写真雑学35 「一日炭鉱夫」 渡辺澄晴   

チャンチキおけさ
 1958年の春、巷では立教大学からの大物ルーキー長嶋茂雄(現東京読売巨人軍終身名誉監督)が巨人軍に入団し、野球界に話題をまいていました。その年の春、勤務していた職場の慰安旅行で群馬の伊香保温泉行きました。当時流行っていた三波春夫のチャンチキおけさを文字通り小皿叩いて何度も繰り返し歌い騒いだ楽しいひと時でした。宴会が終わり二次会に入ってから、誰ともなく「近い時期に札幌にサービスセンターが開設される」「そこへ、この職場から誰か一人行く」「独身で25歳前後で健康であることが条件」など、二次会の議題?は人事異動の話しになりました。「誰が行くんだろう?」お互いに、おだでたり、慰めたり、けん制したりで話しは尽きなかった。当時、私は独身だったが歳は28。若く優秀なのが他に大勢いたから、勝手にこの人事は想定外と決め込み「おまえか!」「あいつか!」と、気楽に話題の輪に入っていました。

転勤辞令
 ところが、人事は難航していました。今では日帰り可能な札幌だが、当時は飛行機は部長以上という決まりだった。上野発の夜行列車に乗って20余時間。遠い寒い北海道は、島流しのように思っていた人が多かった。そんなことから、健康上や家庭の都合などの理由で候補者が次々辞退していたのです。
 伊香保の旅行から一週間後、部長に呼びだされた。課長も同席していた。「渡辺君!札幌に行ってくれないか?」ついに補欠の補欠にお鉢が回ってきた。「行かせていただきます。」即答だった。スキーが存分にでき、四季折々の風景が楽しめる。それに加え北海道にはカメラ雑誌で活躍している著名な写真家が大勢いる。中でも1950年代に土門拳が提唱した、リアリズム写真(絶対非演出の絶対スナップ)の影響をうけた社会派カメラマン「河又松次郎、掛川源一郎、及川清次郎という先輩方がいる。」「その人たちに会える。」そんな気持ちが先行していたので、札幌勤務には何のためらいもなく札幌転勤を受けました。
 
一日炭鉱夫
 1958年11月末、日本光学(現ニコン)札幌サービスセンターが大道りに面したテレビ塔の前にオープン。店内はカメラ・レンズ、顕微鏡、測量器、双眼鏡などのニコン製品が展示され、所長と私と現地入社の女性3人での船出でした。
 開店してから間もなく切望していたご当地の写真家の一人及川清次郎さんがセンターを訪ねてきました。幌内炭鉱に勤務の傍ら炭鉱の写真を雑誌に発表していた社会派カメラマンでした。いつも笑顔を絶えさず、ニコニコ接してくれました。ある日、及川さんに「炭鉱の中に入れないか?」。一般の人の入坑はできないことは承知の上で尋ねてみると、さすがの及川さんも顔をこわばらせ、「渡辺さん!潜ったら8時間は出られませんよ!」と脅してきた、「かまいません!」。こんなやり取りの後「それではニコンの測量器の坑内テストということで・・」となり、炭鉱入坑の許可をもらいました。
 入坑当日は朝8時、鉱夫の衣服に着替え、測量課長のK氏が同行してくれ及川さんと3人で一般の鉱夫と一緒に潜ることになりました。20人乗りのエレベータは耳が痛くなるほどかなりのスピードで500メートル降下。そしてトロッコ電車に乗って80メートル斜めに効果。下車して今度は暗い坑内をヘルメットに着いた懐中電灯を頼りに10分歩き、ようやく現場にたどり着きました。騒音と炭塵の舞い上がる地下580メートルの石炭堀の現場をつぶさに見てきました。滞在時間は4時間でした。
写真「28歳の筆者(左)と記事中の及川氏(右)」
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by yumehaitatu | 2012-04-07 23:10 | 写真雑学 | Comments(0)

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