堀田義夫の「やぶにらみ論法」(40)   

 ~教え上手と教わり上手~

先日、当会恒例行事の一泊撮影会で、バスに隣り合わせた写友と四方山話に花を咲かせいていたら、思わぬ言葉を聞かされた。それが今回のテーマ「教え上手と教わり上手」である。
 「教え上手」についてはいろいろ話題になったり、考えることもあったが、「教わり上手」ということを強く意識したことはなかったので驚いた。
 私は「教え上手」は、教える内容が「易しく・分かり易く・聞く人のためになる」ことが条件だと思っている。また、「教えることは、知識を教えるのではなく、感性を育てること」とも思っている。
 知識なら、それに関する本を買って読めばそれで済む。知識を教えてくれと望まれても、浅学非才な私には向かない。それより、その人が写真というメディアを選んでどんな感性で作画しようとしているのか? その悩みは何かを見いだし、適切なアドバイスをしながら大きく育てることができたら理想と考えている。

 よくアマチュアの例会などで耳にすることだが、「私だったら、こうする!」と会員の作品に対して自分の経験を押し付ける人がいる。これは全くナンセンスなことだ。教わる人の考えを無視して、自分の考えを押し付けて、自分のコピー作品をつくらせてなんの意味があるのだろうとつい思ってしまう。こうした指導者はたいてい長いこと写真の技術面に携わっている人に多い。「ピントがいい・構図が素晴らしい・色が見事に再現されている・シャッターチャンスが的確」といった写真が持っている特性を重視の指導をしている。こうした指導者を私は支配者型指導者だと思っている。これからプロを目指そうとする人に対する指導ならそれでもよいだろうが、アマチュアは誰のためでもない。自分自身が納得する作品を生み出したいのである。そのためには、作者の「想い」「考え」を表現するためのアドバイスこそ必要なのである。

 ところが、これと同じように教わる側にも問題がある。「先生!どこを撮ったらよいか解らない」とか「なにを撮ればよいでしょうか」という質問に出会うことがある。こうした人たちが求めている指導者は、明らかに私が思う「教え上手」の指導者像とは違う、支配者型指導者なのである。
 言いかえれば、こうした支配型指導者を求める人たちは「教わり下手」なのである。 自分のためではなく、先生にほめてもらう、あるいは先生の気に入る写真を写したいからと思っているのだろう。
 また、「教わり下手」の代表格は言い訳をする人だ。 「だって! でも…」という人はすでに、相手のいうことを拒絶しようという心が潜んでいるのである。だから、こうした人に対しては真剣にアドバイスしても徒労に終わる。
 「なる程の心 八方に拡がる」といわれるように、人の話に、なるほど、なるほどと耳を傾けられない人は、頑なな考えしかできない人だから、どんなにいいアドバイスしても無駄なのである。趣味で写真を楽しむのならこの「教え上手と教わり上手」を心がけようではないか。
<白い巨塔>国立新美術館
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by yumehaitatu | 2007-08-08 09:14 | やぶにらみ | Comments(0)

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