堀田義夫の「やぶにらみ論法」55   

推敲の勧め
 私のもう一つの趣味は絵を描くことですが、その先生が、「写生とかスケッチが自分の背の高さ位の量や経験を踏まないと満足な絵は描けない」と常に修練を積むことを勧めます。
 それでいて、「絵はいくらスケッチがうまくても、写生が上手でも、それを作品とはいわない。写生やスケッチは作品を生むための手段であって作品とは別だ」と矛盾したようなことをおっしゃる。
 友人に俳句をたしなむ人がいて、一句が作品として完成するまでにはいろいろな手順があるという。たとえば吟行に出かけたとき、いきなり完成した作品が生まれるということはなかなか難しい。譬えできたとしても、後になって納得がいかなくなることがよくある。だから一句を作りっぱなしにしないで、必ず見直すことがとても大切なのだと語っていました。
 この両者のご意見を整理すると、技術力習得のための努力は大切だが、それだけでは納得した作品にはなりにくいということでしょう。
 写真の場合は特にそうです。「よい被写体や条件に恵まれ感激してシャッターを切って、後はラボに任せ、出来上がったプリントを選んで、ハイ!それまぁでよ~」といった傾向が横行しています。そこで、絵でも俳句でも後でいろいろ考えを練り上げるように、写真も自分の表現しようと思って考えていることをもっと大切にしてみてはどうだろうか。
 私は自分の作品を見直し検討したり練り上げることを気障ったらしく「推敲」すると人に話すことがあります。「推敲」というのは主に文学の分野で使われますが、その考えは写真にも当てはまることだと思います。
 それでは自分の作品を「推敲」するとき、どのようなことに留意するかといいますと、おおよそ次のようなことです。
① 既に評価の定まっている作品のなぞりで満足していないか。
② 事物の説明をしようとしてトリミングに甘さがないか。(ルポ的な写真なら別だが…)
③ 旧来の経験的な見方、考え方から脱して、新しさに挑む姿勢が見えるか。 
④ 新しいメカニズムが生み出した新しい表現領域の獲得に応えられたか。
⑤ 技術力・技能力に溺れていないか(アーチストではあってもアルチザンではないんだから…)
⑥ 作家としてのオリジナリティが打ち出せたか。
想いが込められたか。
 今年の「夢の配達人展」の私の作品を見た人が、「ずいぶん時間がかかったでしょう?」と呆れ顔で質問した人がいた。たしかにそうした意味では「推敲」を重ねることは時間はかかるかも知れない。撮影してから10数年たったものもあるんだから…、 しかし、時間が問題なのではない。「推敲」を重ねることによって、よいと思われる作品にする努力が必要なのではないかと思っています。
<温暖化>
f0018492_23283339.jpg

    

by yumehaitatu | 2008-11-01 23:28 | やぶにらみ | Comments(0)

<< 2009年1月研究会  写真雑学 ライティングⅡ 渡辺澄晴 >>