やぶにらみ論法70 堀田義夫   

偶然との出会い
 写真の仲間たちが、君の作品の発想はどうして生まれるんだろう。あたまの中を見てみたい、俺にはそんな発想やイメージは全然湧かない。という声に褒められたのか、あきれて侮蔑されたのか悩む。 そんな仲間に、あるとき、撮影した原画から、作品に仕上げるまでの課程を披露したことがある。試行錯誤を繰り返す私の作業を見ていた仲間が、「なーんだ偶然か!」とがっかりした様子でした。
 確かに、多くの人は、偶然などというあやふやなものは信じないし、それに従わない、というのが普通です。もう40年くらい前の話ですが、仲間にフィルムを1本ずつ渡して、「無作為」に写真を撮ってくるように宿題を出したんです。そして、その中から10枚選んで出品することを申し合わせました。
 仲間の中には、首からカメラをぶら下げて、セルフタイマーをセットして、町をうろつく、その間にカメラが勝手にシャッターを切ってしまう。 あるいは夜の町を歩きながら、ストロボのチャージが完了したら、その瞬間、その位置で自分の姿勢も、カメラの方向や角度も、そのままの状態でシャッター切ったという人もいた。
「無作為」 というのはかんたんに言えば、デタラメに写真を撮ってこい!。あるいは、偶然に写った写真を持ってこい。すなわち、いままでの経験とは違って、写そうと意識しなかった被写体にレンズを向けることを要求したのです。そうした行為の中から新たな出会いを探ろうとしました。
 例会の当日、各自が写した写真を、ごちゃごちゃにして机の上に並べられました。きっと、誰の写真なのか
判らないだろうと思っていたのですが、案に相違して、ほとんどの作品がどの作家のものか判ったのです。
 昔のフィルム1本は36枚撮れたので、10枚提出する作業は作家自身です。その選ぶという行為に作家が持ち合わせている感性の働きかけがあるのです。だから、デタラメに写した、偶然に写った、という写真でも、みごとに個別化されているんです。なぜこんなことを仲間にやらせたかというと、いつも概念的に被写体を選び、それを見せ方上手に見せることを訓練していたってダメ!昨日より今日のほうが、経験を積んだはずなのだから経験的知恵を生かすことが大事だと考えたからです。
 日本近代詩の父といわれる萩原朔太郎は『音楽の演奏者や劇の俳優や職業カメラマンたちは技術者である。彼等は芸術家ではない。なぜなら、彼らは真に「創作」を持っていないじゃないか』というが私も枯渇した脳みそに期待するのではなく、創作のための手段として偶然を必然として捉えたい。「偶然」 は求めていた世界より、もっと大きな世界を教えてくれたり、気がつかない可能性を引き出してくれることがあると思っていたからです。 
 だから、偶然を信じて突き進めば、その先に新しい世界が広がる。偶然がもたらしてくれる未知な世界に遊び、好奇心の赴くままに作画を愉しむ、好奇心旺盛なら、面白いことに出会えると信じているからです。この姿勢が私の創作の根幹なのです。
<パラダイス>
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by yumehaitatu | 2012-03-03 22:18 | やぶにらみ | Comments(0)

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