やぶにらみ論法59 異端の徒 堀田義夫   

 昨年ハマ展が、横浜開港から150年という節目を迎えて、会期中に「トークショー」を行うということになった。ハマ展に対して積極的に協力してきた実績はない。それなのにどうしたことか写真部を代表して講演者として選ばれてしまった。 
 そうした私のことを周囲は異端の徒というが、自分では決してそうは思っていない。健全な常識人であり、協調性もあるし仲間も多い。「鬼の堀田」という人もいるが実は「仏の堀田」が正しい。
 その私を、仲間たちは「異端の徒」というのが解らない。そこで本稿では、私の写真に対する考えを披露して、「異端者」という汚名を払拭したい。
1番目は、【写真を生業としない】
 写真で飯を食うためには、クライアントやアシスタントディレクターの声が、聞こえてきそうな写真だって撮らなくてはならない。
よくよく考えれば、わたしは写真が好きなんじゃなくて、カメラというメディアの持つ工学的・物理的な作用を借りて、自分の心の郷愁を写すことができることに魅力を感じているのだ。           
2番目は、【枠に縛られない】
 「マニュアルの通りに生きて落ちこぼれ」という川柳があったが、マニュアル通りにやれば、いい作品が生まれるかといえば、そうとは思っていない。
 俳人の金子兜太氏の作品を読むと「どうやったらこんな俳句が作れるんだろう? と思ってしまう。そう思う反面、まねをしようとは思わない。というか絶対まねはできないと思う。
 それは言葉の出所が違うからだ。ふつう先生や先輩から「こんな風に書いては、ダメ!」と教えられるようなことを全部やっている。
しかも、それで名句を作ってしまう。マニュアルから外れても、人びとから共感を得られるような作品が生まれればよいのだ。
3番目は、【自分を楽しませる】
 そのためには、「人から褒められたい」という気持ちを捨てることだ。人に褒められようと思うと、見る側の好きに合わせることになる。
そうではなく、自分が楽しめることが第一なんです。自分が楽しいと思わないものを、どうして人が楽しいと感じてくれるだろうか、まず自分が面白いと思うような仕事をすることが大切だ。
 エッセイストの落合恵子さんも、【世の中は異端の徒でないと時代を切り開いて行くことはできない。時代を変えられるのは異端の徒である。異端の徒の精神を支えるのは「夢」であり、その「志」である】といっている。
そうか!俺は「異端の徒」と呼ばれたら、表現者への賛辞だと思えばよいのか。そう気づいたら急に汚名返上などと言い訳している自分が滑稽に思えた。
f0018492_18445199.jpg

by yumehaitatu | 2010-05-02 18:37 | やぶにらみ | Comments(0)

<< まどろみ 原田一郎 風の強い日 横田千露 >>