写真雑学33 50年前のお話し 渡辺澄晴   

50年前のお話し
 1969年ニコンF一眼レフカメラが発売され、少し遅れてモーターでフイルムを巻き上げるモタードライブが付属品として発売されました。自動でフイルムを巻き上げができ、最高3駒/秒の撮影ができるというカメラは、当時としては活気的なものでした。 ところが、そのモータードライブに、トラブルが頻発したのです。その原因調査に1962年、現地法人ニコンINCに赴任を命じられました。
 日本の新聞社ではまだ、アメリカ製の大きなスピード・グラヒィクカメラ(スピグラ)が主力カメラでしたが、既に欧米では35ミリフイルムの小型カメラに変わっていて、モータードライブも大量に使われていました。会社の規則により、2歳になった長男と妻を日本に残しての単身赴任でした。当時は、1ドル360円。簡単に行ける時代ではなかったのです。
ハングリーな精神が・・・
 右も左も言葉もわからず、妻子を残しての赴任。FAXもメールもこの頃はなく、本社との連絡もはかどらず、思い通りに行かぬクレーム処理等々、ストレスは溜まるばかり。そんな折の週末。ニューヨーク・マンハッタンの中央を走る5番街を南に下った所にあるワシントン広場と、その広場を取り巻くグリニッチ・ビレジを発見しました。長い髪の女,あごひげの男。ここにたむろする人たちと周囲の風変わりな店並にすっかり魅せられ、週末になるとカメラを持って通うようになりました。ニューヨークに来て半年が過ぎた頃でした。タイミングのいいことに、日本では「ワシントン広場の夜は更けて」の歌が流行していました。「これはいける」。何とかまとめて日本に帰ったら写真展をやりたい。撮影意欲は日を追っ高くなりました。
平パンチの創刊号 
 東京オリムピックの年を迎えた1964年4月。ニューヨークに来てから、間もなく親しくなり、何かとお世話になっている彫刻家の斉藤夫人から「紹介したい人がいるから、ワシントン広場の若者を取材した写真を持ってきてください。」と、電話を受けました。以前、夫人が勤めていた平凡出版社(現マガジンハウス)の明星の編集長・清水氏と、その日の夜、斎藤家でお会いしました。〈清水氏は後にマガジンハウスの社長・会長になった方でした。〉「若い男性向けの週刊誌を考えているので、そのグラビアにワシントン広場の若者たちを取り上げたいから・・・」という趣旨の話を受けました。持参したアルバムを清水氏に見せたところ、「これでトップのグラビアは決まり」と言って、その中から10点ほど抜き取り東京に持ち帰りました。
 1964年5月11日、男性週刊誌・平凡パンチが創刊され、「ワシントン広場の若者たち」というタイトルでグラビアトップ5ページで掲載。「静かな街の片すみに・・ワシントン広場の夜は更けて・・」と、歌詞も載っていました。ちなみにこの平凡パンチの創刊号は、神田の古本店で2万円の値がついています。(当時50円)
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by yumehaitatu | 2011-12-04 09:27 | 写真雑学 | Comments(0)

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