やぶにらみ 79 堀田義夫   

堀田義夫の「やぶにらみ論法」(79)   

【忘れる力】
 もう50年以上続いている写真の例会に行った。50年以上続いている仲間の集まりだから、メンバーはみんな年寄りだ。だから写真の話もそこそこ、話題は体調に関することが多い。
 その中の一人が、真顔で「最近、物忘れが多くてね」と嘆いた。居合わせた他の連中も「俺もだ」といった発言がしばらく続いた。そして結論は「老化が進めば誰だって忘れっぽくなる」ということで納得して終わった。
 問題はその「納得」の仕方である。「年だから仕方がない」といったあきらめで納得したのか?あるいは「自分だけでない、みんなも同じなんだから…」といって妥協したのか。
 もう一つ、「忘れることは悪いこと」と思っていないか。「忘れてはいけない。よく覚えていなければいけない」と自分に言い聞かせているのではないか。
 子どもの頃、学校では、よく覚えているか、どうか、定期的に試験でチェックされ、忘れることはよくないことだとして育ってきた。だからいまもって、忘れることに対して忘却恐怖症を持っているのだと思う。帰宅してから、そのことが気になって、「忘れること」について考えてみた。
 わたし自身、記憶力にはかなり自信があった。しかし近ごろは信じがたい現象に直面することがある。人の名前がスーと出てこない。顔を見てもどこで会ったのか思い出せない。といった具合だ。
 しかし、家に帰る道を忘れた、あるいは服を着るのを忘れて裸のまま外に出歩いたといったわけではない。名前が出ない、どこで会ったか思い出せない、なんてことは、どうでもよいこと、たいした問題ではないから忘れるのだ。 

 変な譬えだが、部屋の中にガラクタがたまったら片付ける。そしていらないものを捨てるだろう。それと同じで、頭の中がいっぱいになったらゴミ出しをする必要がある。このゴミ出し作業が忘れることなのだ。そうして頭の中に隙間をつくり,新しい知識を入れる場所を確保することが大事だと思っている。 
 いま(平成25年8月7日)夢の配達人展が開かれている。会場で知り合いの人からどんなレタッチをしたのか聞かれ、記憶にあるレタッチの方法を説明した。ところが、その男はさらに、わたしの著書「字余りの人生」の画集を開いて執拗に質問するのである。その中で、わたしが「どうやったか忘れた」といった発言を気にとめ、「忘れないように記録を残していないのか」と詰るような視線を浴びせられた。
 いわれるように大事なことを忘れたでは済まない場合がある。しかしわたしは、「忘却」を味方にして、いままでの手法を忘れること(ゴミ出し)で、新しい手法を考えるのだと思うようにしているから、忘れることに対しての恐怖感はない。
 わたしは「忘却は老化ではない」と思っている。むしろ、忘れて頭の中に隙間ができたら、その隙間を埋める努力をすれば、「歳をとるってことは素晴らしいな、伊達に年をとっていない」と若者に尊敬される老人になれる。だから忘れっぽくなったと嘆くより、積極的に、「忘れる力」を利用しようと思いついた。
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by yumehaitatu | 2013-09-07 18:33 | やぶにらみ | Comments(0)

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