やぶにらみ論法」(27) お任せ人生からの脱却   

堀田 義夫の「やぶにらみ論法」(27)
お任せ人生からの脱却

  21世紀は、もしかしたら20世紀の常識がすべて非常識になる時代かも知れません。
すでに「女は度胸、男は愛嬌」「子はかすがいに非ず」などといった逆転現象が多数起きています。
自分の亭主や男を保険金目当てに殺す、我が子をしつけと称して死なせてしまう。といったことが日常茶飯事です。
こうした時代の流れに中で「自分のことを自分で決める」ことも時代遅れになりそうな雲行きです。というのも、昨今ライフコーチなる職業が年々隆盛を極めている傾向があるからです。
これまで悩みや心の傷は精神分析医のカウンセーリングを受けるのが普通でした。それがテレビなどを見ていても、怪しげな女占い師や元○○大統領夫人といった連中が、もっともらしくライフコーチの役を果たしています。
ところが問題は精神分析医のような研修を受けている人ばかりではないということです。
しかし、個人的相談に乗るのに資格認定はいらないというのならそれもよいでしょう。そうしたことが安易にライフコーチなる職業を隆盛にさせている要因になっているようです。
こうした風潮は趣味の世界にも確実に浸透しています。ちょっと写真のことを知っているから、あるいは経験が人より長いからといった人たちがライフコーチとして君臨しています。「お任せ族」にとっては、非常に便利な存在なのです。
私も仕事柄、写真クラブの撮影会によく同行を求められます。ところがそこでの評判はすこぶる悪いのです。
その理由として「堀田は撮影の指導をするより、自分の写真を撮っている」ということにあるらしいのです。
  お任せ族の言い分を聞いてみると「なにを撮っていいか分からないのになにも教えてくれない。○○先生は三脚にカメラをとりつけファインダを覗かせて、このように撮れば構図はいいし、よい写真が撮れると教えてくれる」と比較される。
なるほどそういうことかと納得した。ところが、「なにを写したらいいか分からない人」に三脚にカメラをセットしてファインダをのぞかせ、こう撮るのですよ」といったら、誰の写真なんだろう。結局ライフコーチに頼るという 「お任せ人生」そのもので満足するように慣らされてしまっているのでしょう。
昔は写真を写すために、いろいろ技術的な制約が ありました。たとえばピント合わせ・被写界深度の活用・適正露出・フィルターワークといった撮影技術です。それらのことは自分の蓄積した経験で指導することができました。
ところがいまのカメラで撮影しようとすると、すべて「お任せ」で済んでしまう。いうなれば使う側がそうした「お任せ仕様」を望んでいるからです。
最近のカメラにはピクチャースタイルとかいう機能を搭載し、「風景」は鮮鋭に鮮やかに「人物」は肌色の再現性に重点を置くなどといったことがカメラ任せで、できてしまう。だから、撮影に関する技術的な指導はほとんど必要がなくなってしまったのです。
このことを言いかえると写真術はもうメカがカバーしてくれるのです。写真をメディアに表現活動をするのなら、写真的にモノを見る目を養うことが肝心だと思うのです。
先日、当研究会の一泊撮影会が伊豆半島で行われたとき、ある会員から蜘蛛の巣にたまった水滴を見て、「私には宝石のように見えるのだけど、そのための工夫はありますか?」という「自分の表現したいことを具体的にイメージした」質問に接して嬉しかった。
  また、ある会員は私が撮影しているのを見て、「なにを思ったり、感じたのですか?」と撮影者の心の内を探るような質問もありました。このことも私の心に響きました。
  撮影会は仲間と一緒に撮影を楽しむということもありますが、同時に仲間に触発されて「写真的にモノを見る目」が養なわれたり、あるいはモノの見方を盗むことができるのです。
作品創造の秘密を、版画家の池田満寿夫は「天才は天才的に剽窃する」といっています。質問をした仲間は、決して「お任せ人生」などに流されないと、心強く思いました。

<松崎の「なまこ壁の屋敷」を当日の情景から「雨でも降った夕景だったら似合うだろう」と、その思い入れを画像処理で表現しました。>

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by yumehaitatu | 2006-07-02 00:33 | やぶにらみ | Comments(0)

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