やぶにらみ論法 「パクリの勧め」 (92号) 堀田義夫   

やぶにらみ論法 「パクリの勧め」 92号)

最近のニュースで気になる出来事があった。それは2020年に開催される東京オリンピックに使われる予定だったエンブレムがパクリ(模倣・剽窃)という疑念を持たれて、白紙撤回されたことである。

 佐野某というクリエーターはテレビ局のインタビューに「わたしはアーチストとして、いままで一度もパクリなどやったことはない!」とコメントをしていた。それを聞いてわたしは、この人はバカか?と思った。

 わたし自身、作品を作るとき、無意識のうちに既視感(いつかどこかで見た)が働く。人間の持っている感覚、知性、といったものは生まれたときからあるのではなく、伝統から学んで身につけたものの筈だ。

 だから、ものを作り出すと言うことは厳密な意味では、模倣を前提に進化や変貌を遂げてきたと思っている。

 パブロ・ピカソですら「芸術に進化はない。あるとすれば、バリエーションである」と言って、自身の作品の変遷には、周辺の作家たちから影響を受けたと認めている。

 それに関わるエピソードとして、モンパルナスの丘をピカソが散歩する時間になると、多くの画廊が店のシャッターを下ろしてしまうのだそうだ。

 理由は、画廊主が有能な作家を育て店に飾ってある作品を、ピカソには見せたくないからだ。なぜなら店に飾った新人の作品をヒントに、ピカソが一歩先の作品に仕上げて発表されたらそれまでの苦労が水の泡になってしまうからだというのである。

 世界的な版画家であり、芥川賞作家でもある池田満寿夫氏は、「すべての創造は模倣から出発する。その創造のための模倣が、創造的模倣でなければならない」と言い、優れた芸術家の仕事はその盗み方に創造の秘訣、あるいは独創性が隠されている。すなわち、天才は天才的に模倣し、剽窃すると言っているのだ。

 情報社会が進化したいまでは、隠されていたいことまで瞬く間に発掘されてしまう。その点では、佐野某氏は、模倣の手法が幼稚すぎたとわたしは思う。

 わたしの旧著「写真三昧50年」に、模倣万歳という一項を載せているが、「文化」というものは、物まねを通じて受け継がれていくものだ。その段階で、独創性を開花させればいいと書いている。

だが、ここで視点を変えて考えてみると、自分の頭の中で想いあぐんでいて、そのアイデアが固まらないうちに、完全ではないにしろ自分のアイデアと同類のことを一足先にやられたときは、がっかりする。

 あるいは同じようなことを両方で知らないうちにやっていたという場合もある。自分がやりつつある計画やスタイルを、後ろから走ってきて、こちらの計画を土台にして新しく発展させてしまう場合もある。模倣され、盗まれたときの苛立ちは図りきれないものがあろう。そうしたねたみや恨みが、訴訟問題に発展してしまったとも言える。

 だが、藤田嗣治は自伝の中で、ピカソが自分の作品の前に30分も立ち止まっていた、彼は自分から盗んだと、反対に盗まれる喜びの声を上げている。そうした寛容さはあっていいと思うのである。

いろいろの考え方があるだろうが、わたしはパクリを勧め、自分でも積極的に実践している。
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by yumehaitatu | 2015-11-07 17:00 | やぶにらみ | Comments(0)

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