。
 50年以上指導してきた写真グループが展覧会を開くので賛助出品してくれと言う。そして出来ることなら簡単なレタッチで、作品を作ったものが好ましいと注文がついた。
そこで、過去に写した作品の中から、平成12年、オリンパスのカメディ200万画素のコンパクトデジカメで写したものを選んだ。
 レベル補正でトーンを整え、コントラストの補正のため、トーンカーブでS字カーブ・あるいは逆S字カーブと、いろいろ試みたが思うような結果が得られなかった。諦めかけてトーンカーブを滅茶苦茶にいじくり回していたら、思いもかけない効果に出逢った。それが「茜空」だ。
 やけのヤンパチでやった遊びの結果である。思わぬ効果に出逢えた嬉しさで、しばらく、こうした手法の作品を作っていた時期があった。
 だが、このようなソフトの効果に溺れて生まれた「結果オーライ」の作品では心許ない。以降は、こうした作品はお蔵入りになってしまっていた。
 とはいっても、私自身は、こうして偶然に手にした経験を否定するものではない。むしろ積極的にそうした機会を持ち、イメージの拡幅につなげることは必要だと思っている。だからこの「茜空」は、私の中の気に入った作品の一つとして、たびたび登場する。
 ところで今回、簡単なレタッチで思わぬ効果を得られるということで、出品候補に取り上げた。
だが、考えてみれば、それはソフト効果の結果であって、私の作意が反映された作品だとはいえないことに気づいた。
 満月に浮かび上がった五重塔の姿をイメージし、トーンカーブで再度レタッチして生まれたのが、今回の「満月の夜」である。「茜空」がソフトの効果で生まれた作品なら、「満月の夜」は想いが、さきに生まれ、手段は後からついてきたのである。もう一押しすれば、おまけが手に入ると言った、エジソンの言葉を実感している。
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by yumehaitatu | 2012-09-01 21:14 | やぶにらみ | Comments(0)

堀田義夫のやぶにらみ論72 教えすぎない!    

教え過ぎない!
 『子どもを不幸にする、いちばん確実な方法をあなたは知っているかい。知らなければ教えてあげよう。それは、いつでもなんでも、手に入るようにしてあげることだよ』といったのは、スイス生まれの思想家・ジャクソン・ルソー(1712~1778年)です。
 冒頭から変な書き出しになってしまったが、自分自身の後ろすがたを見た思いがしたのです。仲間たちと話しているとき、ついつい夢中になって、教え(錯覚だが…)過ぎているようだった。
教え過ぎるということは、決して本人のためにならない。 
 教え過ぎは『感じる力』を奪ってしまう。本人が気づく前に答えを教えられても、本人に聞く耳がなければ何にもならないのです。『過ぎたるは及ばざるがごとし』のことわざの通りなのです。
 ところが、いままでの自分自身を省みると、心に余裕がないから、ついつい自分の知っていることや経験を押しつけてきたのではないか。指導者というより、支配者だったのではないか。と反省する。 そうして指導の理想的な姿はどうあるべきかを考えて得た結論が、『指導者とは気づかせ屋』 に徹することだと。
 最初から自分の知識や経験を押しつけ、答えを用意するやり方は好ましくない。あくまで本人自身に『気づかせる』ように仕向ける。そして、本人に足りないものを身につけるための方策を、探して支援することが大切な役割で、それが使命だと気づいたのです。

貪欲に教われ! 
 難解なソフトをつかって、巧みなレタッチを試みられるように、最初から何でもかんでも教えようとすると、教える方も教わる方も疲れてしまう。また、それでは自ら考えようとする意志を奪ってしまうことにもなる。
 しかし、教わる側にもそれなりの姿勢は要求される。新訳聖書マタイによる福音書のなかで『求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。門をたたけ、さらば開かれん』
 すなわち、求めなさい。そうすれば欲しいものは与えられます。探しなさい、そうすれば探しているものは見つかります。門をたたきなさい、そうすれば入りたい門は開かれます。自ら行動を起こさなければ、何も得られません。というように、教えられる側は積極的に行動を起こさなければ何も得られないのです。指導者が教え過ぎ警戒するなら、教わる方は貪欲に教えを引き出そうではないか。
人間は『考える』『体験する』『表現する』ために生きている。年齢、環境、状況が変化する中で、夢を持ち、挑戦し続ける。そして最後まで現役にこだわりつづけたいと私自身は思っている。
                「 悲 恋 」
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by yumehaitatu | 2012-07-08 10:45 | やぶにらみ | Comments(0)