堀田義夫のやぶにらみ論法 ~カビ生えた概念から脱却~   

~カビ生えた概念から脱却~
 仲間たちが昨年末「堀田義夫のいま」展を開いてくれた。「なにもいまさら……」と思ってはいたが、やってみればいろいろ勉強になった。その中からいくつか私の考えと違う意見を紹介してみよう。
 その① 「写真としては作りすぎじゃないの?」
 ある洋画家が言ったことだが、私は「絵空事」という言葉をこの人は知っているのだろうかと思った。絵画は画家の作意が加えられ、実物そのものの説明として描かれるのではない。
 写生とかスケッチをタブロー(フランス語で習作ではない完成作品をさす)とは言わない。写真に作意が加わることを否定するようではアーチストとして失格と断じたい。
 その② 「これって写真なの?」 といった反応も多かった。
それは「写真」という字句から真実を写すから写真。嘘がないから写真。といった概念が邪魔するのだろう。それは写真の特性の一つかも知れないが、欧米ではフォトグラム(光りで描く)と呼ぶ。私は光で描くことを主体に作品を作ったから仮に写真に分類しているだけだ。
 絵画でも板きれや新聞紙を貼り付けた作品や布を貼り付けたもの、音楽でも尺八とオーケストラのコラボレーション(共同・協力)といったように、異分野とのコラボレーションで新しい表現を試みることなどが現代の傾向である。文明の豊かな恩恵を受けて、新しい表現を開拓して行く姿勢こそ問われるのではなかろうか。
 その③ 「ずいぶん時間がかかるのでしょうね、私なんかにはとてもやっていられない世界」といった声もあった。
写真はシャッターを押して、ラボに画像処理を委ねて、そこからなんとか見られる写真を選んで、「ハイ!それまでよ!」といったことで満足感を味わっている人にとっては、確かに「時間」というのは大問題なのだろう。
アンセル・アダムスという写真家は「ネガは楽譜であり、プリントは演奏である。それらを巧みに演奏することは作者の感性だ。写真家が他のアーチストと同じように作品に時間を惜しまず制作に没頭すれば、もっと面白く可能性のある仕事ができるはず」と述べている。 
 また過日、横濱そごう美術館で切り絵作家・藤城清治「光りと影の世界展」を見た。現在83才という高齢にもかかわらず、ある作品の立木の葉っぱだけを6万枚切り抜き、2年の歳月を要したということを知った。
 別に時間をかけたから良いとはいわないが、自分の想いを作品に封じ込めようと思えばある程度の時間がかかるのはやむを得ない。その時間が惜しい、嫌だという人は、言い替えると自分の作品を自分で作ろうとせず、他人の力で自分の想いに比較的近い作品を選んでいるだけなのである。
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by yumehaitatu | 2008-02-02 23:29 | やぶにらみ | Comments(0)

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