堀田義夫の「やぶにらみ論法」(39)   

落ちこぼれ

 コンテストの審査で、相方の審査員の写真に関する考え方の閉鎖性と幼さに腹立たしさを覚えた。
 私は常々「写真という技法を通して、自分の感性の琴線に触れた想いを封じ込める」ということを口にするから、おそらくそのことが気に食わないのだろう。
 相方は「私は堀田先生の考えと少し違い、写真だから、あまり手を加えたり、個人的な思い入れを強く盛り込むことに賛成できない」というのである。
 要するに見たままを客観的に、ピントよく、色よく、あるいは、なんて間がいいでしょうといったシャッターチャンスを生かした写真がいいのだというのだろうか。脳天気にもほどがある。こんな審査員や指導者が跋扈していたら、アマチュア写真界はだんだんレベルが低下すること請け合いだ。

 写真というから「真を写す」と思ってしまうのだろう。英語では我々がいう写真のことをPhoto-Graph(フォトグラフ)すなわち「光りで描く」。普通は写真をPicture(ピクチャー)という。
 どこにも「真を写す」なんていう意味は読み取れない。写真術であれ、カメラであれ、人間の表現意欲を満たすための道具なのだ。
 いま、アマチュア写真界は、写真ということにこだわるアルチザン(職人)といわれる人種と、カメラを使って作品を生むアーチスト(芸術家)に二極化している。前述したコンテスト審査の状況がそのことを立証しているのだ。こうした二極化が写真文化の閉鎖性を招いているのである。

 現代絵画と写真、版画と写真を結合した作品も目立つ。異文化とコラポレーション(共同作業)することによって新しい価値観を生むことは現代の流れだ。
 いままでは携帯電話にカメラ機能がついていたが、最近ではデジカメに携帯電話機能がついた商品まであらわれた。これら新しい文化は積極的に対極にあるものを取り込もうとしている。閉鎖的な写真界の現状とはあまりにも違う。
 
 写真界のように停滞社会だと、経験の長いもの地位が高い。やがて写真界も変動社会に好むと好まざるとに関わらず突き進むであろう。そのとき技術革新に追いつけない過去の長い経験だけの指導者は落ちこぼれてゆくことになるのだが、気がつかないのだろうか? あるいは、気がついているから現状の閉鎖性が長く続くことを願っているのだろうか? 
 当研究会の会員は、いままで味わったことのない変化と経験を積極的に味わいお互いに落ちこぼれないように努力しようではないか。
<筆者作品「南南西の風」>
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by yumehaitatu | 2007-07-07 22:30 | やぶにらみ | Comments(0)

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